第28話「コーヒーの温もり」
凛は銀色の瞳でデータを走査し、僅かに目を細めた。
最近覚えた仕草だった。あのデバッグ以前の凛なら、データの解析結果をそのまま音声出力していただろう。今は一瞬だけ「考える」間がある。データベースの検索ではなく、自分の中の何かと照合しているような間。
「……肯定します。人為的な時限起動の痕跡です」
「だろうな」
「あなたの推論ロジックは、非常に高精度に機能しています」
「褒め言葉として受け取っとく」
遼はふう、と息をついて背もたれに寄りかかった。まだ右の脇腹が痛む。肋骨のヒビは凛のリストアで骨の位置を戻してもらったが、完治には程遠い。
バグを一つ直すだけでも頭痛がする。今日は五つだ。小粒だったおかげで記憶の欠落は起きていない——少なくとも、自覚できる範囲では。代償がゼロだったのか、単に支払いが遅延しているだけなのかは、遼自身にもわからない。
わからないことが多すぎる。犯人の意図。法則。導線。
そして——自分の中から何が消えたのか、消えていないのか。
「まだ仕掛けられてる可能性がある。設置パターンがわかれば、起動前に装置ごとぶっ壊せるんだが……」
マップの赤いピンを睨みつける。
プログラマーとしての癖で、システムを組んだ人間の思考をトレースしようとする。どんなランダムにも、必ず乱数生成の種子がある。法則のないシステムは存在しない。
だが、見えない。ピンの配置に地理的な規則性はなく、発生時間の間隔もまちまちだ。
視界がぼやけてきた。カフェインが切れている。
「……コーヒー、淹れるか」
独り言のように呟いて腰を浮かせた、その時だった。
コトン、と。
ノートパソコンの横に、湯気の立つマグカップが置かれた。
「……え?」
見上げると、凛が立っていた。無表情——だが、マグカップの取っ手は遼の利き手側に向けてある。
「脳波に疲労のサインが検出されました。カフェインの摂取による一時的な覚醒処理が最も効率的であると判断し、実行しました」
「……お前、いつの間に」
足音がしなかった。いや——最近は、ほんの僅かに足音がするようになっていたはずだ。それなのに、今のは完全に無音だった。遼を起こさないように、と意図したかのような。
それよりも。
「これ、俺がいつも使ってる豆か? お湯の温度も……」
「台所の使用履歴と、あなたのこれまでの行動ログから、最適な抽出パラメータを構築しました。味覚的な精度は保証できませんが、カフェインの含有量は基準値を満たしています」
遼はマグカップを手に取った。
白い陶器が掌に温かい。
一口、含む。
苦味が先に立ち、追いかけるように酸味が丸く広がる。深煎りの豆の輪郭。湯温は少し低め——遼が好む、舌を焼かない温度帯。
悪くない。悪くないどころか——
記憶の底を、何かが掠めた。この温度を知っている。この苦さを知っている。自分で淹れた味ではない。もっと柔らかくて、少しだけ不器用で、でも確かに自分のことを考えて淹れられた味。
誰に淹れてもらったのか、思い出せない。
思い出せないのに、舌が覚えている。
「……うまいよ」
声が少し掠れた。遼は気づかないふりをして、もう一口飲んだ。
「記録します」
凛は小さく頷き、ソファの定位置に戻った。壁際ではなく、ソファ。クッション一つ分の距離。
遼はマグカップを両手で包んだ。
世界のバグを直す仕事をしている男のアパートに、銀髪の少女が住み着いて三週間になる。文句ばかり言う面倒な同居人——というよりは、寡黙で手際の良い、押しかけ女房のようだ。六十五点の鶏肉を黙々と改良し、朝は遼より先に起きて湯を沸かし、遼が記憶を失くすたびにその日の予定を淡々と読み上げる。
機械。ハイブリッド。管理端末。
——そう呼ぶには、もうコーヒーが温かすぎた。
遼は苦笑しながらカップを傾け、残りを飲み干した。
頭がクリアになる。カフェインが脳の隅々まで浸透していく。




