第11話「スーパーマーケットの戦場」
§ § §
アーケード内の大型スーパー。
都民の罰と呼ばれる戦場が、ここにもあった。
いや——ここが本丸だ。吉祥寺の大型店舗は夕方を過ぎると惣菜コーナーが修羅場と化す。半額シールの黄色い輝きを巡り、主婦とサラリーマンと学生と節約エンジニアが静かな死闘を繰り広げる空間。参加者は皆、笑顔の裏に鬼を飼っている。
朝霧遼は、歴戦の勇者の顔をしていた。
「月城。俺から離れるな」
「了解。しかし、先ほどのコードビースト戦より緊迫した声に聞こえるのですが」
「気のせいじゃない。こっちの方が手強い」
惣菜コーナーに踏み込む。遼の目が鷹のように棚を走査した。
世界の設計図を読み解く能力は、残念ながら半額シールの発見には応用できない。だが十年間この商店街に通い詰めた男の観察眼は、それに匹敵する精度を持っている。
鶏の唐揚げ。半額。右奥、三番目の棚。
ポテトサラダ。三割引。手前のワゴン。
コロッケ。半額。左端。まだ誰も気づいていない。
遼は迷わず左端に向かった。コロッケのパックを手に取る。ずしりとした重み。六個入り。
完璧だ。
続いて唐揚げへ。こちらは競争率が高い。案の定、反対側から中年の男性が同じパックに手を伸ばしていた。指先が触れたのは同時——に見えたが、遼の手が僅かに早かった。
「……すみません」
「いやいや、お兄さんの方が早かったよ」
男性は苦笑して立ち去った。遼は内心で合掌する。半額の唐揚げに手を伸ばした勇気には敬意を払いたい。だが戦場では、速い者が生き残る。
(今日は豊作だ——!)
ほうれん草、卵、豆腐。定番の食材をカゴに放り込み、最後にコンソメスープの素を一箱。
遼の足取りは軽い。バグを倒した後より、明らかに機嫌がいい。世界を救うことよりも半額のコロッケを確保することの方が足取りを軽くするのだから、この男の優先順位は根本から設計を見直した方がよいのかもしれない。
凛はカゴの中身をじっと見下ろしていた。
「……これら食材の総コストは、通常価格の約六十三パーセントです」
「俺の戦果を数値化するな」
「三十七パーセントのコスト削減は、戦略的に優秀な数値です」
「……褒められてるのか馬鹿にされてるのかわからん」
「事実を報告しています」
レジへ向かう。
前の客が小銭を数えているようで少し待たされた。遼はカゴの中の戦利品を眺めながら、コロッケの温め方を頭の中で組み立て始めていた。オーブントースターで三分。衣がカリッと——
「半額ハンターさん。いらっしゃい」
顔を上げた。
レジの向こう側に、見覚えのある顔があった。
黒髪をひとつに結んだ、切れ長の目。人懐こい笑顔。
「あら、今日大型店の方にいらしたんですか?」
「……あ、どうもここでも働いてるんですか」
「手が足りないと、あちこちに派遣されるんですよ」
名札には『佐藤』。家の近所のミニスーパーで顔を覚えられた、あの店員だった。
二つの店舗を掛け持ちとは大変だろう。遼は少しだけ感心しながら、カゴの中身をカウンターに並べた。
「今日はずいぶん大漁ですね。唐揚げにコロッケ、お祝い事ですか?」
「いえ、普通の買い出しです」
「ふふ、半額ハンターさんの『普通』は、一般人から見たら大漁ですよ」
「——あら。お隣の可愛い子、彼女さんですか?」
遼が答えるより早く、声が割り込んだ。
「私は彼女ではありません」
凛の身体が動いた。
レジカウンターと遼の間に、するりと滑り込む。物理的に。正確に自分の肩幅ぶんの空間を確保するようにして、背中で遼を佐藤から遮った。
「管理プロトコルです」
銀色の瞳が、レジの向こう側を見据える。
「対象への不要な接触は推奨しません。会計プロセスを迅速に完了してください」
冷たい声だった。ガラス屋根の上でコードビーストに向けた時よりも——ほんの僅かだけ、温度が低い。
レジ周辺の空気が凍った。
後ろに並んでいた客が、何事かと目を丸くしている。
「か、管理プロトコルって——いや、その、同居人みたいなもので——」
遼が慌てて取り繕う。一般人の前でシステム用語を展開するのはやめてくれ。
佐藤は一瞬だけ目を見開いた後——ゆっくりと口角を上げた。面白いものを見つけた猫のような笑み。
「あらあら。同居。お若いのに仲がよろしいんですね」
「い、いや、そういうのとは全然——」
「……早く」
凛が低く言った。
佐藤はくすくすと笑いながら、残りの商品のバーコードを読み取っていく。
「はい、お会計こちらです。——またいらしてくださいね」
一拍。
「お二人とも」
袋を受け取り、レジを離れる。
遼は凛の横顔をちらりと見た。銀髪がさらりと揺れている。表情は——ない。いつも通りの、何の感情も宿していない完璧な無表情。
のはずだった。
だが遼は気づいていた。凛がレジを離れる直前、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——振り返って佐藤を見たことに。
あの銀色の瞳が、笑顔の店員を走査するように動いたことに。
「月城」
「はい」
「さっきのは何だ」
「対象の安全確保です。不審な接触を排除しました」
「スーパーのレジで世間話してるだけだろ」
「あの店員は不自然です。二つの店舗であなたと接触しています。偶然とは断定できません」
それは——まあ、一理あるかもしれない。偶然の一致にしては出来すぎていると言われれば、プログラマーの勘としても引っかからないわけではない。
だが。
「それだけか?」
「……それだけです」
「本当に?」
「……ニュアンスです」
またそれだ。
この少女は、説明できない自分の行動に出くわすと、「ニュアンス」の一言で片付ける。プログラムが定義できない変数に遭遇した時の、一時的なエラーハンドリング。人間で言えば——「なんとなく」に近い。
だが「なんとなく」は感情の領域だ。
感情がないはずのシステムに、「なんとなく」があっていいのか。
§ § §
帰り道。
アーケードを抜け、吉祥寺本町の裏通りを歩く。飲食店の排気口から夕食の支度の匂いが漂ってくる。空が橙色に染まり始めていた。
凛は遼の隣を歩いていた。三歩後ろではなく、隣。買い出し前に修正された距離感を、そのまま維持している。
しばらく無言で歩いた。
買い物袋がかさかさと鳴る。どこかの家の窓からテレビの音が漏れている。平和な夕暮れの住宅街。
「なぁ、月城」
「はい」
「さっきの……佐藤さんと話してた時。お前のあの反応、安全確保だけじゃなかっただろ」
凛の歩調は乱れなかった。だが答えるまでに、普段より長い間があった。
「……あの店員があなたに話しかけている間、私の処理リソースに想定外の負荷が発生しました」
「負荷?」
「原因を解析しましたが、合理的な説明を生成できませんでした」
「……」
「ノイズです」
凛は断言した。
「不快なノイズ。有意なデータではないため、ログから除外すべき信号です」
不快なノイズ。
感情がないはずのシステムが、「不快」を知っている。名前のつかない何かが、この少女の中で処理しきれずに溢れている。
遼はそれ以上、追及しなかった。
ただ——「不快なノイズ」という四文字を、プログラマーの習性で記憶の隅にそっと保存した。




