第31話「剥がれ落ちる虚像」
§ § §
だが、それで終わらなかった。
路地を出てすぐ、凛の動きが止まった。
「遼」
名前で呼んだ。素の声。遼はそれに慣れてきていた——凛が名前だけを呼ぶ時は、報告が必要な事態が起きた時だ。
「なんだ」
「渋谷。大規模グリッチ発生。レベル四。発生源はパッチワークス系の組織的展開と推定されます」
遼は空を見た。午後の青い空だ。雲一つない。だが遼の視界には、遠く南西の方角——渋谷の方向から、ほのかな赤いノイズが滲んでいた。
「どのくらい広がってる」
「現時点で三ブロック。拡散速度を考慮すると——十分以内に周辺住民への影響が出始めます」
遼は舌打ちした。
「走るぞ」
§ § §
渋谷。
道玄坂の坂道を駆け上がった先に、それはあった。
普通の人間の目には、きっと何も見えない。人々が普通に歩いている。店の音楽が流れている。ただ、心なしか歩行者の足取りが重いような、視線が定まらないような——そんな違和感が空気に滲んでいる。
遼の目には、すべてが見えた。
建物の壁面。路面。電柱。街灯。そのすべてに、蛍光色のエラーコードが蔦のように這い広がっていた。テクスチャが浮き上がり、ワイヤーフレームが透けて見える。現実の解像度が、数ドットずつ劣化していく。
(パッチワークスの仕業か……これは大掛かりだ)
ランダムなバグではない。構造的に展開されている。まるで都市の基盤コードに直接アクセスして、特定のアドレスに同じ命令を流し込んでいるような——意図を持ったコードの侵食だ。
「発生源は?」
「センター街の地下。ロックされた空き店舗内に大型エミッターが設置されています。私が先行します」
凛が駆け出した。
「待て、俺も——」
「遼は外周の浸食を止めてください。このまま広がれば、影響範囲の住民に重大な認知障害が出ます」
遼は一瞬だけ迷い——頷いた。
役割分担。それが今の俺たちの戦い方だ。
エアキーボードを展開する。深紅の光が宙に広がり、遼は浸食コードの外縁から逆算してデバッグのルートを組み立てる。大規模修正は時間がかかる。だが、凛がエミッターを止めれば、あとは収束するだけだ。
指を動かし続ける。一ブロック、修復。エラーコードが白く書き換えられ、壁のテクスチャが戻る。歩いていた人々の足取りが、ふっと軽くなるのが見えた。
(あと二ブロック——)
その時。
爆発とも崩壊ともつかない轟音が、センター街の方向から響いた。
遼の視界がノイズに覆われた。
(凛!)
キーボードを消して駆けだした。路地を抜け、人混みをかき分け——
センター街の裏路地に、凛がいた。
壁に背を預け、片膝をついている。
その体の、左肩から右脇腹にかけて——テクスチャが剥がれていた。
人間の肌ではない。金属の骨格。光の回路。青白く明滅するコード基盤。外装の下にあったものが、無防備に晒されていた。
「凛」
遼は駆け寄った。凛は顔を上げた。銀色の瞳が、何かを計算している。
「……エミッターは破壊しました。グリッチは収束します」
「そうじゃなくて」
遼はその場にしゃがんだ。露出した金属の骨格を、恐る恐るではなく——ただ真っ直ぐに、見た。
「……遼」
「怪我は、してないな。ならいい」
三秒の沈黙があった。
凛の瞳が、遼の顔を映した。驚いているのか、処理が追いつかないのか——銀色の瞳が、珍しく、ほんの少しだけぶれた。
「……私の情報が」
「露見した、って言いたいのか」
「はい」
「そっか」
それだけだった。
遼は立ち上がり、ジャケットを脱いだ。凛の肩に、無造作にかけた。隠すためではない。夕方の渋谷の風が、まだ少し冷たいことを、遼は知っていた。
「歩けるか」
「……問題ありません」
「なら帰るぞ。半額の肉が傷む」
凛はゆっくりと立ち上がった。ジャケットが肩からずり落ちそうになり、凛は片手でそれを押さえた。
二人は夕暮れの渋谷を歩き始めた。
凛は遼の少し後ろを歩いた。三歩ではなく、一歩半ほどの距離で。




