第39話「朝霧由乃」
音が消えた。
遼の鼓膜から、世界の全ての音が抜け落ちた。心臓の鼓動すら聞こえない。
「……妹」
「ええ。あなたには妹がいた。朝霧、という姓の」
妹。
その二文字が脳に届いた瞬間、奥歯の根元から頭頂部まで電流が走った。
空っぽの卵パック——誰かが先に使った痕跡。花柄のヘアゴム。二人分の食器。二人分のプリン。淹れてもらったコーヒーの温度。空き部屋の、綺麗に掃除された床。
全部。全部、繋がる。
俺には——妹が、いた。
「クロノスはあなたの特異なデバッグ能力に目をつけた。家族という繋がりは、猟犬として運用するには邪魔だった。だから切り離したの。記憶を削って、妹の存在ごと」
「嘘を——」
「嘘じゃないわ。あなたの中にある空白に訊いてみなさい。その空っぽの部屋は、誰の部屋だった?」
遼は答えられなかった。答えられないことが、答えだった。
「妹さんは生きてるわよ。クロノスの深層施設に、ね。なぜ彼女が隔離されているか——それは」
「黙りなさい」
凛の声だった。
遼と女の間に、凛が立っていた。いつ動いたのか、遼には見えなかった。
銃は抜いていない。だが凛の全身から、遼が初めて見る種類の気配が滲み出していた。昨夜スーパーで銃を抜いた時の衝動的な殺意ではない。もっと深い場所から湧き上がる、静かで、冷たく、揺るぎない拒絶。
「これ以上の情報開示は許可できません」
「あら。私に言ってるの? それとも——自分に?」
女が目を細めた。
「ねぇ、Rin-01。あなた自身のデータベースを検索してみなさいよ。『朝霧由乃』で」
凛の身体が、硬直した。
「な——」
「検索したでしょう? ヒットしなかったでしょう? でも、不思議じゃない? あなたのデータベースには全市民の識別データが格納されているはず。なのに、たった一人分だけ、綺麗に消されている。誰が消したのかしら。誰の権限で?」
「……やめなさい」
凛の声が震えていた。
「やめなさい。これ以上は——」
「クロノスよ。あなたの主人が、あなたに嘘をつかせてるの。『格納されていません』——さっき、あなたが言った言葉。嘘じゃないけど、本当でもない。あなたはそれを知っていて、言い淀んだ。システムには存在しない反応をした。なぜだと思う?」
凛の銀色の瞳が、激しく明滅した。
遼は凛の背中を見ていた。小さな背中。パーカーの裾が震えている。凛のシステムの中で、何かが壊れかけている音が——遼には聞こえた気がした。
「もう一つ教えてあげる」
女が、最後の一枚を切るように告げた。
「妹さんがクロノスに隔離された理由。それは彼女のデータが——」
凛が、動いた。
銃ではなかった。
凛の右腕から、銀色の光が爆ぜた。リストアのコード——だが、遼が知っている防御や修復のそれではない。凛のシステムが出力限界を無視して放った、暴力的なまでの空間干渉。女が書き換えたアパートの空間コードを、力任せに引き剥がしにかかっている。
「——排除します」
凛の声は平坦だった。だがその平坦さの下で、全てが軋んでいた。
女が目を見開いた。
「……管理端末がこの出力を? 感情ロックが——」
凛の右腕の袖が裂けた。
その下にあったのは、人間の肌ではなかった。
銀色の金属骨格。青白く光るコード基盤。人間のテクスチャの下から露出した、機械の内装。
遼の目が、見開かれた。
「凛……お前の、腕……」
凛は振り返らなかった。遼に見せまいとするように、右腕を女に向けたまま——リストアの出力を上げ続けた。
空間が軋む。女の偽装領域と、凛のリストアが真正面からぶつかり合い、部屋の壁が波打ち、天井のテクスチャが剥がれ、現実と虚構の境界が溶けていく。




