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第33話「偽装された日常」

 秋葉原の不可能犯罪インポッシブル・クライムから三日が経っていた。


 バグの発生頻度は通常レベルに戻っている。黒いバンに連行された三流ハッカーの仲間が報復に来る気配もない。東京の日常は何事もなかったかのように回り続けており、遼のアパートにも平穏な夜が訪れていた。


 ——表面上は。


「……やっぱり、こいつが引っかかる」


 深夜。リビングのローテーブルに向かい、遼はエアキーボードを展開していた。指先から伸びた深紅の光が、宙にデータの格子を編み上げる。


 秋葉原で破壊した強制錯誤出力機(グリッチ・エミッター)。あの場で鉄くずに戻したが、破壊する直前にコードの残骸データだけは抜き取っていた。プログラマーの職業病だ。他人が書いたコードは、壊す前に読む。


 仮想空間上で分解したエミッターの設計図を、遼は三日間ずっと睨み続けていた。


 表層のコードは雑だった。無駄なループ処理、冗長な変数宣言、コメントアウトの消し忘れ。あの若者の技術水準そのものだ。だがコア部分——空間コードに干渉して局所的にバグを誘発させる心臓部の暗号化プログラムは、まるで別人が書いたかのように美しかった。


 無駄のない構文。最小限の演算で最大の効果を引き出す最適化。遼が三日かけても完全には解読できない暗号強度。


 素人がガワだけ被せた、プロの仕事だ。


「コアの演算構造が高度すぎる。あの三流には絶対に書けない。つまり——」


「第三者による技術供与の可能性がある、ということですね」


 ソファの端から、凛の声がした。


 遼は振り返った。凛は膝を揃えてソファに座り、銀色の瞳でデータの格子を見ていた。起きていたのか、今起きたのか。最近の凛はスリープモードの深度が浅くなっている気がする。遼が起きていると、凛も起きている。


「ああ。しかも途中でコードが自壊するように組まれてた。解析されることを想定した自己消滅プログラムだ。これ以上は追えない」


「情報の遮断が意図的であるなら、相手は組織的な活動に慣れた存在です」


「クロノスか、それに対抗する勢力か」


 あの黒いバンの男が言っていた。「いずれ、正式な接触があるでしょう」。クロノスはクロノスで遼に何かを嗅ぎつけている。そしてエミッターの黒幕は黒幕で、遼の周囲を探っている。


 見えない糸が、少しずつ遼の日常を絡め取り始めていた。


 遼はエアキーボードを閉じ、立ち上がった。冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルと、卵パックの空箱と、数本の調味料。ここ数日、解析にかまけて買い出しを完全に忘れていた。


「……腹減ったな」


「冷蔵庫の食料備蓄が推奨水準を大幅に下回っています。補給を推奨します」


「要するに『買い物行け』ってことだろ」


「……はい」


 凛の「はい」が、最近少しだけ柔らかくなった気がする。データベースの検索結果ではなく、自分の判断で選んだ「はい」。遼はそれに気づいていたが、指摘はしなかった。指摘すると消えそうな気がした。



§ § §



 吉祥寺の大型スーパー。夜八時を過ぎると、ここは戦場になる。


 惣菜コーナーに半額シールが貼られ始める午後八時十五分。それは都民の罰(タイムセール)の号砲だった。専業主婦、一人暮らしの大学生、退勤帰りのサラリーマンが、にこやかな表情の裏に闘志を隠して惣菜棚の前に集結する。


 遼はその最前線にいた。


 世界のソースコードを読み解く男が、メンチカツの半額シールに全神経を集中させている。壮大なのか卑小なのかわからない光景だが、本人は至って真剣だった。残り一パックのメンチカツに手を伸ばした刹那、右から割り込んできたおばさんの手を半身で躱し、左手でカゴを差し出しながら右手でパックを掴む。流れるような一連の動作。デバッグよりも手慣れている。


「確保」

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