第34話「レジ越しの深淵」
「……対象の動体視力と反射速度が、戦闘時と同等のパフォーマンスを発揮しています」
凛がカートを押しながら、後ろからついてくる。その声は平坦だが、遼には聞こえる。呆れているのか、感心しているのか——たぶん両方だ。
「焼き鳥も押さえたぞ。これで明日の朝飯は確保だ」
「朝食に焼き鳥を摂取するのは、栄養バランスとして適切ではありません」
「タンパク質だろ。細かいこと言うな」
戦利品を抱え、レジに向かう。
二番レジ。いつもの位置。いつもの——
「いらっしゃいませ。あら、お兄さん。今日も半額狙いね」
いつもの笑顔が、そこにあった。
名札には『佐藤』。少し茶色がかった髪をポニーテールにまとめ、縁なしの眼鏡をかけた、感じのいいお姉さん。遼がまだ一人で半額弁当を買っていた頃——凛が来る前から、ここのレジに立っていた。顔なじみだ。
「明日の朝の分も確保しただけだよ」
「えらいえらい。お兄さん、最近はちゃんと食べてる? 前はお弁当一個だけだったのに、最近は二人分買ってくわよね」
佐藤がバーコードをスキャンしながら、にこにこと笑う。ピッ、ピッ、ピッ。メンチカツ、焼き鳥、キャベツ。
「後ろの子、すっかり保護者みたいになっちゃって。彼女さん?」
凛がカートのハンドルを握る指に、僅かに力が入った。
「彼女ではありません」
即答。平坦な声。だがあのスーパーの時よりも、返答が零コンマ数秒速い。
「あらあら。じゃあ、妹さん?」
「——違います」
二度目の否定は、一度目より声が低かった。
遼はレジ袋に惣菜を詰めながら、何の気なしに佐藤に答えた。
「同居人みたいなもんだよ。まあ、世話になってる」
ピッ。最後の焼き鳥パックがスキャンされた。
その時だった。
音が、消えた。
店内BGMの軽快なポップス。他のレジの電子音。客の話し声。子供の泣き声。それら全てが、水底に沈むように遠ざかっていく。
遼の鼓膜に残ったのは、自分の心臓の音だけだった。
「——ねぇ」
佐藤の声だけが、異様にクリアに聞こえた。
「毎日毎日、世界のバグ掃除なんて。割に合わないお仕事よね、朝霧遼くん」
遼の全身が、凍った。
顔を上げた。
レジ越しの佐藤の顔が、遼のすぐ目の前にあった。いつもと同じ顔。同じエプロン。同じポニーテール。だが瞳の奥の温度だけが、根こそぎ入れ替わっていた。笑っているのに、底が見えない。池の水面に映った空のように、どこまでも冷たかった。
「あの三流のオモチャ、わざわざ持ち帰って分解してたんでしょう? 真面目ね。好きよ、そういうの」
「お前——」
なぜ、名前を知っている。なぜ、俺が野良のデバッガーであることを。エミッターを解析していたことを。
思考が加速する。バラバラだったピースが、頭の中で音を立てて組み上がっていく。
見えない糸。エミッターのコアに刻まれていた、あの美しすぎる暗号。あれを書いた人間。あの若者にデバイスを渡した黒幕。
——最初から、ここにいた。
レジの向こうで、毎週笑いかけてきた女の顔をして。
佐藤——いや、佐藤の皮を被った女が、遼の耳元に顔を寄せた。リップの甘い匂いがする。
「あら、いい男じゃない。組織の部品なんか拾ってないで——私と組まない?」
チャキ。
金属が噛み合う、乾いた音。
安全装置を解除する音だった。
凛が動いていた。
いつ抜いたのか。パーカーの裾から引き出された銀色の大型拳銃が、レジ越しに女の眉間を捉えている。凛の両腕は微動だにしない。照準は完璧。銀色の瞳から、一切の温度が消えていた。
「——対象から離れなさい」
凛の声だった。
だが、遼が知っている凛の声ではなかった。無機質ですらない。排除のために最適化された、純粋な殺意の周波数。システムが出力する警告ではない。もっと深い場所から——感情ロックの遥か下から這い上がってきた、名前のないものだった。
周囲の客は気づいていない。悲鳴は上がらない。空間全体に濃い認識阻害ノイズがかかっている。レジ周辺の数メートルだけが、日常から切り離されていた。
「怖い怖い」
女はくすくすと笑った。銃口を向けられているのに、楽しそうに。
「これだから組織の猟犬は。すぐ噛みつくんだから」
女の笑い方が変わった。佐藤の柔らかな微笑みから、猫のように目を細める妖艶な笑みへ。声も、仕草も、纏う空気も——まるで別人だった。いや、こちらが本性なのだ。佐藤という名前も、ポニーテールも、感じのいい笑顔も、全てが偽装だった。
「ねぇ、お兄さん。その子のこと、ちゃんと大事にしてあげなさいよ?」
女は銃口の前で一歩退いた。遼と凛を交互に見て、意味深に首を傾げる。
「壊れたら替えが来るけど、同じ子は二度と来ないわ」
凛の指がトリガーにかかった。
「じゃあね。また遊んであげる」
ウィンクの残像が消える前に——女の輪郭がノイズの砂嵐に呑まれた。
ザッ、という音。テレビの砂嵐に似た、不快な高周波。女の姿が足元から崩れるように画素に分解され、空気に溶けていく。制服もエプロンも名札も、何一つ残らない。最初からそこに誰もいなかったかのように、完璧に消失した。




