第16話「ごちそうさまでした」
遼は少しだけ歩調を落として、歩き始めた。凛が数歩遅れてついてくる。肩を庇っているのか、凛の歩みがいつもより僅かに遅かった。
アパートの外階段が見えた。三階の角部屋に灯りはない。
「……鯖の味噌煮、残りがある。温め直すか」
「……エネルギー補給は、完了しています」
「三合目の途中だっただろ」
凛は一瞬、沈黙した。
「……追加補給は、効率的です」
遼は鍵を開けた。
§ § §
キッチンの灯りをつける。
凛はテーブルに着いた。壁際の定位置ではなく、食卓の椅子に。遼は冷えた鯖の味噌煮を小鍋に移し、弱火にかけた。温め直しは急がない。
待っている間に、遼は洗面所に向かった。
ポケットからハンカチを取り出す。白いハンカチ。凛の肩に押し当てていたもの。
赤い染みが、広がっていた。
蛇口をひねる。水を出し、ハンカチを水に晒した。
赤い液体が流れていく。薄まりながら、水に溶けていく。
——普通の血なら、もっと繊維に染み込むはずだ。
遼の指が止まった。ハンカチの染みは、水だけであっさりと落ちていく。まるで、人間の血液とは組成が違うかのように。
(……冷却液、か)
蛇口の水だけが、静かに流れ続けている。
この一週間、遼はこの少女と寝食を共にしてきた。味噌汁を二杯飲む姿を見た。鯖の煮汁を白米に染み込ませて食べる姿を見た。コードレビューに口を出す姿も、褒め言葉を「記録しました」と保存する姿も。
全部覚えている。
そしてたった今、この少女は——遼を庇って傷ついた。「代替可能な存在」だと自分を定義しながら、体を張って衝撃波を防いだ。合理的な説明ができない行動を取った。
人間でないなら、あれは何だったのか。
人間でないなら——あの涙は、何だったのか。
ハンカチを絞る。水が切れる。染みは、綺麗に消えていた。
何もなかったかのように。
遼はハンカチを畳み、ポケットに戻した。
キッチンに戻ると、鯖の味噌煮が温まっていた。凛の前に皿を置く。白米をよそう。凛の茶碗は——もう覚えた——少し大きい方。
「食え」
「……はい」
凛は箸を取った。鯖を一口。白米を一口。煮汁を染み込ませて、もう一口。
食べるペースが、いつもより少しだけ遅かった。
遼は向かいの椅子に座り、腕を組んで凛の食事を見ていた。何も食べない。ただ、見ていた。
凛が食べ終えた。
「……ごちそうさまでした」
初めて聞いた言葉だった。
一週間分の「エネルギー補給完了」の代わりに、凛の口から出たのは——日本の食卓で最も人間的な、九文字。
遼は一瞬、息を止めた。
胸の奥で、何かが軋んだ。
——聞いたことがある。この言葉を。この響きを。誰かが、同じように「ごちそうさま」と言ってくれていた。毎晩、この食卓で。遼が作った料理を食べ終えた後、小さな声で。
誰だ。
思い出せない。顔も、声も、名前も。ただ「ごちそうさまでした」という九文字だけが、壊れたファイルの断片のように胸の中に引っかかっている。
遼は何も言わず、空の皿を下げた。
洗い物をする。一人分。さっきの食器はもう片付けてあったから。
廊下の向こうで、凛の規則正しい呼吸が聞こえている。今夜は壁際ではなく、布団に横たわっているようだった。自分から。何も言わずに。
眠る必要がないはずの存在の、静かな呼吸音。
泣く必要がないはずの存在の、乾いた頬。
「代替可能」と自称する存在が、なぜ人の前に立ったのか。
「ごちそうさまでした」と——なぜ、言ったのか。
遼はキッチンの灯りを消し、暗い天井を見上げた。
ポケットの中に、まだ濡れたハンカチがある。あの赤い液体の痕跡は洗い流したはずなのに、指先にはまだ、あの温度が残っている。
人間の血よりもほんの少しだけ低い、微かな温もり。訳もわからず能力に目覚め、訳もわからず世界のバグを修復し続ける日々。
記憶を失い続け、それでも確かに、誰かのために生きていた。
そして遼は思う。
そうか、俺は寂しかったのか、と。
人とも機械ともつかない、この奇妙な同居人。怪しげな組織からの監視者との生活に、少しだけ慣れてしまったのかもしれない、と。
——例えそれが思い出せない誰かの代替品だとしても。
§ § §
——報告ログ:Day 7
渋谷区神泉町にてレベル二(上限)の空間折り畳み型バグを撃破。対象のデバッグと私のリストアの連携により処理完了。民間人被害なし。
戦闘中、核の全方位衝撃波が発生。対象が私と衝撃波の間に身体を割り込ませる行動を取りました。私はリストア・シールドを展開し対象を防護。結果、私の左肩に軽微な損傷が発生しました。自己修復により対応済みです。
……
対象の行動について、注記があります。対象は「代替可能な存在」である私を庇うために、自身の身体を盾にしました。アンカーの安全を損なう行動であり、合理性がありません。行動理由を質問した際の回答は「お前が怪我するのを見たくなかっただけだ」。
この回答は私の解析アルゴリズムでは処理できませんでした。
……
なお、損傷時に冷却液の軽微な漏出がありましたが、活動に影響はありません。
報告は以上です。
——損傷の詳細データを送信せよ。メンテナンス審査の対象とする。 〈管理局〉




