第38話「パッチワークスの影」
§ § §
それから数時間。
遼はリビングのソファで仮眠を取り、凛が淹れたコーヒーで目を覚ました。苦味と酸味のバランスは前回よりも整っている。学習している。データベースではなく、遼の反応から。
遼がコーヒーを飲みながら、改めてエアキーボードを展開しようとした時だった。
チリッ、と。
肌を刺すような静電気。部屋の空気が、一瞬だけ歪んだ。
遼の全身が強張った。この感覚を知っている。空間のコードが書き換えられる時の、あの不快な前兆。
「……凛」
「検知しました」
凛がソファから立ち上がっていた。銀色の瞳が高速で明滅し、空間をスキャンしている。
「空間座標に異常を確認。この部屋の設計図が、外部から上書きされています」
遼がエアキーボードを展開する。深紅の光が指先から走り——途中で、弾かれた。
「アクセスが拒否された……!? 空間のコードに、俺のデバッグ権限が通らない」
「正確には、この空間の管理者権限が書き換えられています。現在この部屋は——世界のルールから切り離されつつあります」
壁紙が波打った。本棚の輪郭がぶれ、フローリングの木目がピクセル単位で崩壊と再構築を繰り返す。現実のテクスチャが剥がれ、その下から見慣れない空間コードが透けている。
遼のアパートが、内側から侵食されていた。
「——御機嫌よう」
声は、閉ざされた玄関の向こうから。ドアをすり抜けるように——いや、ドア自体の存在データを書き換えて「最初からなかった」ことにして、女が部屋に入ってきた。
昨夜、スーパーで消えた女。
だが今日の姿は、佐藤ではなかった。ポニーテールも眼鏡もエプロンもない。長い黒髪が背中に流れ、切れ長の目が猫のように細められている。身に纏っているのは露出の多い黒いボディスーツ。纏う空気が、根本から違う。偽装を脱いだ、本来の姿。
「昨日は随分と歓迎してくれたわね。銃を向けられるなんて、久しぶりだったわ」
女は楽しそうに凛を見た。凛はパーカーの裾の下で銃のグリップに手をかけている。
「名を名乗れ」
遼が低く言った。
「あら。レジの佐藤さんじゃ不満?」
「お前が何者で、何が目的だ」
「せっかちね」
女は壁にもたれかかった。遼のアパートの壁に——だが、その壁はもう遼の部屋のものではない。テクスチャが女の背中に合わせるように歪み、まるで最初からそこが女の居場所だったかのように馴染んでいる。空間ごと、この女の偽装に呑まれている。
「名前は——そうね、今はまだいいわ。ただ、あなたたち組織の猟犬が『パッチワークス』と呼んでる連中の関係者、とだけ言っておく」
「パッチワークス」
遼の目が鋭くなった。エミッターの黒幕。バグを利用したテロを企てる勢力。クロノスと敵対する存在。
「あなたに伝えたいことがあって来たの」
女の視線が、遼の背後——自室のモニターに向いた。まだ表示されている、ノイズで顔を塗り潰された少女の写真。
「その写真、見つけちゃったのね」
「……何を知っている」
「全部よ」
女は遼に向き直った。笑みが消えた。冷たい目ではあったが——そこに、奇妙な種類の真剣さがあった。
「いい? 朝霧遼くん。あなたが記憶を失い続けているのは、デバッグの代償なんかじゃないわ」
「……何だと」
「あなたの記憶を削り、その子の顔を認識できなくし、あなたの人生から——妹、という存在を消し去ったのは」
女が、一語一語を刻むように言った。
「あなたの大切な相棒が所属している、クロノスよ」




