第30話「見えない糸と不可能犯罪」
秋葉原の裏通り。ラジオ会館の北側に落ちるビル影の中で、遼と凛は息を潜めていた。
午後一時五十五分。
路地裏特有の湿った空気が肌にまとわりつく。室外機の排熱と、どこかの飲食店から漂う油の匂い。平日の昼下がりだというのに、この裏通りには人影がない。秋葉原の喧騒は表通りのもので、一本裏に入れば東京はどこだって静かだ。
遼は壁に背を預け、腕時計を見た。デジタル表示が無機質に時を刻んでいる。
「あと五分で、この路地は完全にビル影に入る。日照データの推論が正しけりゃ、六番目の強制錯誤出力機がここで起動するはずだ」
「推論の正確性は九十八パーセントを超えています。仮説は有効です」
凛は遼の隣——壁の反対側に立ち、路地の入り口を監視していた。銀色の瞳が、人間には視認できない情報層をスキャンしている。
「ただし、犯人が現場に現れる保証はありません。遠隔起動の可能性もあります」
「いや、来るね」
「根拠は」
「あの五件のエミッター、設置場所が毎回少しずつ雑になってた。渋谷のは完璧に隠されてたけど、中野のはゴミ箱の裏に突っ込んであっただけだ。犯人は回を追うごとに大胆になってる——つまり調子に乗ってる」
「……調子に乗っている」
「自分の仕掛けが上手くいってる快感で、リスク感覚が麻痺してるんだ。こういうタイプは結果を自分の目で確かめたがる。必ず現場に来る」
プログラマーの経験則だった。テストを通さずに本番環境にデプロイする人間は、だいたい自分の腕を過信している。そして過信した人間は、最終的に自分のバグを見に来る。
「……人間の心理を確率論に組み込む手法は、私のデータベースには存在しません」
「経験って言うんだよ、それは」
凛は無言で路地の入り口に視線を戻した。その横顔を、遼はちらりと見た。
三週間前なら、こういう時の凛は壁際で直立していた。遼との距離は常に正確に三歩。感情のない銀色のセンサーが、ただ監視対象を追尾していた。
今は壁にもたれている。遼との距離は、腕を伸ばせば届くくらい。時折、遼の方を見る。それはスキャンではなく——なんと呼べばいいのか、遼にはまだわからない。
「……来ました」
凛の声が低くなった。
路地の入り口に、フードを目深に被った若い男が現れた。大きなリュックを背負い、落ち着きなくキョロキョロと周囲を窺っている。挙動不審という言葉を擬人化したような男だった。一般人が見れば「危ないやつかも」と道を変えるだろう。遼の目には、男の足元から這うように伸びるデータ通信の残滓——エミッターとの接続コードがはっきりと見えていた。
男は路地の奥へ進み、室外機の裏に隠された黒い箱の前にしゃがみ込んだ。ポケットからスマートフォンを取り出す。
「よしよし、日陰に入った。起動コード、送信っと……」
画面をタップしようとした指が——止まった。
「そこまでだ」
遼の声が、路地に落ちた。
「!?」
男が弾かれたように振り返る。退路を塞ぐように、長身の青年と銀髪の少女が立っていた。いつからいたのか。気配すらなかった。
「な、なんだお前ら……!」
「プログラマーだ。お前が撒き散らしたバグを、朝から五件もタダ働きで掃除させられた」
遼は右手を振った。指先から深紅の光が走り、宙にエアキーボードが展開される。男の顔が引きつった。
「空間干渉の直接演算……!? 嘘だろ、野良のデバッガーにそんな——」
遼の指がキーボードを三回叩いた。
バチッ。
乾いた破裂音。室外機の裏の黒い箱——エミッターから火花が散り、隠蔽プログラムの殻が砕け散った。中身はただの基盤と配線。遼のデバッグに晒されれば、違法デバイスも鉄くず以下だ。
「あ……ああっ! 俺の、俺のエミッターが——!」
「コードの中に無駄なループ処理が四つもあった。演算能力が足りないから日照条件なんてアナログな小細工でタイマーをごまかしてたんだろ。発想は悪くないが、実装が雑すぎる」
遼はゆっくりと歩み寄った。壁際に追い詰められた男が、背中を壁に張り付けて後退る。
「た、助けてくれ……警察呼んでくれよ!」
「警察?」
遼は足を止めた。
皮肉な話だ、と思った。こいつは間違いなく犯罪者だ。都内六箇所に違法デバイスを仕掛け、無差別にグリッチを撒き散らした。だが、それを取り締まる法律も、調書に書ける証拠も、この世にはない。なにしろ、バグを起こす機械だ。公式には存在しない。遼の能力も、凛の存在も、CHRONOSという組織も——すべてが公式の外にある。
(俺たちは何を捕まえたんだろうな)
「……警察には渡せない。別の方法で引き渡す」
遼の言葉に、凛が静かに一歩前へ出た。
「CHRONOS管理局の移送権限を行使します。以降の処理は上位機関に委ねます」
男の手首に、光の帯が巻き付いた。データ的な拘束具——物理的には見えないが、逃走も抵抗も完全に封じる。男が悲鳴を上げかけて、言葉を失う。
「な、なんだこれ……! 体が——動かない……!」
「十五分後に回収班が到着します」
「凛は遼を振り返った」
「本日の案件、完了です」
「……お疲れ」
遼はエアキーボードを消した。深紅の光が散り、路地にまた影が戻る。
男はその場で立ち尽くしたまま、呆然と宙を見ていた。自分が何に巻き込まれたのかも理解できていないだろう。それがある意味、この仕事の一番まともな結末だ。




