第42話「崩壊する渋谷」
§ § §
味噌汁を二人で飲んだ。
いつもの茶碗。いつもの席。遼が多めに入れた油揚げの味噌汁と、目玉焼きと、半額で買ったメンチカツの残り。
凛は右手が使えないため、左手で箸を持った。不器用な動きだった。金属の右腕がテーブルの上で、朝日を反射して光っている。
遼はそれを一度も見なかった。正確には、見ていたが、何の反応も示さなかった。目玉焼きに醤油をかけ、メンチカツを齧り、味噌汁を啜る。いつも通り。完璧に、いつも通りだった。
「……少し、塩辛くないですか」
「手が滑った」
嘘だ、と凛のシステムが判定した。遼の調理技術でこの程度のミスは発生しない。おそらく——一睡もしていない人間の手が、味噌の量を誤っただけだ。
だが凛は指摘しなかった。
少し塩辛い味噌汁の味を、センサーが記録している。この味は——たぶん、忘れない。
§ § §
食後。遼はソファに深く座り、天井を見上げていた。
昨夜の出来事が、頭の中で反芻を続けている。
パッチワークスの女。偽装された佐藤。クロノスが遼の記憶を削ったという言葉。妹。花柄のヘアゴムの主。ノイズに塗り潰された写真の少女。
そして——凛のハイブリッド。
全てが一度に押し寄せて、整理がつかない。だが一つだけ、遼の中ではっきりしていることがある。
凛は、遼を守るために壊れた。
あの女の言葉を——「妹」に関する情報を遼に聞かせまいとして、リストアの出力限界を超えた。その結果、右腕のテクスチャが崩壊し、ハイブリッドであることが露見した。
なぜ凛がそこまでしたのか。合理的な説明がつかない。端末にとって、情報の開示は任務の範疇だ。聞かせまいとする理由がない——論理的には。
だが凛は止めた。身体を壊してでも、止めた。
(あいつは……俺に何を隠してるんだ)
あの女の最後の言葉が、脳にこびりついている。「あなたの相棒は、あなたに隠していることがある」。
目を閉じると、凛の銀色の瞳が浮かぶ。「格納されていません」と言い淀んだ瞳。あれは——嘘ではなかった。だが全てでもなかった。凛は何かを知っていて、遼に伝えられなかった。
システムの制約なのか。命令なのか。それとも——凛自身の意思なのか。
凛への疑いが、胸の中でちりちりと燃えている。
だが同時に——あの右腕が。人間テクスチャの下から露出した金属の骨格が、遼の目に焼きついている。あの腕で、凛は遼を守った。
疑いと信頼が、同時に存在している。矛盾している。プログラムなら弾く。だが人間の心は、矛盾を抱えたまま動く。
「……凛」
「はい」
凛はソファの反対側に座っていた。右腕を長袖のパーカーに隠して。
「聞きたいことがある。だが今はいい」
「…………」
「お前が話せるようになった時でいい。待つ」
「……はい」
§ § §
午後三時。
それは、唐突に来た。
チリッ——という静電気が、全身を刺した。昨夜と同じ前兆。だが規模が違う。肌が粟立つどころではない。空気全体が、粘度を持ったかのように重くなった。
「……凛!」
「——検知。渋谷区全域に大規模なグリッチ発生。レベル……四、以上。空間座標が広範囲にわたって書き換えられています」
凛の瞳が高速で明滅する。損傷しているはずのシステムが、緊急モードで覚醒していた。
「レベル四……!?」
「正確にはレベル四の複合型。複数のグリッチが同時に、連鎖的に発生しています。自然発生ではありえない。人為的な——」
「パッチワークスか」
「遼の声が低くなった」
エアキーボードが展開される。深紅の光がリビングを染めた。遼の指が宙を走り、渋谷区の空間コードをリアルタイムで読み取っていく。




