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第3話「路地裏の獣」

§ § §



 午後十一時。朝霧遼という男は、世界を救った数時間後に、足りない調味料を買いにコンビニへ出かけるような人間である。


 三月末の夜気はまだ冷たい。息が薄く白くなる。

 住宅街の細い路地は街灯が少なく、自動販売機の光だけが歩道を青白く染めている。


 異変は、帰り道に起きた。

 右目が疼く。そして違和感。


 目を凝らし視界を切り替える。

 いつもの感覚だ。だが——強い。交差点の時とは比べものにならない。視界の端が青く明滅し、遼は思わずコンビニの袋を握り直した。


 路地裏の、何の変哲もないT字路。

 その右側の壁が——剥がれていた。


 正確には、質感(テクスチャ)が剥がれていた。レンガ造りのはずの壁面が、一部だけ灰色の骨格(ワイヤーフレーム)に変わっている。三角形の(ポリゴン)が骨組みのように露出し、その隙間から蛍光色のコードが滝のように流れ落ちている。


(でかい)


 遼は足を止めた。異常(バグ)の規模を視る。コードの流量、浸食範囲、崩壊速度——いつも交差点あたりで処理しているものとは桁が違った。


 壁の向こう側まで見えた。物理的な奥行きではない。情報の階層だ。設計図(ソースコード)が幾重にも折り畳まれ、この路地裏という「空間」を定義しているデータ構造がむき出しになっている。


 そして——その中心で、何かが蠢いていた。


 コードが凝集し、形を成そうとしている。人の腕のような構造体。頭のような球体。だがどこか歪んで、定義が不完全で、存在と非存在の間を痙攣するように明滅している。


(……ごく希にある、コードが実体化するケースか)


 これまでのバグは、いわばデータの書き損じだった。コピペのミス、テクスチャの剥がれ、因果の前後入れ替わり。修正すれば消える類の不具合。


 だが目の前の《《これ》》は違う。バグそのものが意志を持つように膨張し、空間を浸食し、形を取ろうとしている。


 背後で足音がした。振り返ると、残業の帰りだろうか、疲れ果てた顔をした若い女性がイヤホンをつけたままこちらに歩いてくる。女性の視線はスマートフォンの画面に釘付けで、壁が崩壊していることにも、空間からコードが噴き出していることにも、まるで気づいていない。


 女性は遼の横を通り過ぎ、骨格(ワイヤーフレーム)が剥き出しになったT字路を、何事もなく曲がっていった。


 コードの塊が半ば獣、半ば人のような姿をとって実体化する。

 それは、明確に自分から去って行く女性を見つめていた。


(——あの女、目を付けられた? 喰うつもりか!?)


 それはコードビースト。

 制御文字でつくられた歪な獣。


 逃げるという選択肢が、消えた。

 コンビニの袋を路肩に置く。遼は右手を持ち上げ、空中に指を走らせた。

 イメージのキーボードが現れる。いつもと同じだ。ただし今夜は、キーに触れた瞬間から指先が痺れた。


「……修正(デバッグ)を開始する」


 深紅の光がグリッドを走る。バグの中心に向かって突き進む——が、はじき返された。


(硬い)


 解析コードが跳ね返ってくる。バグの構造が複雑すぎて、表層のパッチが通らない。化け物じみた塊はむしろ遼の干渉に反応して膨張し、壁の浸食が加速した。ワイヤーフレームが路面にまで広がり、アスファルトの一部がポリゴンの骨格を晒す。


(深層に潜るしかない)


 リスクは承知している。深いレベルのデバッグは、それだけ代償も重い。昼間の交差点程度でも左目が疼いた。これだけの規模に手を入れれば——


(構うかっ!)


 指が加速する。キーボードの奥に、もう一層のコンソールを呼び出す。管理者権限に近い領域。世界の定義そのものに触れる深さ。


『お兄ちゃんは、きっと助けてあげてね。だってお兄ちゃんは――』


 誰かの声が聞こえる。しかしそれが誰の声かはわからない。


 遼の両目が青く発光した。

 視界が完全にコードに変わる。路地裏の物理的な景色は消え、純粋な情報の海だけが広がっている。その中心に、バグの核——ぐちゃぐちゃに絡まった赤いエラーコードの塊が、心臓のように脈打っていた。


(見えた。ここだ)


 指が最後のコマンドを叩く。


 ――核が砕けた。


 獣が赤い破片となり四散し、情報の海が凪いでいく。ワイヤーフレームが巻き戻るように修復され、ポリゴンにテクスチャが貼り直されていく。壁が、路面が、空間が、元の形を取り戻していく。

 視界が現実に戻った瞬間、頭の中で何かが千切れた。


「——っ」


 膝が折れた。

 アスファルトに両手をつく。視界が明滅する。吐き気がせり上がり、こめかみを万力で潰されるような痛みが走る。


「あの……大丈夫ですか?」


 遼とすれ違って歩いていた女性が、振り返り声をかける。


「大丈夫です、ちょっと立ちくらみが……」


 軽く手を振ると、女性は納得したように立ち去ってゆく。

 今まさに命を救われたことも知らずに。


 ――何かが消えた。記憶の棚から、何かのファイルが一つ、音もなく削除された。

 何を失ったのかも、遼にはわからない。いつもそうだ。消えた記憶を自覚することはできない。ただ——心のどこかに小さな穴が開いた感触だけが残る。

 それがこの能力の代償だった。世界を修正するたびに、朝霧遼という人間は少しずつ欠けていく。


(……大丈夫だ。大したものじゃ、ない)


 そう思うしかない。確かめる術がないのだから。

 遼は震える腕で体を起こした。

 路地裏は静まり返っていた。壁はレンガのままだ。コードも骨格も、跡形もない。猫が一匹、塀の上からこちらを見ていた。

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