第10話「屋上の死闘」
近くで見ると、さらに巨大だった。八本の脚がフレームに食い込み、体表を走るエラーコードがのたうっている。腹部の中心で、赤黒い光が脈動していた。核だ。
だが核の周囲を、五重に折り畳まれたコードの壁が覆っている。層の一つ一つが異なる暗号化パターンで編まれ、外部からの干渉を拒絶している。
(硬い。表層のパッチじゃ抜けない——)
先日の路地裏と同じだ。だが、あの時と一つだけ違うことがある。
隣に、凛がいる。
「月城。核の周りに防壁がある。五層だ。俺の修正じゃ外からは崩せない」
「確認しました」
「お前の復元で、防壁を『元に戻せる』か。あのコードはもともとあるべきものじゃない。バグが自分を守るために捏造した構造だ。お前の力で《《なかったこと》》にできるなら——」
「核が露出します」
凛は一拍で理解した。
遼の修正は、バグの因果を破壊する。凛の復元は、バグの捏造を無効化する。一人では抜けない防壁を、二人の能力の掛け合わせで解く。
ビーストがこちらに気づいた。八つの赤い光点が同時に遼を捉え、脚の一本が持ち上がる。
「やるぞ」
「了解」
遼は空中に手を伸ばした。イメージのキーボードが展開する。
「——修正を開始する」
指が走る。深紅の光がグリッドを駆け抜け、ビーストの体表に突き刺さった。攻撃ではない。解析コードだ。五重の防壁の構造データを吸い上げ、凛に送る。
ビーストの脚が振り下ろされた。ガラスが軋む。遼は横に跳んでかわし、フレームの上を滑って体勢を立て直す。
「データ受領」
凛が銃を引き抜いた。構える。
——発射。
弾丸ではない。淡い白光の弾が防壁に着弾し、コードの折り畳みを内側から展開していく。バグが捏造した防壁が、「存在しなかった」状態へと巻き戻されていく。
一層目が消えた。
二層。
三層——ビーストが暴れた。残りの脚が乱打のように屋根を叩く。ガラスに亀裂が走り、フレームが悲鳴を上げた。
「四層」
凛の声は揺らがない。もう一発。四層目が溶けるように消滅した。
「五層——展開完了」
核がむき出しになった。赤黒い光の塊。ぐちゃぐちゃに絡まったエラーコードの心臓が、裸のまま脈打っている。
遼の指が、最後のコマンドを叩いた。
——一撃。
深紅の光が核を貫いた。
赤い破片が爆散し、ビーストの巨体が音もなく崩壊を始める。八本の脚が力を失い、体表のコードが塵のように散っていく——
(——このままガラスに落ちたら!)
崩壊する質量が、そのままガラス屋根の上に降り注ぐ。ガラスの下には、何百人もの人間がいる。
「復元」
凛の声が、鋭く空間を切り裂いた。
右手がガラスの表面に触れる。指先から爆発的に広がった白い光が、崩壊するビーストの残骸を片端から消去し、亀裂の入ったガラスの構造データを修復し、歪んだフレームを元の形に巻き戻していく。
コンマ数秒。
ビーストの痕跡は消えた。ガラス屋根は傷一つなく、午後の陽光をそのまま通している。
眼下では——何も起きていなかった。
母親がベビーカーを押している。老夫婦が手を繋いで歩いている。女の子がソフトクリームを舐めている。
頭上の死も、それを防いだ二人のことも、誰一人として知らない。
遼は膝に手をつき、大きく息を吐いた。右目の奥が疼くが、先日の路地裏ほどの反動はない。
(……一人でやるより、遥かに楽だ)
三年間、ずっと一人で戦ってきた。壊して、壊して、壊して。一人で背負って、一人で記憶を失って。
だが今日は——壊す役と、直す役がいた。
「……神業だな、お前のリストア」
「あなたの解析データが正確だったからです」
「褒めてんだよ」
「……記録しました」
また記録だ。この少女は褒め言葉をファイルに保存する。いつか容量を圧迫しないか心配になるが、今のところ空き容量は十分にあるらしい。
「さて」
遼は立ち上がった。ジャケットの袖が裂けているが、気にしない。
「本題に入るか」
「……本題?」
「買い出しだよ。スーパーに行く」
世界の異常を粉砕した男は、そのまま食材の調達に向かった。
優先順位が壊れているのは、おそらく世界ではなく朝霧遼の方である。




