第17話「階段の迷宮」
それは、自分の家の階段で起きた。
火曜日の夜。遼はコンビニの袋を片手にアパートの外階段を上っていた。三階の角部屋。いつもの帰り道。足元は暗が、十年近く住んでいれば段数くらい身体が覚えている。
十二段。踊り場。十二段。二階。十二段。踊り場。十二段——
(……長くないか?)
足が止まった。
三階に着くはずだった。だが目の前にあるのは、二階の踊り場だった。見覚えのある消火器。見覚えのある掲示板。さっき通ったばかりの、見覚えのある景色。
もう一度上る。十二段。踊り場。十二段。
二階の踊り場。同じ消火器。同じ掲示板。
(……ループか)
遼は目を細め、視界を切り替えた。
世界が変わる。階段のコンクリートに設計図の格子が走り、手すりの鉄骨にデータの脈流が透ける。
見えた。
二階と三階の間の空間座標が書き換えられている。三階へ向かう経路のデータが二階の入口に繋ぎ戻されており、どれだけ上っても同じ場所に帰ってくる無限ループが構築されていた。
古典的な異常だ。規模は小さい。だが——
(よりにもよって、うちの階段かよ)
これまでのバグは渋谷や吉祥寺の繁華街だった。人通りの多い場所、不特定多数に影響を与える場所。だが今回は、遼が住んでいるアパートの、日常の動線の上に発生している。
偶然か。それとも——
考える前に、動いた。
コンビニの袋を踊り場に置く。エアキーボードを展開する。ループの構造は単純だ。座標の書き換え元を特定し、元の値に修正すればいい。
「——修正を開始する」
指が走る。深紅의 光がコードを辿り、ループの根元に辿り着く。書き換えられた座標データ。上書きされた経路情報。その奥に、小さな核がある。赤い光が弱々しく脈打っている。
大したことはない。表層パッチで十分——
パッチが弾かれた。
(……は?)
もう一度。弾かれる。表層のコードは単純なのに、核だけが異様に深い。まるで水溜まりに見えた穴が、底なしの井戸だったように。
(こいつ……見かけより深い)
表層パッチでは届かない。深層に手を入れる必要がある。たかが階段のループバグに、深層デバッグ。割に合わない。だが放置すれば、朝までに他の住人が巻き込まれる。
遼は歯を食いしばった。
指が加速する。表層を突き抜け、深い層に潜る。核の本体を掴む。小さいくせに、根が深い。まるで何かに守られているように——
砕いた。
核が消滅し、ループが解ける。階段の上に三階の廊下が見えた。いつも通りの、自分の部屋に続く通路。
同時に——頭の中で何かが千切れた。
「——っ」
手すりを掴んで、辛うじて踏みとどまった。目の奥が灼ける。こめかみを内側から殴られたような痛み。
記憶の棚から、何かのファイルが消えた。
何を失ったのかは——いつものように——わからない。




