第19話「不器用な推奨コマンド」
§ § §
凛は壁際からキッチンの入口に移動し、遼の背中を見ていた。
五分が経過した。遼は動かない。まな板の上の玉ねぎも、カウンターのスパイスも、出しっぱなしの鶏肉も、全てが止まったまま。
凛はこの沈黙を「処理待ち」と分類した。人間が情報を処理している間は、外部からの入力を受け付けないことがある。待機するのが最適な対応のはずだった。
だが——五分が経ち、六分が経ち、七分が経っても、遼は動かない。
凛の中で、想定外の処理負荷が発生していた。
名前のつかない変数。定義されていない関数。先日の路地裏で「不快なノイズ」と分類したものと同じ種類の——だが、あの時とは符号が違う。不快ではない。ただ、遼が黙っていると、凛のリソースが圧迫される。なぜかは解析できない。
凛は内部データベースにアクセスした。
検索クエリ:「人間 落ち込んでいる 対処法」
結果が返ってくる。三百七十二件のデータ。マナー本、心理学論文、ウェブ記事、フィクションの台詞集。凛はそれらを零コンマ三秒で走査し、最も使用頻度の高いフレーズを抽出した。
壁から離れた。キッチンに一歩踏み込む。
「朝霧」
遼は振り返らなかった。
「……元気を出してください」
沈黙。
「明日は明日の風が吹きます」
沈黙。
「……精神は安定しましたか」
台詞の抑揚が完全にフラットだった。イントネーションがない。感情がない。文字列を順番に音声化しているだけの、純粋な出力。
人間がこの言葉を聞いたら、からかわれていると思うかもしれない。あるいは、ふざけていると。
だが凛はふざけていない。三百七十二件のデータベースから最適解を選び出し、全力で実行した結果がこれだった。理屈だけは正しい。落ち込んでいる人間には励ましの言葉をかける。それがプロトコルだ。ただ——感情が伴っていない。伴わせ方を、知らない。
遼は動かない。凛は次のフレーズを検索した。
「……辛い時は、誰かに話すと楽になるそうです。私は誰かに該当しますか」
遼の肩が僅かに動いた。
「……今のは、どこから引っ張ってきた」
「内部データベースの精神衛生管理カテゴリーからです。適合率の高い順に出力しています」
「…………」
遼が振り返った。
その目は——赤かった。泣いてはいない。だが泣く一歩手前の、ぎりぎりの均衡の上に立っている目だった。
「……お前、さ」
「はい」
「昨日のハイブリッド設定ってのは、慰め言葉もすげえ棒読みになる仕様なのか」
「設定ではありません。また、感情表現の機能が実装されていないため、出力がフラットになるのは仕様です。……改善パッチを検索しますか」
遼の口元が、ほんの僅かだけ歪んだ。笑いなのか苦笑なのか、本人にもわからないような表情。
「……いい。もういい。無理すんな」
遼はコンロの火を消した。鶏肉を冷蔵庫に戻し、スパイスの瓶を棚に並べ直す。玉ねぎは——しばらく見つめてから、タッパーに入れて冷蔵庫にしまった。
「今日は作れない。代わりに何か買うか」
「……了解しました」
二人は再び外に出た。
コンビニで弁当を二つ買った。遼は唐揚げ弁当。凛の分は——遼が勝手に選んだ。鮭弁当。理由は訊かれなかったし、遼も説明しなかった。
部屋に戻り、テーブルに向かい合って座る。プラスチックの容器を開ける。箸を割る。
「いただきます」
遼がぼそりと言った。
一口。唐揚げ。
「…………」
食レポは出てこなかった。
凛も黙って鮭弁当を食べていた。白米、鮭、煮物、漬物。一つずつ、丁寧に口に運ぶ。
しばらくして、凛が口を開いた。
「……レシピは」
遼の箸が止まった。
「復元は不可能です。消去された記憶を復元する手段は、現時点では確認されていません」
「……知るか」
「ですが」
凛は鮭の切り身を見つめたまま言った。
「あなたが忘れたスパイスの組み合わせを、一から再構築することは可能です。試行と修正を繰り返せば、近似値に到達できます」
「……近似値」
「同じ味にはなりません。ですが、新しいレシピを構築することはできます。それは——」
凛の言葉が一瞬止まった。フレーズを検索しているのではなさそうだった。もっと別の、彼女自身の処理の中から、言葉を探しているように見えた。
「それは、喪失とは違うと思います」
遼は凛を見た。
銀色の瞳が、まっすぐに遼を見ている。棒読みの慰めを出力していた時とは、少しだけ違う目だった。三百七十二件のデータベースではなく、自分自身の演算から出てきた言葉。
正しいかどうかは、わからない。
だが——不器用に手を伸ばしている。それだけは確かだった。
「……そうかもな」
遼は唐揚げの最後の一つを口に放り込んだ。
「不味くはない。コンビニにしてはまあまあだ。衣がちょっと湿気てるけどな」
食レポが戻った。
些細な一言。だがそれは、止まっていた時計が再び動き始めた音に、似ていた。
凛は何も言わなかった。ただ鮭弁当の最後の白米を口に運び、箸を置いて、静かに言った。
「……ごちそうさまでした」
遼は少しだけ目を見開いた。
「ごちそうさまでした」。凛がその言葉を使うのは、初めてだった。「エネルギー補給完了」でも「食事は終了しました」でもなく。
データベースから引いたのか。それとも——
遼は訊かなかった。
弁当の容器をまとめてゴミ袋に入れ、テーブルを拭き、キッチンの灯りを消した。
棚に並んだスパイスの瓶が、暗闇の中で微かに光っていた。クミン、ターメリック、コリアンダー、ガラムマサラ、カルダモン。順番を忘れた五つの小瓶。
いつか、新しい順番を見つける日が来るのかもしれない。
同じ味にはならない。でも——新しいレシピを作ることはできる。
それが喪失ではないのかどうか、遼にはまだわからなかった。
ただ今夜、棒読みの慰めが少しだけ温かかったことは——覚えていようと思った。
§ § §
——報告ログ:Day 8
対象の自宅マンション階段にてレベル一の座標ループバグが発生。対象が単独でデバッグを実施し、消滅を確認。
代償として、対象の記憶から調理レシピの一部が消失しました。具体的にはスパイスカレーの調合順序および工程全般。対象はこの消失に強い精神的動揺を示し、調理を断念しました。
対象の精神状態が不安定であったため、対処しました。
その後、対象は回復傾向を示しています。
報告は以上です。
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〈管理局〉




