第14話「神泉町の歪み」
§ § §
神泉町の路地裏は、昼でも薄暗い。
飲食店のビルとマンションが互いにもたれかかるように密集し、空が細い帯になって頭上に覗いている。配管が壁を這い、室外機が唸り、どこかの換気扇が油の匂いを吐き出している。
人通りはない。午後十時を過ぎたこの裏通りは、酔客すら寄りつかない種類の暗がりだった。
遼は目を細め、視界を切り替えた。
世界が変わる。
コンクリートの壁に設計図の格子が浮かび、路面にコードの流れが透けて見える。左右のビルの構造データが薄い青で輪郭を描き、排水管の中を流れるデータの脈動が可視化される。
そして——路地の奥に、赤い靄が蟠っていた。
空間が歪んでいる。物理的に、ではない。情報的に。路地の突き当たりにあるはずのT字路が消えて、代わりに同じ景色が鏡合わせのように折り畳まれている。空間の座標が書き換えられ、入った者を出口のない回廊に閉じ込める構造。
「空間折り畳み型。入ったら出られなくなる」
「確認しました。浸食範囲は半径約三十メートル。中心に核が一つ」
「核の深度は」
「……深い。レベル二の上限です」
遼は首を鳴らした。レベル二の上限。つまり、もう少しで三に届く規模だ。だが手に負えないほどではない。
「俺が突入して核を叩く。お前は外周の空間定義を復元で固定しろ。折り畳みがこれ以上広がったら、近くのマンションまで巻き込む」
「了解」
凛が銃を構え、路地の入口に立った。
遼は歪みの中に足を踏み入れる。
§ § §
その瞬間、世界が折れた。
路地裏の景色がガラスの破片のように砕け、同じ壁、同じ配管、同じ室外機が万華鏡のように繰り返される空間が展開された。足元のアスファルトが途切れ、その先は情報の虚空だ。落ちたら戻れない。
遼はグリッドの上を走った。実体のない足場だが、設計図を認識できる遼の目には「コードの橋」として見えている。
核が見えた。
折り畳まれた空間の中心。赤黒いコードの塊が、脈打ちながら回転している。周囲の空気が歪み、近づくだけで視界がノイズに覆われる。
エアキーボードを展開する。指を構える。
「——修正を開始する」
深紅の光が核に向かって走る。解析コード。構造を読み取り、弱点を探す。
核が反応した。
コードの塊から触手のような構造体が射出され、遼の足元を薙ぐ。跳んでかわし、着地点のグリッドが崩れ、慌てて隣の足場に飛び移る。
もう一撃。今度は頭上から。天井が——天井という概念が折り畳まれた空間で機能するならだが——崩落するように情報の瓦礫が降り注ぐ。
(速い——!)
指が走る。防御用のコードを編んで即席の盾にする。瓦礫が盾に当たって弾け散る。腕が痺れた。
核の防壁は三層。吉祥寺のコードビーストよりは薄い。だが核自体の攻撃性が高い。デバッグに集中できない。
(一人じゃ厳しいか——)
その時、白い光が背後から走った。
凛のリストアだ。外周を固定していたはずの凛が、路地の入口からリストア弾を撃ち込んでいた。白光が折り畳み空間の内壁に着弾し、歪んだ座標データを元の値に書き戻していく。万華鏡の一角が剥がれ、本来の路地裏の壁面が顔を出す。
核の防壁が揺らいだ。空間を維持するためにリソースを割いている核にとって、外壁の修復は二正面作戦を強いられるのと同じだ。
(今だ——!)
遼の指が加速する。防壁の亀裂にコマンドをねじ込む。一層目を突破。二層目——
核が暴れた。
全方位に衝撃波。赤黒いコードの奔流が、球状に膨張して空間を埋め尽くしていく。
遼の目がそれを捉えた瞬間、体が動いていた。
思考より先に。
振り返る。路地の入口で立射姿勢を取っていた凛の姿が見えた。衝撃波の波面が、彼女に向かって広がっていく。外周を固定するために前に出ていた分、直撃コースだ。
「月城ッ!」
遼は走った。グリッドの上を蹴り、崩壊する足場を飛び越え、凛との間に入った。
エアキーボードを展開する。防御コードを——間に合わない。波面が近すぎる。
両腕を広げて、壁になった。コードの盾も、デバッグの光も、何もない。ただの人間の体で、衝撃波の前に立った。
——衝撃。
視界が白く弾けた。体が浮き上がる感覚。背中から何かに叩きつけられ——
叩きつけられなかった。
背中に、柔らかい衝撃があった。
凛がいた。
遼の背後に回り込み、右手で遼の背中を押さえ、左手を前方に突き出していた。左手の指先から淡い白光が扇状に広がり、衝撃波を逸らしている。即席のリストア・シールド。衝撃波のエネルギーを「なかったこと」にして、遼を守っている。
だが——リストアは「攻撃を無効化する」能力ではない。「情報を元に戻す」能力だ。衝撃波という物理現象をそのまま消すには、凛のシステムに膨大な負荷がかかる。
白光が震えた。凛の左腕が、小さく痙攣した。
だがシールドは保った。
衝撃波が過ぎ去った瞬間——二層目と三層目の防壁が同時に消えた。凛のリストアがシールドと同時に防壁ごと「なかったこと」にしていた。一石二鳥。いや、一石三鳥。
あり得ない処理量だった。
核がむき出しになった。
遼は凛の腕の中から身を起こし、最後のコマンドを叩いた。
——核が砕けた。




