第1話「交差点のノイズ」
――世界は壊れかけている。
渋谷スクランブル交差点。信号が青に変わり、何百もの人間が一斉に歩き出す。ビジネスマン、学生、観光客。三月末の何の変哲もない午後の風景。
その真ん中に、一人だけ足を止めている男がいた。
朝霧遼。くびれた黒いジャケット、整ってはいるが、何か暗いものを宿した面差し。フリーランスのプログラマーで、趣味は半額シールの収集——もとい、節約料理。
だが今この瞬間、彼の目は半額シールではなく、もっと厄介なものを捉えていた。
交差点の中程を歩いている女子高生が僅かにぶれて見える。
遼は僅かに目を細めた。
――次の瞬間、彼の目に映る世界が変貌を遂げた。
視界全体に、何千、何万ものグリッドが走り、世界の解像度が落ちてゆく。まるで古いコンピュータゲームのように。
三人いる。
通常の視界では一人の女子高生でしかないが、遼の目にはそれに前後に重なるように同じ挙動をする残りの二人が映っていた。まったく同じ顔。同じ黒いコート。同じ歩幅、同じ腕の振り。一人は遼の一メートル先、もう一人はその斜め後ろ、三人目は対角線の向こう側。三人が寸分の狂いもなく同じ動きで交差点を渡っている。
三人共に、いかにも疲れたような、あるいは崩壊寸前であるかのように動きがぎこちない。
遼の目の奥が、じくりと疼いた。
グリッドに覆われた世界に淡い青が滲む。
それはコード。アスファルトの表面を、蛍光色の文字列が蛇のように這っている。十六進数の羅列。構文エラーの赤い警告。コピーアンドペーストされた存在証明が三つ、全く同じ値で並んでいる。
——世界の設計図。それが朝霧遼にだけ見えている。理由は本人にもわからない。わかっているのは、放っておけば人が壊れるということだけだ。
スーツ姿の男が遼の肩にぶつかった。舌打ちしながら去っていく。その男の足は、青く光るコードの上を何事もなく踏んで通り過ぎた。
三人の女子高生のうち一人が、電柱にぶつかりそうになった女性のすぐ横を通過した。女性は一瞬だけ首を傾げ、それからスマートフォンに視線を戻した。
この交差点を埋め尽くす何百人の誰一人として、三人の同一人物が同時に存在していることに気づいていない。
遼だけが立ち止まっている。
人の波に逆らって、たった一人。
(このままだと浸食されて崩壊するな……あの女子高生)
遼は空中に手を伸ばした。イメージのキーボードが浮き上がる。
指が躍るように見えないキーボードを叩くと、グリッドに沿って深紅の光が、三人の女子高生に向かって奔った。
「――ぐっ!」
目の奥に激しい疼きが走る。が、構わずに指を踊らせた。
光は女子高生たちを包み込み、前後の二人が、青いピクセル光を放ちながら消滅した。
「……あれ? 急に楽になったみたいな?」
すっと背を伸ばした女子高生が、小首を傾げながら交差点を歩いて行った。
命を救われたことも知らずに。
――世界は壊れかけている。どうしてそれが皆にはわからない?
遼は少しふらつきながら、雑踏を進んでゆく。
§ § §
渋谷から井の頭線に揺られ、吉祥寺で降りた。自宅からほど近いミニスーパーに立ち寄る。
都民の罰と言われているあれだ。
惣菜コーナーの棚に、黄色い値引きシールが光っている。世界の設計図を読み解いていた男の足が、ぴたりと止まった。
鶏むね肉。国産。二枚入り。
——半額。
さっきまで世界の設計図を読み解いていた男の目が、鮮やかに輝いた。
(やった! 半額だ!! これは、奇跡か!?)
手に取る。ずしりとした重み。グラム単価を暗算する。
完璧だ。完璧にお得な商品だ!
遼は内心でガッツポーズを取った。
隣のほうれん草も二割引。卵は特売日を逃したが仕方ない。豆腐と味噌は家にある。
レジに向かう足取りが、さっき交差点でふらついていたのと同一人物とは思えないほど軽い。
そう、それはまさに踊るように軽やかなステップ。
周囲の客が、若干引いた目で見ているような気もするが気にしない。
だって胸肉がこんな時間に半額なのだから!
レジカウンターに商品を並べると、店員の女性がにこりと微笑んだ。
「お、いつもの半額ハンターさん。今日も大漁ですね」
遼は面食らった。覚えられていたのか。
「……よく来ますか、俺」
「ほぼ毎日。閉店三十分前に来て、半額シールのついた鶏むねを買って帰る。パターンが完璧すぎて、逆に心配になっちゃう」
女性は笑いながらバーコードを読み取っていく。黒髪をひとつに結んだ、切れ長の目をした——どこか人懐こい雰囲気の店員だった。
「たまにはいいお肉も買ったらどうです? お兄さん、料理上手そうなのに」
「半額で十分うまいもん作れます」
「あはは、頑固。——またいらしてくださいね」
袋を受け取って店を出る。
半額で購入すると、誰かが喜んでくれていたような気がする。
——それが誰なのかは思い出せないのだが。
吉祥寺本町の裏通り。飲食店の排気口から油と醤油の匂いが流れてくる。外階段を上がり、三階の角部屋の鍵を開けた。
1LDK。フリーのプログラマーが一人で暮らすには少し広い部屋だ。
リュックを下ろし、手を洗い、スーパーの袋から戦利品を並べる。半額の鶏むね、二割引のほうれん草。冷蔵庫から卵と味噌と豆腐を出す。
遼はエプロンを手に取った。紺色の、飾り気のないやつ。手慣れた動作で首にかけ、腰で紐を結ぶ。
「ふーん、ふふんふんふん♪」
鼻歌交じりに鶏むねを削ぎ切りにして塩を振る。フライパンにオリーブオイル。弱火。その間にほうれん草を茹で、卵を溶き、味噌汁の出汁を引く。
四つの工程が同時に進む。手が迷わない。半額の鶏むね肉が、遼の手にかかると柔らかくジューシーなソテーに化ける。
世界の異常を直す能力と引き換えに記憶を失い続けている男は、なぜか料理だけは完璧にこなした。誰かに作ってやっていた気がする——が、誰に、と訊かれると答えることは出来ない。
ただ包丁を握ると、手が勝手に動く。身体が覚えているのだ。頭が忘れてしまったことを。




