第18話「消えたレシピ」
§ § §
部屋に帰ると、凛がリビングの壁際に立っていた。
「おかえりなさい。帰宅が想定時刻より七分遅れています」
「階段で異常を一つ片付けてた」
「……このマンションで?」
「ああ」
凛の目が僅かに動いた。何かを処理している。だがそれについては何も言わず、遼がコンビニの袋をテーブルに置くのを見守っていた。
遼は袋からスパイスの瓶を取り出す。
クミン。ターメリック。コリアンダー。ガラムマサラ。カルダモン。
「……何を作るのですか」
「カレー」
冷蔵庫から鶏肉と玉ねぎを出す。ヨーグルトも。トマト缶はストックがある。
遼はエプロンをつけた。いつも使っている紺色の、飾り気のないものだ。
玉ねぎを刻む。包丁が軽快にまな板を叩く——はずだった。
手が止まった。
玉ねぎを刻んだ。それはいい。次は——飴色になるまで炒める。それもわかる。だがその先が——
(……スパイスの順番は)
クミンを手に取る。油に入れて香りを出す。そこまではいい。その次。ターメリックか? コリアンダーか? どの量で? どのタイミングで?
指が震えた。
覚えていない。
昨日までは覚えていたはずだ。誰かに教わったわけではない。誰かのために作り続けて、身体が覚えたレシピだった。分量も手順もメモなどなかった。手が勝手に動くから。いつもそうだった。
今夜、手が動かない。
「…………」
遼はクミンの瓶を握ったまま、コンロの前に立ち尽くしていた。
――代償だ。
階段のバグを壊した代わりに、消された記憶。それがよりによって——このレシピだった。
スパイスの順番。火加減。煮込む時間。仕上げに入れるもの。全部が消えている。手が震える。頭の中に穴が空いている。穴の形だけはわかる。そこにあったものの輪郭だけは感じる。だが中身がない。
(……誰かが好きだった、味だろ。これは)
誰かが「美味しい」と言ってくれた。誰かが「また作って」とねだった。その声の調子すら思い出せるのに——声の主の顔がわからない。
遼はスパイスの瓶をカウンターに置いた。
玉ねぎは刻んだまま、まな板の上で茶色くなり始めている。
何も言えなかった。
食レポどころではない。言葉が出てこない。いつもなら独り言でも感想でも何かしら口から出る遼が、完全に沈黙していた。




