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第12話「思い出の残像」

 いつか、このログが意味を持つ日が来るかもしれない。


「……帰るか」


「はい」


 裏通りの向こうに、見慣れたアパートの外階段が見えた。三階の角部屋。二人の——いや、遼の部屋。

 凛が住みついてまだ三日だ。それなのに「帰る」場所が同じであることに、遼はもう違和感を感じなくなっていた。


 それもまた、一種の異常(バグ)なのかもしれない。



§ § §



 アパートに帰り着いた。


 買い物袋をテーブルに置く。コロッケ、唐揚げ、ほうれん草、卵、豆腐。惣菜で済ませるつもりだったのだが、ほうれん草と卵と豆腐が目に入った瞬間、遼の手は勝手に動き始めていた。


 エプロンを手に取る。紺色の、飾り気のないやつ。首にかけ、腰で紐を結ぶ。


 コロッケはオーブントースターで温め直す。衣のカリッとした食感を蘇らせるには三分。その間にほうれん草を茹でておひたしにする。卵と豆腐はスープに回す。コンソメに溶き卵を流し、豆腐を小さく切って加える。


 惣菜で済ませるつもりが、結局四品になった。朝霧遼という男は、台所に立つと手が止まらなくなる生き物なのだ。治療法は今のところ見つかっていない。


 テーブルに料理を並べる。


 コロッケ。唐揚げ。ほうれん草のおひたし。卵と豆腐のスープ。ご飯。


 遼は食器棚に手を伸ばした。


 皿を二枚。

 箸を二膳。

 取り皿を二つ。

 湯呑みを二つ。


 テーブルに、向かい合うように並べた。


 片方の席には、一回り小さい皿を選んでいた。コロッケを二つに切って、食べやすい大きさにして盛りつけた。唐揚げには添えのレモンを搾ってやった。おひたしには鰹節を多めにかけた。

 湯呑みにはお茶を注いだ。少しぬるめに。猫舌の人間が飲みやすいように。


 その全てが——完全に、無意識だった。


 凛はリビングの壁際に立ったまま、一部始終を見ていた。


 二人分の食器。向かい合う配置。それ自体はおかしくない。今この部屋には二人の人間がいる。

 だが——向かい側の席の設え方が、違っていた。


 小さめの皿。食べやすく切られた惣菜。冷ましたお茶。鰹節を多くかけたおひたし。

 それは「監視対象が監視者に食事を提供する」配膳ではなかった。

 年上の人間が、年下の家族に食事を用意する——長い年月をかけて最適化された、愛情の定型処理(ルーティン)だった。


「……誰の分ですか」


 凛の声が、静かに落ちた。


 遼の手が止まった。


 湯呑みを持ったまま、テーブルを見下ろす。二人分の食器。向かい合う皿。小さく切られたコロッケ。ぬるめのお茶。


(——俺は、何をしている)


 目の前に凛はいる。二人分で、合っている。合っているはずだ。

 だが——この配置は、凛のためのものじゃない。


 身体が覚えている。

 頭が忘れてしまった誰かのために、手が勝手に動いている。小さめの皿を選ぶ。食べやすく切る。鰹節を多めにかける。猫舌だから、お茶はぬるめに。


 ——誰が猫舌だ。誰の好みだ。誰にこうしていた。


 思い出せない。


「……間違えた」


 遼の声が、掠れた。


 小さい方の皿を食器棚に戻す。コロッケを一つの皿にまとめ直す。お茶を淹れ直す。湯呑みを一つ、棚に戻す。


 戻す手が、震えた。


「……座れよ、月城。冷める」


「……了解しました」


 凛は壁から離れ、テーブルの前に座った。

 遼がやり直した配置——均等な二人分の食卓。さっきまでとは違う、対称な皿の並び。


 食事は静かだった。


 遼はいつもの食レポを始めなかった。コロッケを齧り、おひたしを食べ、スープをすすった。味の感想は出てこなかった。

 不味いわけではない。半額のコロッケはオーブントースターで完璧に温め直されているし、ほうれん草の茹で加減も悪くない。わかっている。わかっているが——


 言葉が、出ない。

 感想を述べる相手が。隣にいたはずの誰かが。見つからない。


 凛も黙って食べていた。

 コロッケを一切れ、口に入れる。咀嚼する。飲み込む。

 唐揚げ。スープ。おひたし。黙々と、しかし確実に、皿の上のものが消えていく。


「……このコロッケは」


 遼が顔を上げた。


「オーブントースターでの再加熱により、衣の水分が適度に飛んでいます。スーパーの惣菜をここまで再現できるのは——」


 凛は一瞬、言葉を切った。


「……美味しい、と。思います」


 最後の三文字が、他の単語より僅かに小さかった。

 「思います」。断定ではない。自信のない、探るような語尾。感情がないはずのシステムが、感想という未定義の出力を、恐る恐る試みている。


 遼は数秒、凛の顔を見つめた。

 銀色の瞳は皿の上に向けられている。表情はやはり——ない。だが箸を持つ手が、ほんの僅かだけ丁寧に動いているように見えた。


「……そうか。ありがとな」


「感謝される理由が不明です」


「いいから。食え」


「……はい」


 食器を洗った。二人分。


 今日の二人分は、最初から正しかったのか。それとも、途中で修正されてようやく正しくなったのか。遼にはわからなかった。


 わかっているのは一つだけだ。

 自分の手が覚えている誰かは——今この部屋にいる銀髪の少女とは、違う。


 シンクに水を流しながら、遼は目を閉じた。


 猫舌。小さな手。鰹節が好き。


 たったそれだけの情報が、壊れたファイル(データ)の断片のように胸の中に散らばっている。開こうとしても中身は読めない。名前も、顔も、声も、何一つ復元できない。

 ただ——その人がいたという痕跡だけが、遼の手に、身体に、台所のあちこちに、染みついている。


(……誰なんだ、お前は)


 答えは返ってこなかった。

 朝霧遼は食器を拭き終え、エプロンを畳み、静かにキッチンの灯りを消した。


 隣の部屋から、規則正しい呼吸が聞こえる。眠る必要がないはずの少女の、穏やかな呼吸音。

 そしてどこか遠くで——遼がまだ知らない誰かが、思い出されるのを待っている。



§ § §



 ——報告ログ:Day 3


 本日、吉祥寺アーケード商店街屋上にてレベル三のコードビーストを撃破。対象のデバッグと私のリストアの連携により、民間人への被害はゼロ。作戦効率は前回比で大幅に向上しています。


 戦闘後、アーケード内のスーパーマーケットにて食材調達に同行。この際、店員(名札表記「佐藤」、女性、推定二十代後半)が対象に親しげに接触しました。


 当該店員に対し、警戒反応が発生。身体が自律的に対象と店員の間に割り込む行動を出力しました。


 原因を解析中です。当該店員のIDデータベース照合を試みましたが、該当データなし。一般民間人と判定されます。にもかかわらず、接触時に私のシステムに微弱なノイズが発生しました。原因は


 原因は不明です。引き続き経過を観察します。


 なお、対象が帰宅後に無意識に二人分の食器を配膳する行動が確認されました。対象の生活圏に、記録にない同居者が存在していた可能性があります。


 報告は以上です。


 ——店員「佐藤」のデータを改めて照会する。結果を待て。 〈管理局〉

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