第35話「エラーの正体」
偽装。存在そのものを偽る異能。
凛が銃を構えたまま硬直している。銀色の瞳が高速で空間をスキャンしているが、追尾対象はもうどこにもいない。
同時に——周囲の音がどっと戻ってきた。BGM。レジの電子音。客の話し声。
「あのー、お次のお客様?」
いつの間にか、レジには見知らぬ中年のパート従業員が立っていた。「佐藤」という名札は、この店のどこにも存在しない。最初から存在しなかったのだ。
「お会計、千八百五十円になりますけど……」
「……ああ。すまん」
「遼はスマートフォンを端末にかざし、レジ袋を掴んだ。凛の腕を引いて、逃げるように店を出た」
§ § §
帰り道、二人とも無言だった。
四月の夜風が冷たい。街灯の下を歩く遼の影と、半歩後ろを歩く凛의 影が、アスファルトの上で重なっては離れる。
アパートの玄関を開け、靴を脱ぎ、リビングの電気をつける。いつもの動作。いつもの部屋。だがその「いつも」が、もう信用できなくなっていた。
遼はレジ袋をキッチンに置き、ソファに座った。凛は——まだ玄関に立っていた。
「……凛?」
振り返ると、凛はパーカーの下に銃をしまったまま、玄関の壁に背を預けていた。俯いている。銀色の髪が顔を隠している。
「……異常出力を確認」
声が震えていた。機械の音声合成が震えるはずがない。だが震えていた。
「スーパーにおいて、民間生活空間で銃火器を展開しました。これは管理端末の規定プロトコルに対する重大な違反です」
「あの女は民間人じゃなかった。お前の判断は正しい」
「いいえ」
凛が顔を上げた。銀色の瞳が、遼を真っ直ぐに見ていた。
「私のシステムは、あの女が脅威であると判定する《《前に》》、武器を出力しました」
「……どういうことだ」
「あの女が——あなたに顔を近づけて、『私と組まない』と言った瞬間に。脅威判定より先に、銃が手の中にありました」
凛は自分の右手を見下ろした。銃を握っていた手。今は何も持っていないのに、指が微かに震えている。
「論理的な防衛行動ではありません。脅威分析が完了する前に出力された衝動です。内部コアの温度が規定値を逸脱し、エラーコードの発行もなく、ただ——」
凛の声が途切れた。
三秒。
「……ただ、あの女を排除しなければならない、という出力だけが走りました」
遼は黙って聞いていた。
わかっている。遼にはわかっていた。凛がスーパーで沙耶と遼の間に割り込んだ時。あの夜、ヘアゴムを見つめる遼に「不快です」と言った時。そして今夜、銃を抜いた時。
三段階。同じノイズが、回を追うごとに強くなっている。
人間がそれに名前をつけるなら——嫉妬、と呼ぶ。
だが遼はその言葉を口にしなかった。名前をつけてしまえば、凛のシステムはそれを「修正すべきバグ」として処理しようとするだろう。修正させたくなかった。
「お前はおかしくなってない」
「しかし——」
「俺を守ろうとしたんだろ。それでいい。今は休め」
凛は数秒間、遼の顔を見つめていた。何かを言いかけて、飲み込んで、また言いかけて——結局、何も言わなかった。
ソファの端に座った。いつもの位置。膝を揃えて、目を閉じる。
「……スリープモードに移行します」
凛の呼吸が、静かな規則正しいリズムに変わった。




