第41話「ノイズの向こう側」
目覚めた時、最初に聞こえたのはキーボードを叩く音だった。
規則的で、速く、迷いのない打鍵。深紅の光が天井に反射して、不規則なパルスを刻んでいる。
凛の瞳が開いた。
視界がノイズの向こうからゆっくりと立ち上がる。天井。白い壁紙。見慣れた——遼のリビングの天井だ。自分はソファに横たわっている。毛布がかけられていた。遼のベッドから持ってきたものだ。匂いでわかる。
頭が重い。メモリの七割がアクセス不能。リストアの出力経路は完全に焼き切れている。左腕は正常だが、右腕は——
凛は右手を持ち上げた。
人間のテクスチャが消えていた。
手首から肘にかけて、銀色の金属骨格と青白いコード基盤が剥き出しになっている。自己修復プロセスは動いているが、進捗は十二パーセント。完全復元には推定七十二時間以上。それまでこの腕は——機械のままだ。
「……起きたか」
声。遼の声。
凛が顔を向けると、ローテーブルの前に遼が座っていた。エアキーボードを展開したまま、深紅の光に照らされた顔で凛を見ている。
目の下に濃い隈。髪は乱れ、Tシャツの襟元がよれている。一睡もしていない顔だった。
「……朝霧。あなたは——」
「動くな。まだシステムの再起動が完了してないだろ」
凛は動きを止めた。遼の声に、いつもの皮肉な余裕がない。低く、静かで、有無を言わせない響き。
「メモリの焼損箇所を、デバッグで片っ端から修復した。コアの周辺だけだが、応急処置はしてある」
凛の瞳が明滅した。自己診断プログラムが走る。確かに——コア周辺の損傷度が、シャットダウン直前の記録よりも大幅に改善されている。焼き切れたリストアの出力経路にも、仮設のバイパスが構築されていた。
世界のバグを直す男の手で、凛のシステムが修繕されている。
「……デバッグは、世界に対してしか適用できないはずです」
「お前も世界の一部だろ」
軽い口調だった。だがその短い一文を出力するまでに、遼の指がキーボードの上で一瞬だけ止まっていたことに、凛は気づいていた。
「お前の右腕」
遼がエアキーボードを閉じた。深紅の光が消え、リビングが朝の弱い光だけに戻る。
「昨夜、見た」
「…………」
「金属の骨格。青く光るコード基盤。人間のテクスチャの下にあったもの」
凛は右腕を毛布の下に隠そうとした。
遼の手が、それを止めた。
凛の機械の手首を——銀色の金属骨格と、コードの光が走る関節を——遼の掌が、静かに包んだ。
凛の全身が硬直した。
温かい。人間の手は、温かい。金属の表面を通して伝わる体温が、凛のセンサーに数値として入力される。三十六・四度。人間の平均体温。データとしてはただの数字だ。
だが凛のシステムは、その数字を処理できなかった。
「相棒の腕がどんな素材でできてるかなんて、俺にはどうでもいい」
遼は凛の右腕を放さなかった。
「肉だろうが金属だろうが、昨夜俺を庇って壊れかけたのは、この腕だ。それだけわかってりゃ十分だ」
「——朝霧」
「サンキュー。昨夜はお前のおかげで助かった」
凛の瞳の明滅が、止まった。
銀色の虹彩の中で、遼の顔が映っている。目の下に隈を作って、乱れた髪のまま、ぶっきらぼうに礼を言う男の顔。




