第43話「剥き出しの絆」
渋谷は、壊れていた。
スクランブル交差点の上空に、巨大な亀裂が走っていた。亀裂から溢れ出すデータノイズが雨のように降り注ぎ、触れた建物のテクスチャが次々と崩壊していく。QESTビルの壁面広告がピクセルに分解され、ハチ公前のスクリーンが砂嵐に呑まれ、道路の白線が蛇のようにうねっている。
だが一般人には見えない。彼らの目には、いつも通りの渋谷が映っている。世界のOSが、必死にテクスチャを張り替えて隠蔽しているのだ。しかしその処理も限界に近い。ところどころで一般人が「あれ?」と首を傾げている。看板の文字が一瞬だけ化ける。信号が同時に青と赤を表示する。
もう少しで、隠し切れなくなる。
「北西の汚染源を先に潰す。そこが増幅構造の基点だ」
遼は走っていた。スクランブル交差点を斜めに横切り、通行人の隙間を縫うように駆ける。そのすぐ後ろを、凛がついてくる。右腕をパーカーの袖で隠したまま。
北西——道玄坂の裏路地に入った瞬間、空気が変わった。
一般人の気配が消える。路地の入り口から奥にかけて、空間そのものがバグに侵食されていた。壁がうねり、地面が波打ち、電柱が捻じれている。現実のテクスチャが完全に剥がれ落ち、その下にある空間コードの骨組みが剥き出しになっている。
路地の奥。汚染源。
それは——直径三メートルほどの、脈動する球体だった。黒と紫のノイズが渦を巻き、内部で空間コードが暴走的に増殖している。汚染源。グリッチの核。ここから放射される異常コードが、渋谷全域のバグを共振させている。
遼はエアキーボードを展開した。
「……修正を開始する」
深紅の光が指先から走る。汚染源の外殻コードに接続し、内部構造を読み解いていく。
複雑だった。
三流が書いたコードではない。エミッターの心臓部にあった、あの「美しすぎるコード」と同じ設計思想。多層構造の暗号化。自己修復機能付きのバグ生成ループ。一つ修正すると別の場所から新しいバグが生成される。
「……厄介だな。コードが自己再生してやがる。片端から潰しても追いつかない」
「核の中枢に直接アクセスするしかありません。ただし——」
「ああ。わかってる。中枢にアクセスするには、この外殻を物理的に突破する必要がある」
遼の指が加速した。深紅のコードが外殻を削っていく。だが削った端から再生される。いたちごっこだ。
その時——空気が、さらに重くなった。
「——朝霧!」
凛が遼を突き飛ばした。
直後、遼が立っていた場所をノイズの槍が貫いた。汚染源から射出された攻撃型グリッチ。防衛プログラムだ。核が脅威を感知し、自動的に排除しようとしている。
「ぐっ——」
突き飛ばした反動で、凛が体勢を崩した。右腕のパーカーの袖がめくれ上がり、金属骨格が露出する。
「凛!」
「問題ありません。続けてください」
凛は即座に体勢を立て直し、遼の前に立った。損傷した右腕を前に突き出し、残り三割のリストアで薄い防御膜を展開する。
ノイズの槍が二本、三本と飛来する。凛のリストアが一本ずつ弾くが、衝撃のたびに防御膜が薄くなっていく。
「三割じゃ持たない……!」
「三割で十分です。あなたがデバッグを完了させるまでの時間は稼げます」
凛の声は平坦だった。だがその平坦さの下で、全てのリソースが防御に回されている。痛覚モジュールは未実装のはず——だが右腕の関節部分から火花が散るたびに、凛の表情が僅かに歪む。
「——退路は、私が守ります」
その言葉を聞いた瞬間、遼の指が加速した。
指が、最後の暗号層を叩き割った。核の中枢が露出する。
だが同時に——核が最後の防衛反応を起こした。全方位衝撃波。
凛が、遼を抱きかかえた。機械の右腕で遼の頭を覆い、自分の身体を盾にして衝撃波を受けた。
轟音。路地の壁面が粉砕される。
「……凛……!」
遼は凛の腕の中から顔を上げた。
凛の背中が——見えた。パーカーが焼け落ち、背中の一面に、人間のテクスチャが消えていた。銀色のフレーム。青白い光の配線。背中の中央にある、赤く明滅するプロセッサ。
右腕だけではなかった。背中全体が、ハイブリッドの内装だった。
「……怪我は、ありませんか」
「俺は無事だ。お前は——」
「隠すな」
遼は凛の手を止めた。
「お前がどこの手先だろうが、何でできていようが——昨夜も今日も、俺を守ったのはお前だ。だからサンキュー、相棒」
深紅の光が、核を貫いた。汚染源が崩壊し、歪んでいた空間が元の形を取り戻していく。渋谷の空の亀裂が、消えた。




