第21話「不合理な執着」
§ § §
足音がした。
足音がない、はずの存在の足音。今夜に限って——いや、最近少しずつ増えている気がする。凛の歩行には時折、微かな靴下と床の摩擦音が混じるようになっていた。彼女がそれに気づいているかどうかは、わからない。
廊下で足音が止まった。開けっ放しのドアの前。
「……朝霧」
遼は振り返らなかった。
「入浴していないようですが。この部屋に来てから十五分が経過しています」
「……わかってる」
「何をしているのですか」
「……座ってる」
凛はドアの枠に手をかけたまま、遼の背中を見ていた。背中。丸まった肩。床に座り込んだ姿。握りしめた右手。
凛の視覚が、遼の右手に焦点を合わせた。指の隙間から、何かが覗いている。ピンク色。花柄。
「それは」
「……ここに落ちてた」
遼が手を開いた。花柄のヘアゴムが、手のひらの上で微かに光っている。
「この部屋に。壁際に。掃除してても気づかなかった」
「……」
「女の子のものだ。サイズからして、若い。中学生か、高校生か」
遼の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、感情を載せる先が見つからないような声。
「俺は一人暮らしのはずなんだ。ずっと一人で。この部屋は空き部屋で、誰もいたことがない。なのに週に一回掃除して、なのに物を入れる気にならなくて、なのに通るたびに足が止まって——」
声が途切れた。
「——なのに、こんなものが落ちてる」
沈黙。
雨が窓を叩いている。
凛は遼の背中を見つめていた。彼女の中で、複数の処理が並列で走っていた。
一つ目。この部屋に関する組織のデータベースへの照会。結果は——アクセス権限外。
二つ目。ヘアゴムの視覚データの解析。素材、サイズ、経年劣化の程度、花柄のパターン。一般に女子中高生が使用する廉価な製品。購入時期は推定一年半から二年以内。
三つ目。遼の現在の精神状態の推定。バイタルサインの変化、姿勢、声のトーン、呼吸の間隔。結果——不安定。前夜のカレーのレシピ消失からの回復が不完全なまま、新たなストレス要因が加算されている。
そして四つ目。
名前のつかない処理。
遼がヘアゴムを見つめている。遼の目が、凛に向けられるものとは全く違う色をしている。あの目は——凛がスーパーのレジで佐藤に感じた「不快なノイズ」と、同じカテゴリに属する何かを呼び起こしている。
だがレジの時とは違う。あの時は、ノイズの発生源が明確だった。佐藤という外部入力。今回の発生源は——ヘアゴム。物体。布と弾性繊維で構成された、直径四センチの環状の装飾品。
それが、凛のリソースを圧迫している。
不明なオブジェクトだ。データベースにない。遼の記録にもない。だがこの小さなオブジェクトは、遼の全注意を吸い込み、凛の存在をフレームの外に押し出している。
それが——不快だった。
理由は解析できない。遼が苦しんでいるのだから、パートナーとして気遣うべきだという処理は走っている。だがそれとは別の層で、もっと原始的な——コードの優先順位を無視した処理が、凛のシステムを掻き乱している。
凛は部屋に足を踏み入れた。
遼の前に立った。
見下ろす。遼が手のひらの上のヘアゴムを見つめている。凛ではなく、ヘアゴムを。
「朝霧」
「……なんだ」
「あなたがその不明なオブジェクトを見ていると」
「凛の声が、僅かに硬くなった」
「私のシステムリソースが圧迫されます」
「……何?」
「不快です」
遼が顔を上げた。
凛の銀色の瞳が、真っ直ぐに遼を見下ろしている。いつもの無表情——ではなかった。眉の角度が、零コンマ数ミリだけ変わっている。唇が、いつもより僅かに引き結ばれている。
人間ならば——怒っている、と言うかもしれない。あるいは拗ねている、と。
「破棄を推奨します」
「……は?」
「そのオブジェクトの保持は、あなたの精神状態に悪影響を与えています。カレーのレシピ消失から回復途上にある現在、追加の心理的負荷は合理的ではありません。即時破棄を推奨します」
凛の口調は論理的だった。言っていることは、筋が通っている。合理的に考えれば、出所不明のヘアゴム一つに執着することが精神衛生上よくないのは確かだ。
だが——その論理の裏側に、合理では説明できないものが透けていた。
遼はゆっくりと立ち上がった。ヘアゴムを右手に握ったまま。
「捨てない」
「推奨を拒否するのですか」
「ああ。捨てない」
「理由を」
「これは——俺が忘れた誰かのものだ。まだ名前も顔もわからない。でもここにいた。この部屋に、確かにいた。その証拠を捨てるわけにはいかない」
凛の目が、ヘアゴムを見た。それから遼の目を見た。そしてもう一度、ヘアゴムを見た。
沈黙が数秒。
「……理解できません」
凛の声が、少しだけ小さくなった。
「データの復元見込みがないオブジェクトを保持し続けることの、合理的な——」
「合理的じゃなくていいんだよ」
遼の声は穏やかだった。怒っていない。凛に対して怒る理由がない。
「覚えてないけど大事なんだ。理由がなくても大事なんだ。——お前には、わからないかもしれないけど」
最後の一言は、残酷だったかもしれない。
凛は何も言わなかった。
数秒の沈黙の後、踵を返して部屋を出た。足音が——今夜は、はっきりと聞こえた。廊下を歩く音。リビングに戻る音。壁際の定位置に立つ気配。
遼は手の中のヘアゴムを見つめた。
花柄。ピンク。小さなサイズ。
握って、ジーンズのポケットにしまった。
風呂に入ろう。そう思って部屋を出た。廊下の向こうで、凛が壁にもたれて立っている。目を閉じている。何かを処理しているのか、それとも——
遼は声をかけずに通り過ぎた。
今夜の凛は、少しだけいつもと違った。
佐藤の時にも似たような反応があった。「不快なノイズ」と呼んでいた。今回もそうなのか。ヘアゴムを見つめる遼に、ノイズが走ったのか。
風呂場の扉を閉め、シャワーを浴びる。
湯が頭を叩く音の中で、遼は考えた。
凛が「不快」と言った。ヘアゴムを見つめる遼を見て、リソースが圧迫されると言った。破棄しろと言った。
あれは——嫉妬、なのか。
機械が嫉妬する。プログラムが嫉妬する。ありえない。ありえないはずだ。
だが「冷却液」もありえなかった。「ごちそうさまでした」もありえなかった。ありえないことが、少しずつ積み重なっている。
遼はシャワーを止めた。
タオルで頭を拭きながら、脱衣所の鏡に映る自分の顔を見た。疲れている。いつも通り。
ポケットの中で、花柄のヘアゴムが温もりを持っている。遼の体温を吸って、少しだけ暖かくなっている。
忘れた誰かの温度の代わりに。




