第37話「アクセス拒否」
朝になっても、遼はモニターの前から動けなかった。
画面の中で、灰色のノイズに塗り潰された「誰か」が、遼の手を握ったまま沈黙している。遊園地。観覧車の前。笑っている自分。そしてノイズの向こうの——顔のない、誰か。
何度拡大しても、何度コントラストを変えても、その灰色は剥がれない。デバッグの要領で画像データのコードに直接干渉することも試みたが、ノイズの部分だけが異質だった。通常の画像破損ではない。意図的に、極めて高度な手段で、その一箇所だけが削り取られている。
つまり、誰かがわざと消した。
遼はモニターを見つめたまま、ポケットの中のヘアゴムに触れた。花柄。ピンク。小さなサイズ。この手と——写真の中で握られた小さな手と、同じ人間のものだ。身体が覚えている。理屈ではなく、掌の温度が覚えている。
「……誰なんだ、お前は」
返事はない。
リビングから、微かに気配がした。凛がスリープモードから戻ったのだろう。昨夜のスーパーでの一件——銃を抜いた衝動の処理に、相当なリソースを消費したはずだ。
足音。最近は聞こえるようになった、小さな足音。
「朝霧」
自室のドアの前に、凛が立っていた。パーカーの裾を片手で握りしめている。珍しい仕草だった。
「……昨夜から、ずっと起きていましたか」
「ああ」
「食事を摂取していません。推奨——」
「凛」
遼は椅子を回して、凛に向き直った。
「見てくれ」
モニターを指差す。遊園地の写真。ノイズで顔を潰された少女。
凛は部屋に入り、モニターの前に立った。銀色の瞳がデータを走査する。一秒。二秒。三秒。
「……この画像ファイルは、あなたのローカルストレージの最深部から検出されたものですか」
「ああ。暗号化されて埋められてた。俺がデバッガーになる前のタイムスタンプだ」
「…………」
「この子は、誰だ?」
凛の瞳の動きが——止まった。
遼は見ていた。凛の銀色の瞳がデータベースを検索する時の、あの高速な明滅。いつもなら零コンマ数秒で結果を返すはずの照合処理が、今は動いていない。瞳が、止まっている。
「……凛?」
「…………」
沈黙。
三秒。五秒。十秒。
凛は口を開いた。
「データベースに——」
そこで、止まった。
「存在しません」。その四文字を出力すれば済む。凛のシステムにとっては、たった四文字の音声出力だ。データベースに該当なし。照合結果ゼロ。事実を事実として報告する。それだけのことだ。
なのに——出てこない。
凛の唇が、僅かに震えていた。開きかけて、閉じて、また開きかける。言葉を探している。データベースの中ではなく、自分の中で何かと戦っている。
遼が凛を見ていた。モニターの青白い光に照らされた遼の顔。目の下に濃い隈ができている。一晩中写真を見つめ続けた目。その中にある感情は——怒りでも焦りでもなく、途方もない、剥き出しの「喪失」だった。
泣きそうな顔だ、と凛のシステムの何処かが出力した。
その出力が、凛の音声合成を止めていた。「存在しません」と言えば、この人の最後の手がかりを断つことになる。事実を述べるだけだ。システムの義務だ。だが——
「……この画像の人物に関する情報は」
凛の声が、いつもより低かった。
「私のデータベースには、格納されていません」
「存在しません」とは、言わなかった。
「格納されていません」。自分のデータベースに《《ない》》と述べただけだ。世界のどこにも存在しないとは、言っていない。その差は、論理的には同義かもしれない。だが凛のシステムが選んだのは、可能性を零にしない表現だった。
嘘はついていない。だが、事実の全てを述べてもいない。
それは——システムには存在しないはずの、「言い淀み」だった。
遼は凛の顔を見つめた。凛は目を逸らさなかった。逸らせなかった。
「……そうか」
遼の声に、責める色はなかった。
「ありがとう。調べてくれて」
「……いいえ。お役に立てず——」
「いや」
遼は小さく首を振った。
「お前が、少し黙ってくれたことが。今は、助かった」
凛の瞳が揺れた。遼がそれを見ていたかどうかは——わからない。




