第22話「ぬるいココア」
§ § §
風呂から出ると、リビングの灯りがついていた。
テーブルの上に、マグカップが一つ置いてある。湯気が立っている。
凛は壁際の定位置に立っていた。目を閉じたまま。
遼はマグカップを手に取った。中身はココアだった。少しぬるめ。
インスタントのココア。棚にあったのは知っている。だが遼は最近飲んでいなかった。凛が淹れたのだ。
一口飲んだ。甘い。少し粉っぽい。溶かし方が下手だ。
「……月城」
「はい」
凛は目を開けなかった。
「これ、お前が?」
「内部データベースの精神衛生管理カテゴリーに、『温かい飲み物は人間の不安を軽減する』とありました」
「……そうか」
「……先ほどの発言は、撤回します」
遼の手が止まった。
「破棄の推奨を取り消します。あなたがそのオブジェクトを保持する理由は——理解できませんが、あなたにとって重要であることは認識しました」
「……」
「合理的な説明ができない事象を、私は不快なノイズと分類しています。ですが——」
凛の声が、僅かに低くなった。
「あなたの苦しみも、私にとっては同じカテゴリのノイズです。合理的に処理できない。説明できない。ただ——消えない」
遼はココアを一口飲んだ。粉っぽい。だが温かい。
「……ありがとな」
「感謝される理由が——」
「いいから」
凛は口を閉じた。
遼はマグカップを両手で包んだまま、ソファに座った。雨はまだ降っている。窓を叩く音が、少しだけ穏やかになった気がした。
ポケットの中のヘアゴム。手の中のココア。
忘れた誰かの残り香と、隣にいる誰かの不器用な温度。
二つが胸の中で重なって、遼は目を閉じた。
——明日は晴れるらしい。天気予報を見たわけではない。ただ、なんとなくそう思った。
§ § §
——報告ログ:Day 10
本日、バグの検知はありませんでした。
対象は自宅にて通常業務に従事。夕食後、対象が空き部屋にて未登録のオブジェクト(花柄のヘアゴム、女性用、推定年齢一〇代の使用者に適合するサイズ)を発見しました。対象はこのオブジェクトに対して強い執着を示し、精神状態が不安定になりました。
私は対象にオブジェクトの破棄を推奨しましたが、拒否されました。
……
推奨理由は、対象の精神安定です。合理的な判断でした。
合理的な判断のはずでした。
……
報告を修正します。オブジェクト破棄の推奨を行った際、私のシステムに想定外のリソース消費が発生していました。対象がオブジェクトに注視している状態において、私の処理能力の約一七パーセントが不明な演算に割かれていました。この演算の目的を特定できていません。
Day 3に報告した「微弱なノイズ」と同種の現象と推定しますが、今回の方が強度が高く、持続時間も
……
報告は以上です。
一点、確認を要請します。
私は正常に稼働していますか。
——Rin-01の定期診断を前倒しで実施する。日程は追って通知する。 〈管理局〉




