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第9話「不快なノイズ」

 休日の買い出しは、朝霧遼にとって神聖な行事である。


 同居三日目の土曜日。遼は玄関で靴を履きながら、背後に直立する銀髪の少女に声をかけた。


「出るぞ、月城」


「行動目的を報告してください」


「買い出し。食材が切れた」


「……食材調達は、私の監視任務に含まれません」


「じゃあ留守番してろ」


「それは承認できません。対象から半径五十メートル以上離れることは規定により——」


「なら来い」


 月城凛は一瞬だけ口を閉じた後、無言で靴を履いた。

 三日間の同居で、遼はこの少女の扱い方を一つ覚えた。選択肢を二つだけ提示する。「留守番」と「同行」。監視任務を最優先とする凛のシステムは、対象から離れるという選択肢を自動的に却下する。結果、こちらの意図通りの解が出力される。


(……プログラマーの本能だな)


 人の設計を読み解くのも、コードを読み解くのも、本質は変わらない。



§ § §



 吉祥寺のアーケード商店街。


 ガラス屋根の下に広がる長い通りは、休日の午後ともなると人の波で溢れかえる。家族連れ、カップル、食べ歩きの学生たち。焼き立てのパンの匂いと笑い声と店の呼び込みが混ざり合う、平和という概念を砂糖漬けにしたような空間だった。


 凛は遼の正確に三歩後ろを維持して歩いていた。通行人の隙間を縫う動きには無駄がなく、ぶつかることも、ぶつかられることもない。人混みの中を歩いているというより、群衆の座標データを事前にスキャンして最適経路を算出しているかのような——まあ、おそらく本当にそうしているのだろう。


「月城、後ろを歩くな。護送みたいに見える」


「監視対象との適正距離です」


「隣」


 凛は一拍だけ間を置いた後、遼の横に並んだ。歩幅を合わせる精度が人間離れしているのだが、指摘しても「仕様です」と返されるだけなので、遼は黙っていた。


 見上げたアーケードのガラス屋根に、午後の陽光が降り注いでいる。光の筋がガラスを透過し、通りを歩く人々の肩や頭に斑の影を落としていた。

 穏やかな午後だ。


 ——遼の右目が、疼いた。


 足が止まった。


(……嘘だろ)


 視界を切り替える。日常の色彩が退き、世界の解像度が落ち、グリッドが走る。アーケードの天井が透過し、ガラスの向こう側が設計図(ソースコード)の海に沈んだ。


 屋根の上に、何かがいた。


 巨大だった。

 蛍光色のコードが凝集し、節足動物じみた構造体を形成している。八本の脚がガラス屋根のフレームに巻きつき、全長は十メートルを優に超えていた。体表を流れる赤いエラーコードが心臓の鼓動のように脈打ち、腹部から滴り落ちるデータの雫が、ガラスの表面を静かに侵食している。


 コードビースト。

 先日の路地裏で遭遇したものとは、桁が違う。


 ガラスの下では、何百人もの人間が笑い合い、歩き回っている。クレープを食べ、服を選び、子供の手を引いている。頭上に蹲る巨大な獣の存在に、誰一人として気づいていない。


「月城」


「……検知済みです」


 凛の声が僅かに硬くなった。銀色の瞳が天井を見据えている。


「規模はわかるか?」


「レベル三。アーケード屋根の構造データに浸食が進行中です。放置した場合——推定四十分後にガラスの定義情報が崩壊します」


「つまり」


「天井が落ちます。この通りにいる全員の頭の上に」


 遼は人混みを見渡した。

 ベビーカーを押す母親。手を繋いで歩く老夫婦。ソフトクリームを舐めている小さな女の子。

 みんな笑っている。


「……上がるぞ」


「方法は」


「裏手に管理用の通用口がある。この商店街に十年通ってれば、裏口の位置くらい覚える」


 二人は人の流れに逆らうようにアーケードの脇道に滑り込んだ。『関係者以外立入禁止』の扉の前で、遼が周囲を確認する。


「暗証番号か。さすがに——」


 凛が無言でパネルに四桁を入力した。ロックが解除される。


「……なぜ知ってる」


「赤外線でボタン表面の指紋残留パターンを解析しました。使用頻度の高い四つの数字から、最も確率の高い順列を——」


「もういい。行くぞ」


 非常階段を駆け上がる。屋上のメンテナンス用ハッチを押し開けると、ガラス屋根の上に出た。

 風が吹いた。午後の暖かな風ではない。データの奔流が肌を叩く、情報の圧力。


 ——目の前に、それ(ビースト)がいた。

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