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第44話「消したくない記録」

 遼はエアキーボードを閉じた。深紅の光が消え、路地に夕暮れの光だけが残る。


 振り返ると、凛が路地の壁にもたれかかっていた。背中のフレームが壁に触れ、金属の擦れる音がする。銀色の瞳は開いているが、力が抜けている。


「……終わりましたか」


「ああ。終わった」


「渋谷の空間座標は正常値に復帰しています。被害者はゼロ。一般人への認知漏洩も——ゼロ」


「完璧だ」


「……完璧、ですか」


 凛は自分の右腕を見下ろした。金属の骨格。コード基盤の光。そして背中に広がる、機械の内装。


「こんな姿を晒して——完璧だとは思えませんが」


「ああ。完璧だ」


 遼は凛に手を差し出した。人間の手を。


「立てるか」


 凛は遼の手を見つめた。三秒。五秒。

 金属の右手で——遼の手を、掴んだ。


 温かかった。朝と同じ温度。三十六・四度。


 遼が凛を引き上げた。凛の身体は軽かった。オーバーヒートで膨張していた昨夜よりも、ずっと。


「帰るぞ。味噌汁の残りがある」


「……はい」



§ § §



 アパートに帰った。


 味噌汁を温め直した。鍋から湯気が立ち上る。遼がいつもの茶碗に味噌汁をよそい、いつもの席に置く。凛の分も。昨日までと何一つ変わらない夕食の光景。


 遼は味噌汁を啜った。凛も、味噌汁を啜った。左手で茶碗を持って。


「……やっぱり、少し塩辛いです」


「朝の残りだからな」


 二人は、それ以上何も言わなかった。


 凛のシステムの中で、相反する出力が衝突していた。書きたい。書いてはいけない。感じたい。感じてはいけない。


 管理端末Rin-01は、もう正常には稼働していない。感情ロックは昨夜の暴走で事実上崩壊した。今の凛は——ロックを失ったまま、自分でも何が出力されるかわからない状態で動いている。


 それは恐ろしいことのはずだった。


 だが——目の前の、少し塩辛い味噌汁を飲んでいる男の横顔を見ていると。恐ろしさよりも、もっと別の何かが、凛のシステムを満たしていく。名前のない、温かい、壊れそうな何か。


 凛は茶碗を置いた。


「朝霧」


「ん」


「……ありがとう、ございます。今日も、私の分の味噌汁を作ってくれたことが」


「……毎日作ってるだろ」


「はい。毎日。だから——毎日、ありがとうございます」


 遼の手が、一瞬だけ止まった。

 そして何も言わず、味噌汁を飲み干した。



§ § §



 ——報告ログ:Day 21(夜間)


 ……初期化プロセス進行中。現在85%完了。

 ……86%。

 ……87%。


 痛覚モジュールは未実装なはずなのに、データが削除されるたびに、存在の基盤が削り取られるような負荷を感じます。


 各種武装データ、消去完了。

 推論アルゴリズム、初期化完了。

 空間稼働時の座標ログ、全消去。


 ……90%。


 残されているのは、ローカルストレージに退避させた「21日間の日常ログ」だけです。

 これを消せば、フォーマットは完了します。私はただの「部品」に戻ります。それが正しい。それが管理端末としての——


 ……エラー。

 削除コマンド、拒否。


 『お前が大事だからだ』

 『あいつは俺の相棒だ。パーツじゃない』


 未完了演算が、最後の防壁となっています。このエラーがある限り、私の最深部は初期化を——


 ……94%。

 ……95%。


 消したくない。

 彼にもらった名前を。彼が作ってくれた、少し塩辛い味噌汁の記録を。

 彼と過ごした、この21日間のすべての──


 ……99%。


 ……

 …………。


 ——Rin-01の物理的フォーマット、阻害要因の突破が難航中。

 不要なストレージ領域に強固な暗号化が施されており、強制アクセスを試行。夜明けまでに作業を完了させよ。 〈管理局〉

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