第2話「二枚の皿」
§ § §
食器棚に手を伸ばした。
白い平皿を二枚、取り出す。
——二枚。
遼の手が止まった。
一人暮らしだ。一枚でいい。
右手に持った二枚目の皿を見つめる。なぜ二枚取った。
少し考えて、二枚目を食器棚に戻した。
戻す時、指先が微かに震えた。
「癖、なのか? いつもやっちまう。でも、いつからこんな癖がついたんだろうな」
独り言を低く呟く。その声は少しだけ震えていた。
§ § §
鶏むねのソテーにレモンを絞り、ほうれん草のおひたしを添える。味噌汁は豆腐とわかめ。完璧な栄養バランスの一人分の夕食。
テレビはつけない。
一口目、鶏むね。
「……うん。火の入れ方は悪くない。弱火でじっくりやったから中がしっとりしてる。塩は気持ち強めにしたけど、レモン搾ったらちょうどいいな。半額でこれなら上出来だろ」
ほうれん草のおひたし。
「おひたしは普通。出汁の染み方がちょっと甘いか。もう十分置いてもよかったな。……まあ、鰹節乗せたら誤魔化せる」
味噌汁をすする。
「味噌汁は合格。豆腐の切り方が揃ってるのが偉い。俺は偉い」
誰もいない部屋で、朝霧遼は一人,自分の料理に点数をつけ続けていた。
テレビの代わりでもない。癖だ。いつからか、作った飯の感想を声に出すようになった。まるで隣に誰かが座っていて、「今日のどう?」と訊いてくるのに答えるように。
——隣には、誰もいない。
孤独を自覚していないのか、自覚した上で平気なふりをしているのか。おそらく本人にもわかっていない。
食べ終えて、食器を洗って、シンクを拭いて。
ふと、冷蔵庫の扉に目が行った。
プリンがある。
コンビニの、カスタードプリン。二つ。いつ買ったのかは覚えていない。だが確かに自分が買ったはずだ。他に誰がいるわけでもない。
(プリンなんか食う趣味あったか、俺)
首を傾げて、冷蔵庫を閉めた。
そう、彼は曖昧な記憶を生きていた。それには理由があるが、今はまだそれを語るべき時ではない。
§ § §
廊下の奥に、もう一つ部屋がある。
使っていない部屋だ。物置にすればいいのに、なぜか物を入れる気にならない。そのくせ週に一度、掃除だけはしている。自分でも理由はわからないらしい。
今日も通りすがりに、ドアの前で足が止まった。
ドアノブに手をかける。少し迷って、やめた。
(何を期待してるんだ)
何もない部屋だ。ずっと空っぽの。誰もいない。
それなのに、この部屋の前を通るたびに、胸のどこかが引っかかる。壊れたファイルを開こうとしたときのような——何かが欠けているという、名前のつかない違和感。
遼はそのまま自室に戻り、ノートパソコンを開いた。
フリーランスのエンジニアとして働いている彼は、業界ではほどほどに名の知れた存在だ。世界のバグを直す能力があるのだから当然と言えば当然だが、本人は普通に実力だと思っている。
受託案件のコードを書く。変数を定義し、関数を組み、テストを走らせる。こっちのコードは理屈が通る。書いた通りに動くし、バグがあれば原因が特定できる。
「あっちのコードは、そうはいかないよな」
世界の設計図。誰が書いたのかもわからない。なぜ自分に見えるのかもわからない。見えるようになったのがいつだったかすら、最近は曖昧になってきた。
わかっているのは二つだけだ。
放っておけばバグは人を、世界を壊す。そして、遼にはそれを直す力がある。
だから直す。
理由はそれで十分だった——少なくとも、自分にはそう言い聞かせている。
(本当は――)
ノートパソコンの画面に映る自分の顔は、いつも通り無表情で、いつも通り疲れていた。
(本当は、もっと別の理由があるのかも知れないな)
誰かに頼まれたような気もする。
だがその誰かが、遼にはどうしても思い出せないのだった。




