第26話「初めての家庭料理」
§ § §
帰宅後、遼はキッチンに立おうとして凛に止められた。
「座っていてください」
「飯は俺が——」
「私が作ります」
遼は一瞬、言葉を失った。
凛が料理をする。その発想がなかった。二週間の同居で、凛がキッチンに立ったのはココアを淹れた一度だけだ。あの時は粉っぽかった。
「……大丈夫なのか」
「データベースに三万二千件の調理レシピが格納されています」
「データがあるのと作れるのは別だろ」
「実験します」
凛はエプロンを取った。遼の紺色のエプロンを。小柄な凛には大きすぎて、紐を二回巻いてもまだ余っている。
遼はソファに座って、キッチンの様子を眺めていた。
凛が鶏肉をまな板に置く。包丁を手に取る。構え方は——悪くない。データベースの通りに再現しているのだろう。一口大に切る。正確だ。サイズが均一すぎて、逆に違和感がある。
フライパンに油を敷く。火をつける。遼は思わず口を開きかけて——やめた。凛がちらりとこちらを見た。
「……何か」
「いや。何も」
遼は口を閉じた。火加減の指摘を飲み込んだ。
凛が鶏肉を焼く。塩と胡椒を計量スプーンで正確に量り、振りかける。キャベツを刻む。長ネギを斜め切りにする。全ての動作がデータベース通り、正確で、効率的で——味気ない。
料理が完成した。鶏の塩焼き。キャベツの千切り。ネギの味噌汁。
テーブルに置かれた。
遼は箸を取り、鶏肉を一切れ口に入れた。
「…………」
塩が足りない。胡椒は多い。焼き加減は悪くないが、皮がもう少しパリッとしていれば。味噌汁は逆に味噌が濃い。キャベツの千切りは機械で切ったように均一で、それが逆に食感を殺している。
六十点。及第点すれすれ。
凛が対面に座って、遼の表情を注視していた。
「……評価を」
遼は箸をテーブルに置いた。
「六十五点」
「……具体的な改善点を」
「塩が足りない。胡椒は半分でいい。皮はもう三十秒焼け。味噌汁は味噌を二割減らせ。キャベツは——もう少し雑に切っていい」
「雑に切る」
「均一すぎるんだ。歯ごたえが全部同じだと飽きる。不揃いな方が、食ってて楽しい」
「……不揃いが優位。データベースの最適値と矛盾します」
「料理はデータだけじゃないんだよ」
凛は鶏肉を見つめた。自分の皿の鶏肉を一切れ、口に入れた。咀嚼する。嚥下する。
「……塩が足りません」
「だろ」
「次回は修正します」
「ああ」
それだけのやり取り。だが遼は、凛が「次回」と言ったことに気づいていた。一度きりの実験ではなく、次がある前提。改善を重ねて、遼のために料理を作り続けるという——おそらく凛自身は自覚していない——宣言。
遼は味噌汁を啜った。濃い。だが温かい。
二人は無言で食事を続けた。凛はいつもの大食らいで、鶏肉を追加で三切れ焼き直した。今度は遼が横から「もう十秒」「塩をひとつまみ」と声をかけた。二回目の鶏肉は、七十点になった。
食べ終わる。凛が箸を置いた。
「…………」
沈黙。
「……ごちそうさまでした」
三度目の「ごちそうさまでした」。だが今夜のそれは、過去二回と違っていた。自分が作った料理に、自分で「ごちそうさま」と言っている。矛盾しているはずだ。作った側のセリフではない。
なのに——それが自然に聞こえた。
凛が誰に対して言ったのかは、わからない。遼に対してか。料理に対してか。あるいは、二人で食卓を囲むという行為そのものに対してか。
遼は皿を重ねた。
「俺が洗う」
「肋骨が——」
「皿洗いくらいできる」
洗い物をした。右脇腹が痛んだが、我慢できる範囲だった。
凛はテーブルを拭いていた。足音が——今夜も聞こえた。靴下と床の摩擦音。小さいが、確かにそこにある音。凛が重力を持ち始めている。空気を押しのけて、床を踏んで、この部屋に存在している。
遼は洗い物を終え、手を拭いた。
リビングに戻ると、凛がソファの端に座っていた。目を閉じている。いつものスリープ——ではなさそうだった。閉じた瞼の奥で、何かがまだ回り続けているような気配がある。
(……まだ、処理してるのか)
「お前が大事だからだ」。
あの言葉を。
遼はポケットの中のヘアゴムに触れた。花柄。ピンク。小さなサイズ。毎日持ち歩いている。忘れた誰かの手がかりとして。
ソファの反対側に座った。
凛との間に、クッション一つ分の距離がある。初日は部屋の対角線上にいた。一週間目で壁際。十日目でソファの端。そして今夜、クッション一つ分。
距離が縮まっている。少しずつ、少しずつ。
凛の閉じた目の奥で、まだ演算が回っている。合理的な説明を求めて、見つからなくて、それでも止まらない無限ループ。
バグだ。凛のシステムに発生した、修正不能のバグ。
遼はそれを壊そうとは思わなかった。デバッグできるのは外の世界だけだ。そして——このバグは、壊していいものではない気がした。
遼は天井を見上げた。
(……大事だ、って言っちまったな)
嘘ではない。だが言うつもりもなかった。口が勝手に動いた——いや、違う。計算した上で言った。凛の前に立った時と同じだ。わかっていて、選んだ。
いつからだろう。
この銀髪の、無表情の、大食いの、棒読みの、足音のない少女が——いなくなったら困ると思い始めたのは。
答えは出ない。
凛の呼吸音が聞こえる。規則正しい。穏やかな。眠っているはずのない少女の、眠りに似た呼吸。
遼は目を閉じた。
右脇腹が痛む。肋骨が軋む。でもそれは、凛が無傷であることの証拠だ。
——悪くない取引だ、と思った。
§ § §
——報告ログ:Day 12
新宿地下街にてレベル三の空間バグを撃破。対象のデバッグと私のリストアの連携により処理完了。
戦闘中、重大な事象が発生しました。
核の暴走時、対象が自身の身体を盾にして私を庇護しました。Day 7の事案と類似していますが、今回は明確に異なります。Day 7では対象は「反射的に動いた」と述べましたが、今回は意図的でした。対象は核の攻撃パターンを認識した上で、それでも私の前に立ちました。
理由を問いました。
対象の回答:「お前が大事だからだ」
……
この回答を解析するために、私のシステムは約四十七秒間の処理を要しました。通常の応答遅延は〇・三秒以内です。一五六倍の処理遅延。原因は——回答が私の既存の解析フレームワークに適合しないためです。
「大事」という概念の定義を検索しました。結果は三千二百件。いずれも論理的に理解可能です。しかし、対象がこの単語を私に適用した場合の処理が、完了しません。無限ループに近い状態です。
……
なお、帰路にスーパーマーケットに立ち寄った際、店員「佐藤」が対象に声をかけました。「今日もお疲れさま」。対象は軽く会釈して立ち去りました。店員の行動に不審な点は認められませんでした。
ただし、私のシステムにノイズが発生しました。Day 3、Day 10と同種のものです。強度は過去最大でした。
報告は以上です。
——対象との感情的距離に関する懸念事項を認識した。Rin-01の処理パラメータを次回診断時に精査する。 〈管理局〉




