第25話「フリーズする心」
凛がそばに来た。遼の前にしゃがみ、顔を覗き込む。銀色の瞳が、遼の瞳孔と心拍数と呼吸数をスキャンしている。
「肋骨の骨折を確認。内臓損傷はなし。ただし安静が必要です」
「……わかってる」
「なぜ」
凛の声は平坦だった——はずだ。いつもの無感情な音声出力。だが今、その平坦さの下に、何かが軋んでいる。
「なぜ、庇ったのですか」
「……また聞くのか、それ」
「Day 7の時とは違います。今回、あなたは衝撃波の速度と私のシールド展開速度を計算した上で、意図的に私の前に立ちました。回避可能な損傷を、自ら選択しました」
「…………」
「私は管理端末です。損傷しても修復可能です。あなたは生身の人間です。肋骨の骨折は修復に六週間を要し、その間のデバッグ効率は著しく低下します。合理的な判断ではありません」
遼は壁にもたれたまま、天井を見上げた。地下通路の蛍光灯が白く光っている。
「……合理的じゃないのは知ってる」
「では、なぜ」
「…………」
遼は視線を天井から凛に移した。銀色の瞳が、真っ直ぐに遼を見ている。答えを待っている。計算式の解を待つように、じっと。
「……お前が大事だからだ」
凛の瞳が——止まった。
瞬きが停止した。呼吸のリズムが途切れた。肩の微細な揺れが消えた。まるで電源が落ちたように、月城凛という存在の動的な要素が全て停止した。
一秒。
二秒。
五秒。
十秒。
凛は動かない。
「……おい。月城」
反応がない。
「月城。凛」
名前を呼んだ。苗字ではなく。
凛の瞳が、微かに揺れた。焦点が戻る。瞬きが一つ。
「…………」
「……大丈夫か」
「……処理遅延が発生しました」
凛の声がいつもより小さかった。
「あなたの回答を解析するために、四十七秒を要しました」
「そんなにフリーズしてたのか」
「フリーズではありません。処理は実行されていました。ただ——完了しませんでした」
「……完了しない?」
「『大事』の定義を検索しました。三千二百件の該当データがあります。いずれも論理的に理解可能な概念です。しかし」
凛は一度、口を閉じた。
それから——遼が初めて見る表情をした。眉が僅かに寄り、唇が開きかけて閉じ、また開く。言葉を探している。データベースではなく、自分の中から。
「あなたがこの単語を……私に適用した場合の処理が、完了しません」
「…………」
「『大事だから庇った』。この論理構造は理解できます。大事なものを守るために損害を受け入れる。人間の行動パターンとして記録されています。しかし——」
凛の声が、さらに小さくなった。
「私が——その『大事なもの』に該当するという前提が、処理できません」
遼は凛を見つめた。銀色の瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。冷却液ではない。潤んでいるように見えるだけだ。たぶん。
「理由を解析しました。解析は完了しません。代替可能な管理端末である私を、不可逆な損傷のリスクを負って庇護する合理性が——存在しません。存在しないはずなのに、あなたはそれを実行しました。この矛盾を解消するための演算が、無限ループに——」
「凛」
遼が名前を呼んだ。
凛の言葉が止まった。
「難しく考えすぎだ」
「…………」
「お前が大事だから庇った。それだけだ。合理的じゃなくてもいい。理由がなくてもいい。——前にも言ったろ」
前にも言った。ヘアゴムの夜。「覚えてないけど大事なんだ。理由がなくても大事なんだ」。
凛はあの夜、「理解できません」と言った。
今夜も——たぶん理解できていない。
だが、あの夜と一つだけ違うことがあった。
「……理解できません」
凛はそう言った。そして——立ち上がらなかった。遼の前にしゃがんだまま、動かなかった。理解できないから拒絶するのではなく、理解できないまま、その場に留まることを選んだ。
あるいは——留まることしかできなかった。
無限ループの中で、凛のシステムは一つの結論だけを弾き続けている。
合理的な説明は存在しない。
合理的な説明は存在しない。
合理的な説明は存在しない。
なのに——朝霧遼は、私を庇った。
このエラーは解消されない。解消されないまま、凛のシステムの中に残り続ける。消去もできず、処理もできず、ただそこに存在する。
バグのように。
あるいは——バグではない、何かのように。
§ § §
帰り道、スーパーに寄った。
遼は右脇腹を庇いながらカゴを持ち、凛が横に並んで歩いた。肉のコーナーで鶏もも肉を取り、野菜コーナーで長ネギとキャベツを選ぶ。いつもなら遼が一人でさっさと済ませる買い物を、今夜は凛が無言でカゴを奪い取って持っていた。
「……別に持てるぞ」
「肋骨骨折者が三キロ以上の荷重を片手で保持することは推奨されません」
「三キロもないだろ」
「二・八キロです。推奨上限に近い値です」
「近いだけで超えてはないだろ」
「安全マージンを確保します」
遼は言い返すのをやめた。凛がカゴを持つ姿は、小柄な少女がエコバッグを抱えているようにしか見えない。銀髪がスーパーの蛍光灯に白く光っている。
レジに並んだ。
二番レジ。いつもの位置。いつもの——
「こんばんは。今日もお疲れさま」
佐藤沙耶が、いつもの笑顔で遼を迎えた。
ポニーテール。少しだけ大きめの眼鏡。エプロンの名札には「佐藤」。声は柔らかく、笑顔は自然で、どこからどう見ても「感じのいいレジのお姉さん」だった。
「どうも」
遼は軽く頭を下げた。沙耶がバーコードを通していく。ピッ、ピッ、ピッ。長ネギ、鶏肉、キャベツ。手際がいい。
「あら、今日はお連れさんがカゴ持ってるのね」
沙耶の視線が凛に向いた。微笑んでいる。感じがいい。
「…………」
凛は無言だった。沙耶を見ていた——が、今夜の凛の目は、いつもと違った。いつもなら湧き上がるはずの「不快なノイズ」が、今夜は検知されない。
凛のシステムがそれに気づいた。
ノイズが発生していない。Day 3の時は発生した。Day 10のヘアゴムの時も、形を変えて発生した。なのに今夜は、佐藤を見ても、佐藤が遼に微笑みかけても、ノイズが走らない。
代わりに——別の処理が凛のリソースを占有していた。
「お前が大事だからだ」。
この言葉の解析が、まだ完了していない。未完了の演算が凛のシステムの大部分を占有しており、佐藤に対するノイズ処理にリソースを割く余裕がなかった。
遼の「大事」が、沙耶の「ノイズ」を上書きしていた。
凛はそれに気づいていない。ただ、自分のシステムリソースが不明な演算に圧迫されていることだけを認識している。
「ありがとうございました。お気をつけて」
沙耶の声。遼が袋を受け取り——受け取ろうとした手を凛が遮って、袋を取った。
「肋骨骨折者は——」
「わかった。わかったから」
二人はスーパーを出た。
沙耶が、二人の背中を見送っていた。笑顔のまま。レジに手をかけたまま。次の客が並ぶまでの数秒間、その笑顔は——微動だにしなかった。




