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八時の部屋  作者: 空の異変


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第七章 隣のベッド

 千帆さんは、名前を呼ばれたことには返事をしなかった。バインダーを脇に挟んで、点滴のチューブの向きを直す。

「体の向きは、このままで」

「美緒は」

「そのことは槙瀬さんに聞いてください」

 額に傷はない。襟の高い上着を着ていて、その下は見えない。一昨日の夜にこの人の首へ入ったものを、わたしは見ている。確かめる手はない。

「波岡さん。こっちでも、看護師なんですか」

「こちらでは、そうです」

 それだけ言って、千帆さんはベッドの足元を回り、もう一つのベッドのほうへ歩いていった。

 部屋は白かった。壁の高いところにカレンダーが下がっていて、その横に画用紙が一枚、テープで留めてある。女の子が二人の大人と手をつないで、三人とも同じ向きに笑っている。

 窓際の棚に、写真立てが並んでいた。七五三。入学式。海。順番に置いてある。

 端の一つで、母が椅子に座っていた。

 膝の横に、十六か十七の女の子が立っている。白い壁。右の端に、細長い窓が縦に一本。アルバムの四十ページ目にあった写真だ。クリアファイルの後ろに挟まっていた写真でもある。うちにはそれが二枚あって、ここでは、棚の上に立っている。

 カーテンは半分開いていた。芝の庭があって、その向こうに同じ建物の別の棟が見える。壁は白い。玄関があって、その横に、細長い窓が一つ、縦に入っていた。

 扉が開いた。

 入ってきた人は、わたしのベッドの脇を通り過ぎた。シャツの胸のあたりが、布の厚みのぶんだけ膨らんでいる。歩き方は普通だった。

「紗季」

 呼ばれたのは、わたしではなかった。

 向こうのベッドで掛け布団が動く。その人は腰をかがめ、布団の端を肩まで上げて、枕の位置を直した。割れるものを扱う手つきだった。

 椅子を引いて、わたしの枕元に座る。天井の照明が左側から当たった。眉の上に、短い古い傷がある。

「あなた」

「起きたか」

「美緒の背中の点は、あなたがつけたんですか」

「私がつけた」

「毎晩八時に、三十分。飴は」

「八時は私が決めた時間だ。あの時間で家の中が区切れる。三十分は処置と、そのあとの観察だ。飴は終わってからのもので、それ以上の意味はない」

「何のために」

 その人は、もう一つのベッドのほうを見た。

「娘のためだ」

 娘、という言葉がどこへ向いたのかは、見ていればわかった。この部屋でその言葉が指すのは、向こうのベッドで息をしている女の子一人きりだ。

「あの子は生まれたときから体が弱い。医者にできることは去年で終わった。美緒の体で、続けられるところまで続けた」

 白い台のあった部屋のことを聞いた。

「記録と薬を置いていた。最初の晩にお前をあの台へ乗せたのは、血を調べるためだ」

 美緒の画用紙のことも言った。白いおうち。玄関の横の、細長い窓。

「写真を見たんだろう。こちらのものを何枚か持ち込んで、置いたままにした。アルバムに紛れたのもある」

「紗季。お前の体が要る」

 腕も脚も動かない。金具も鎖も、どこにもなかった。

「移せるものを移す。お前でなければ、あの子は順番を待つことになる。待っているあいだに終わる」

「移したら、治るんですか」

「わからない。やってみるまでは、誰にもわからない。終わったら、向こうへ帰す」

「帰ったら、わたしはどうなるんですか」

 その人は答えなかった。椅子の上で、指を組み直しただけだった。

 双子の兄だ、とあの人は言っていた。十年、刑務所にいたとも。

「半地下にいた人は」

「お前の世界の私だ。兄弟ではない。私とあの男は、同じ一人が、別のところにいるだけだ」

「じゃあ、どうしてわたしに刺させたんですか」

「世界の違う人間には手が出せない。私はあの男を殺せないし、あの男も私を殺せない」

「本当ですか」

「私はそう考えている」

 考えている、という言い方だった。わたしの世界の継父は五年だと言い、この人はそう考えていると言う。

「あの人は、どうなったんですか」

「あの家に置いてきた。それから先は見ていない」


    *


「美緒は、どうなるんですか」

「美緒は二年前に死んでいる。お前の母親が死んだ日にだ。薬でつないで二年もった。もう保たない」

 ゴミ箱の底の包み紙は、二年ぶんある。名前を呼べば返事をした。皿を引いて怒る。ナイフをこちらへ渡した。

「わたしは、あの子と二年いました」

「知っている」

 その人は言い返さなかった。枕元の水差しを、指の幅だけ動かした。

「母は」

「向こうの継父が殺した。脳出血ではない」

「見たんですか」

「あの男が私に言った。私がこちらへ入ったのは、そのあとだ」

 二年、自分に言い聞かせてきた文だった。他人の声で聞くのは初めてだ。

「あの子のお母さんに、会わせてください」

 その人はしばらく黙っていた。それから廊下へ声をかける。車椅子が入ってくる。

 両手を持ち上げられた。体が浮いた。シートに下ろされた。

 背中とシートのあいだに、丸めたタオルを一枚入れられる。押したのは千帆さんではなかった。

 廊下の途中に、庭へ出る硝子戸があった。芝の上に葉が落ちている。木の下に掃き集めた山が一つあって、その横に熊手が立てかけてあった。

 車椅子はそこを通り過ぎる。

 突き当たりから水の音がした。台所だった。流しの前に、エプロンの背中がある。洗った果物を、白い皿に並べていた。皿の縁には、細い青の線が一本入っている。

志乃(しの)

 背中が止まった。

 振り返った人の顔を、わたしは知っていた。

「紗季。起きていて平気なの?」

 その人は布巾で手を拭きながら、こちらへ歩いてきた。

「志乃。その子は紗季じゃない」

 歩く速さが変わった。三歩ぶん手前で止まる。

「向こうから連れてきた。娘に要るものを、この子が持っている」

 お母さんは布巾を握ったまま、後ろへ下がった。流しの縁に腰が当たって、皿が一枚鳴る。それから、わたしの顔から目を外した。

 何を言うかを、わたしは決めていなかった。決めないまま、口が動いた。

「お母さん」

 顔が上がった。

「一度でいいです。抱いてもらえませんか」

 水は止まっている。冷蔵庫の音だけがしていた。

「……抱いても、いい?」

 聞いたのは、わたしにだった。

「はい」

 お母さんは膝をついて、車椅子の肘の外側から腕を回した。頬に髪が当たる。手からくちなしの匂いがした。ハンドクリームの匂いだ。母の鏡台にも、同じ匂いの瓶があった。

「紗季。ごめんなさい」

 名前は、わたしのほうを向いていた。

 背中に置かれた手は、しばらくそこにあった。

「志乃、戻る」

 手が離れた。離れるときに、指がわたしの髪に触れる。やめて、とは言わなかった。


    *


 部屋に戻された。ベッドへ移されて、掛け布団を肩まで上げられる。千帆さんが点滴の袋を替え、目盛りを確かめてから出ていった。扉は開けたままだった。

 首を右に向ける。

 カーテンは開いている。

 もう一人のわたしが、こちらを見ていた。

 目だけを動かす見方ではなかった。首も、肩も、少しは動く。わたしよりは動く。

「紗季」

 その人はまばたきをした。

「わたしに聞いたの?」

「うん」

「なら、少し待って」

 息を二回した。三回目で、こちらへ向き直る。

「いいよ」

「この家、外から見たら白い? 玄関の横に、細長い窓がある?」

「白いよ。窓は、縦に長いやつ。あそこだけ、内側が暗いの」

 美緒が定規を当てて引いた線を、わたしは覚えている。画用紙の右のほう、家の横に一本だけ、まっすぐな線があった。

「紗季。葉っぱが落ちない木、見たことある?」

「落ちない木は、見たことない。ここの木は落ちるよ」

「うん。さっき見た」

「そっちのは、落ちないの」

「落ちない。一枚も」

 その人は窓のほうを見た。カーテンの隙間から、芝と、掃き集めた葉の山が見えている。

「見たい」

「……うん」


(了)

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