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第23話「解析不能のノイズ」

 同居を始めて二週間が経った。


 四月に入り、東京の空気が少しだけ柔らかくなった。桜は散り際で、風が吹くたびにアパートのベランダに花びらが吹き込んでくる。遼は毎朝それを掃いていたが、凛は花びらを踏まないように歩いていた。訊いたら「汚損回避です」と答えるだろう。遼は訊かなかった。


 二週間。短いようで、長い。


 凛はもう壁際に立って夜を明かさなくなっていた。リビングのソファの端に座り、膝を揃えて目を閉じる。眠っているのか、スリープモードなのか、遼にはわからない。ただ朝になると目を開けて「おはようございます」と言う。その声が、初日より零コンマ何トーンか低くなっている気がした。


 朝食。遼は味噌汁を椀によそい、テーブルに二つ並べた。


「いただきます」


「…………」


 凛は無言で箸を取る。「いただきます」は、まだ言わない。「ごちそうさまでした」は言えるようになったのに、「いただきます」はまだ出てこない。遼はそれを不思議に思ったが、催促はしなかった。


 凛が味噌汁を啜る。一口。二口。三口——


「おかわり」


 遼は無言で鍋から追加をよそった。もう慣れた。凛の食事量は常軌を逸している。初日は遼が驚いて二度見したが、今では三合炊いても足りないことがあると学習済みだ。


「今日の出汁、昆布多めにしたんだけど」


「……検知しました。グルタミン酸ナトリウムの濃度が前回比一・三倍です」


「食レポがケミカルすぎる」


「事実を述べています」


「味の感想を聞いてんの」


「…………」


 凛は味噌汁の水面を見つめた。三秒。


「……悪くないです」


 遼の口元が僅かに緩んだ。「悪くない」凛の語彙で、これはかなり上位の評価だと、二週間で学んでいた。



§ § §



 その日の夕方、遼はプログラムの納品と打ち合わせで、新宿に出ていた。


 ノートPCの入ったバッグを下げて駅前を歩く遼の三歩後ろを、凛が正確な距離を保ってついてくる。


「……なんで仕事の打ち合わせにまでついて来るんだよ」


「監視対象の外出に同行するのは、管理端末の規定ロールです」


「取引先のおっさんが、お前のこと変な目で見てたぞ。『娘さんですか?』って」


「私の存在は、一般人の認識に対し『ただの同行者』として処理されるよう、微弱な認識阻害ノイズを無意識領域に展開しています。社会生活に支障はありません」


「阻害しきれてねえから聞かれてるんだろ」


「……出力の調整を検討します」


 そんな軽口を叩きながら、新宿駅の地下階段を降りた時だった。


 平日の夕方、地下通路には帰宅ラッシュの人波が流れている。スーツ姿のサラリーマン、制服の学生、キャリーケースを引く旅行者。誰もがスマホを見ながら歩いている。


 その中を歩いていた遼の足が、不意に止まった。

 同時に、三歩後ろを歩いていた凛の歩みもピタリと止まる。


「……気づいたか」


「はい。B1F東側連絡通路——前方百二十メートル。空間座標の異常を検知。レベル三です」


 人の流れが薄くなる。照明が一つ、チカチカと点滅している。天井のタイルが僅かに歪んでいた。一般人には「照明の故障」と「建物の経年劣化」に見えるだろう。遼の目には、違うものが見えていた。


 視界を切り替えた。


 世界が変わる。コンクリートの壁に設計図(ソースコード)が透け、床のタイルに座標データの格子が浮かぶ。


 通路の奥——突き当たりに、それはいた。


 空間が折り畳まれていた。通路の壁と壁の間に、あるはずのない空間が挟まっている。三次元の隙間に四次元の歪みがねじ込まれたような、物理法則を無視した空洞。その中心で、赤黒い核が脈打っていた。


 レベル三。確かにレベル三だが——


(……嫌な感じだ)


 核の拍動が不規則だった。通常のバグは一定のリズムで膨張と収縮を繰り返す。だがこいつは呼吸のたびにリズムが変わる。まるで何かを待っているような——


「朝霧。民間人の退避が必要です」


「ああ。やるぞ」


 遼はエアキーボードを展開した。深紅の光が指先から走り、空間のコードを読み取る。


 核の構造が見えた。表層は単純な空間座標の書き換え。だがその下に、三層の防御コードが重なっている。

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