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八時の部屋  作者: 空の異変


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第六章 二人の傷

 昨日の夜、八時になっても誰も帰ってこなかった。

 美緒は八時に部屋へ行かなかった。行くはずの扉は閉まったままで、廊下の時計だけが動いている。わたしは妹を自分の布団に入れて、一晩そこにいた。

 朝、美緒は起きてこなかった。

 名前を呼ぶと目は開いた。わたしのほうを見て、また閉じる。額は熱くない。息は昨日より浅くて、間が長い。

 水を口元まで持っていったら、少しだけ飲んだ。

 夜のあいだ、家の中で何度か音がした。二階の廊下の板が鳴って、台所の戸が動いて、また静かになる。誰かが隠れているのか風なのかを確かめに行くことは、しなかった。美緒の手がわたしの袖を握っていたからだ。


    *


 約束の場所は二階の納戸だった。

 扉を開けると埃の匂いがした。左の棚に夏用の座布団が五枚重ねてある。右のハンガーには冬物のコートが並んでいる。

 夏の上着は三着あった。一着目のポケットは空。二着目も空だった。三着目の内ポケットに、去年の梅雨に買ったのど飴が一つ、袋ごと乾いて入っている。

 紙は、どこにもなかった。

 納戸には二年ぶんの埃が積もっている。母がいたころは、ここで衣替えをした。夏物と冬物を入れ替える日が、うちで一番物の動く日だ。今は動かないまま、両方が並んでいる。

 一階に下りて、台所の引き出しから果物ナイフを取り、パーカーのポケットに入れた。一昨日、美緒から取り上げてここに戻したものだ。

 継父の部屋の隣の扉が、開いていた。

 中は最初の夜と同じだった。白い布をかけた台。棚のラベルのない小瓶。金属のトレイ。違うのは、床に書類が散らばっていることと、棚の引き出しが二段抜けていることだけだ。

 書類を一枚拾った。数字と記号の表で、キャビネットで見たのと同じ様式だ。右上の欄に日付が入っている。昨日の日付だった。書いた人は、昨日この部屋にいた。

「紗季」

 棚の陰から声がした。

 出てきたのは、あの人だった。継父の部屋着を着ている。うちの洗濯機で洗っているやつだ。左の眉から目の上にかけて、白いガーゼが貼ってある。

「よかった。生きてたか」

「……顔、どうしたんですか」

「あいつとやり合った。説明している時間はない。美緒はどうしてる」

「寝ています。起こしても、すぐ目を閉じます」

「起きないだろう。あれはそろそろ切れる」

「切れる、って」

「今日やらなければ、お前の妹は戻らない」

 妹は戻らない、という言い方をわたしは知っている。戻らないのなら、今すぐ病院へ連れていく話になるはずだ。この人はそれを言わない。この二日、この家の外にいる人の名前が、一度も出てこない。


    *


 わたしはガーゼを見ていた。

 一昨日、美緒が刺したのは腹だ。自分の目で見ている。シャツの前が濡れていくのも見た。この人は腹を押さえていない。歩くときに体をかばってもいない。新しいのは、顔に貼ったものだけだ。

「お腹は」

「なんだ」

「一昨日、刺されたのはお腹でしたよね」

 男が一歩近づいた。

「塞がった」

「二日で?」

「紗季。今はその話じゃない。私があいつをここへ連れてくる。お前はここにいて、入口を開けておけ。あとは私がやる」

 わたしは男の手首を見た。袖の下から出ているところに、擦れた輪の跡がない。半地下で見たときは、両方の手首にあった。

「すみません。美緒を見てきます」

 扉のほうへ歩いた。

 男の手が先に扉にかかった。それから、その手が止まる。

 廊下から音がした。物が倒れる音。走る音。壁に何かがぶつかる音。近づいてくる。

 扉が内側に開いて、もう一人が入ってきた。

 同じ部屋着だった。同じ形の、同じ色の、うちの洗濯機で回っている服。髪の乱れ方まで似ている。

 二人が組み合って、扉の前で倒れた。出口はそこにある。わたしは棚まで下がった。

 棚には小瓶が並んでいて、背中で押すとガラス同士が鳴った。床の書類が足の下で滑る。この部屋に窓はない。入ってきた扉のほかに、出るところがなかった。

「紗季、刺せ」

「紗季、そいつだ」

 声が同じだから、どちらが言ったのかがわからない。

 二人が離れた。前にいるほうがこちらへ歩いてくる。後ろのほうが、それを追う。

 前の男の右の頬に、指の長さの古い傷があった。

 半地下で見た顔だ。

「紗季。どけ」

 わたしは棚の前から動かなかった。動ける場所がなかった。

 男の手が首にかかった。壁と手のあいだで息が細くなる。爪先が床から浮いた。

 ポケットのナイフを握って、腹に入れる。

 手の力が抜けた。男は膝から落ちた。書類の上に倒れた。

 後ろの男が近づいてくる。トレイから注射器を取って、前の男のほうへかがんだ。かがんだときに、顔の白いガーゼが半分めくれた。

 左の眉の上に、短い古い傷がある。

 納戸のポケットは空だった。紙を入れておくと言った人なら、入っていたかをまず聞く。この人は、一度も聞かなかった。

「あなた」

 男が顔を上げた。

 わたしは前の男の体からナイフを抜いて、後ろの男の胸に入れた。

「紗季」

 わたしの名前を呼ぶとき、二人はまったく同じ呼び方をする。

 男が横に倒れた。同じ服のまま、床の上で二人の距離が近くなった。

 わたしは床に手をついて、息が戻るのを待った。首の前が熱い。水が飲みたかった。


    *


 扉を開けて、廊下に出た。

 階段の下まで歩いた。手すりをつかんだところまでは覚えている。

「美緒」

 声は出たと思う。

 床が近づいてくるのが見えた。肩が先に当たって、頬が板についた。板は冷たい。木目の線が目の前にある。


    *


 目が覚めたとき、天井が白かった。

 うちの天井ではない。

 枕は高さが合っている。掛け布団は薄くて軽い。部屋の匂いは消毒のものではなかった。洗ったばかりの布の匂いと、その奥にもう一つ、知っている匂いがある。何の匂いかは、すぐには出てこなかった。

 首だけが動いた。腕も脚も動かない。痛みはない。力を入れても、入れたという感覚だけがあって、何も起きなかった。

 右側にカーテンがあった。床まである布で、その向こうに何かの形がある。

 足音がして、カーテンが引かれた。

 白い上着の人が点滴の袋を持ち上げて、目盛りのところを見た。チューブをたどって、わたしの腕のほうまで指を滑らせる。腕の感覚はないのに、皮膚の上を何かが通るのはわかった。

 白い上着の人が立っていた。口元をマスクで覆って、髪を後ろでまとめている。手にバインダーを持って、わたしの顔を見ないまま何かを書いた。

 カーテンの開いたところに、もう一つのベッドがあった。

「起きましたね」

 その人はバインダーを下ろして、マスクの紐を耳から外した。

「痛いところはありますか」

 わたしは答えなかった。

「波岡さん」

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