第36話「ノイズに消えた手」
§ § §
凛がスリープに入ったのを確認してから、遼は自室に戻った。
ノートパソコンを開く。画面の光が暗い部屋を青白く照らした。
あの女。佐藤。いや、佐藤という名前すら偽物だ。
遼の名前を知っていた。野良デバッガーであることも。エミッターを解析していたことも。そして凛を「組織の部品」と呼んだ。
全部、知っていた。最初から。
遼は半額弁当を一人で買っていた頃を思い出した。凛が来る前。あの頃からあの女はレジに立っていた。遼が世界のバグを直し始めるよりもずっと前から——あるいは、遼がこのアパートに越してきた時から。
監視されていた。日常の中に溶け込んだ偽装によって、最初からずっと。
(……俺の過去にも、何か仕掛けられてるんじゃないのか)
記憶が欠落している。デバッグの代償で、いくつもの記憶が穴だらけになっている。その穴の中に、誰かが何かを隠しているとしたら——遼自身には確かめる術がない。
いや。一つだけある。
遼はエアキーボードを展開した。今度はデータの解析ではない。自分自身のローカルストレージ——このパソコンに保存された過去のデータ全てに対する、深層スキャンだ。
深紅の光が指先から走る。ファイルシステムの最深部にアクセスする。隠蔽されたフォルダ、破損したレジストリ、暗号化された領域。普段は触らない——触る理由がなかった場所を、力任せにこじ開けていく。
十分。二十分。三十分。
凛の静かな呼吸が、リビングから微かに聞こえる。深夜のアパートに、キーボードを叩く音だけが響いている。
ピッ、と。
スキャンプログラムが、一つのファイルを吐き出した。
高度に暗号化された画像ファイル。更新日時は——遼がデバッガーとしての生活を始めるよりも前。記憶が曖昧になっている時期のタイムスタンプ。ファイル名は文字化けしており、通常のアクセスでは表示すらされない深度に埋まっていた。
遼の指が止まった。
心臓が、嫌な速さで打っている。
暗号を解く。十重二十重のロックを、デバッグの要領でこじ開ける。コードが砕ける。レイヤーが剥がれる。最後のロックが外れた。
モニターに、一枚の写真が表示された。
背景は遊園地。観覧車の前。晴れた日。
写真の右側に、今より少しだけ幼い顔つきの——笑っている遼がいた。
屈託のない笑顔。こんな顔で笑えていた時期が自分にあったのかと、他人の写真を見ているような気持ちになる。
そして。
遼の左手は、誰かの手を握っていた。
自分より小さな手。細い指。
その手の先にいるはずの人物の顔は——
灰色のノイズに、塗り潰されていた。
デジタルノイズ。バグ。写真の中で、その一箇所だけが壊れている。首から下は見える。遼より背が低い。制服のような服。小さな手。だが顔だけが、まるで誰かが意図的に削り取ったかのように、ノイズの向こうに消えていた。
「…………」
遼はモニターに顔を近づけた。
知っている。この手を知っている。この温度を知っている。
空っぽの卵パック。二人分の食器。花柄のヘアゴム。誰かに淹れてもらったコーヒーの温度。冷蔵庫に入っていた、二人分のプリン。
全部——この手の持ち主に繋がっている。
「誰、だ……」
声が掠れた。
思い出せない。名前も、顔も、声も。なのに身体が覚えている。この手を握った感覚が、掌に焼きついている。大事な手だ。絶対に離してはいけなかった手だ。
なのに——離してしまった。いつ、どこで、なぜ離したのかすら、思い出せない。
胸の奥で、何かが軋んだ。
肋骨の痛みではない。もっと深い場所。デバッグでは触れない場所。心臓を内側から握り潰されるような、重く、冷たく、途方もない——喪失。
写真の中で、遼は笑っている。ノイズに塗り潰された誰かの手を握って、幸せそうに笑っている。
なぜ笑えていたのか。
誰と一緒だったから、あんなふうに笑えたのか。
答えは、灰色のノイズの向こう側にある。
遼はモニターの前で、長い間動けなかった。
リビングから、凛の静かな呼吸が聞こえている。規則正しい、穏やかなリズム。
深夜のアパートに、二人分の気配がある。
だが遼が探しているのは、三人目の——ノイズの向こうに消えた、誰かの温度だった。
§ § §
——報告ログ:Day 17
本日、重大事象が発生しました。
スーパーマーケットにおいて、長期間にわたり対象を監視していたと思われる正体不明の異能者と接触。当該人物は店員「佐藤」として偽装し、対象の個人情報及び活動内容を把握していました。
異能は偽装——存在認識データの改竄。接触後、ノイズに変換して消失。追跡不能。
当該人物は先のエミッター事件の背後にいる第三者と同一人物である可能性が高く、調査課に詳細分析を依頼済みです。
……
また、報告すべき事項がもう一つあります。
接触時、私は管理端末の規定プロトコルを逸脱し、民間空間において銃火器を展開しました。脅威分析の完了を待たず、衝動的に武器を出力した事実を認めます。
この衝動の発生源を特定できません。
Day 12の未完了演算、Day 15の未知のプロセスに続き、三度目の原因不明のシステム異常です。
……前回の報告で「省略する」と記載した任務外情報を、一つだけ追記します。
先日、対象が私に星座の名前を教えました。ベランダの手すりに寄りかかって、空を指さして。「あれが北極星で、あっちがカシオペア」と。
私のデータベースには全天八十八星座のカタログが格納されていますが、対象の説明を聞いている間、データベースの参照を停止していました。
理由は——データベースを参照するより、対象の声で聞く方が——
この一文は削除します。
報告は以上です。
——Rin-01の感情ロックに致命的なクラックを確認。衝動的武器展開はフェーズ2の管理端末として許容限界を超える逸脱である。
次回定期診断時にロックの再構築を実施する。また、偽装型異能者の身元特定を最優先とし、対象の警戒レベルをBからAに引き上げる。 〈管理局〉




