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第20話「不明なオブジェクト」

 雨が降っていた。


 三月も終わりに近づいた水曜日の夜。窓の外で、細い雨が東京の街並みを洗っている。遠くで救急車のサイレンが鳴り、それもすぐに雨音の中に溶けて消えた。


 今日は異常(バグ)の検知がなかった。


 同居を始めて十日余り。バグのない夜というのは珍しかった。凛の端末が沈黙したまま夕食の時間が過ぎ、食器を洗い終わり、遼が受託案件のコードを書き始めても、まだ鳴らなかった。


 平和な夜だ。

 そんな夜に限って、遼は落ち着かなくなる。


 ノートパソコンの画面を閉じた。コードは書けていた。だが頭が別のところにある。


 昨日、カレーを作ろうとして失敗した。スパイスの順番を思い出せなかった。あの喪失感がまだ胸の底に沈んでいて、何かの拍子に浮き上がってくる。


 凛は壁際に立って端末のログを確認している。遼がパソコンを閉じたことには気づいているだろうが、何も言わない。このあたりの距離感は、十日で学習したらしい。遼が黙っている時は放っておく。話しかけてきた時だけ応じる。それが最適解だと、彼女のシステムは判断したのだろう。


 遼は立ち上がった。


「……風呂入ってくる」


「了解しました」


 風呂場に向かう。

 廊下を通る。


 ——あの部屋の前で、足が止まった。


 いつものことだ。毎晩、この部屋の前を通るたびに足が止まる。ドアノブに手をかけ、迷って、やめる。その繰り返し。


 今夜は——やめなかった。


 ドアを開けた。



§ § §



 部屋は綺麗で、空っぽだった。


 週に一度の掃除が行き届いて、埃ひとつない。フローリングの床に、窓から差し込む街灯の光が雨粒の影を落としている。雨の音がここでは少しだけ近い。窓がリビングより薄いのかもしれない。


 家具はない。何もない。


 なのに——この部屋だけ、空気の温度が違う気がした。暖かい、のではない。何かがあった頃の残り香のような、名前のつけられない気配がまだ漂っている。


 遼は部屋の中央に立った。


 ふと、視線が窓際の床に落ちた。


 何かが光っている。


 フローリングの隅、壁と床の境目。掃除機のノズルが届かない場所。窓からの光が、何かの表面に反射して、小さな点になっていた。


 遼は膝をついた。指を伸ばして——つまみ上げる。


 花柄のヘアゴムだった。


 小さい。細い髪に使うサイズ。ピンク色の地に白い小花が散っている。ゴムはまだ弾力が残っていて、最近まで使われていたことを示していた。


 遼の手が震えた。


(……これは、誰の)


 一人暮らしだ。少なくとも、遼の記憶の中ではずっと一人暮らしだ。この部屋に誰かがいたことはない。いたはずがない。


 なのに——このヘアゴムは、ここにある。


 花柄。小さなサイズ。明らかに、遼のものではない。この部屋に、遼以外の誰かがいた証拠が、壁と床の隙間にひっそりと残されていた。


 遼はヘアゴムを手のひらに載せた。


 軽い。こんなに軽いものが、こんなに重い。


(猫舌。小さな手。鰹節が好き。花柄のヘアゴム)


 断片が増えていく。名前のない誰かの輪郭が、一つずつ画素を増やしていく。だが解像度が足りない。顔がわからない。声がわからない。名前がわからない。


 ただ——この人がいた、という確信だけが、心臓の裏側に張りついて離れない。


 遼はヘアゴムを握りしめたまま、空っぽの部屋の真ん中に座り込んだ。


 雨の音だけが聞こえている。


 どれくらいそうしていたのか。五分か。十分か。あるいはもっとか。


 遼は動けなかった。立ち上がる気力がなかった。世界のバグを粉砕する力があっても、自分の中の欠落を修正する力はない。デバッグできるのは外側の世界だけで、内側の壊れたファイルには手が届かない。


 握ったヘアゴムの花柄が、手汗で少しだけ滲んだ。

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