第五章 背中の点
朝、継父は鞄を持って出ていった。玄関で靴を履きながら、話しかけていたのはやはり美緒のほうだった。
「昼過ぎに戻る。シールの続きをしていなさい」
「うん」
車の音が坂の下まで行くのを待ってから、台所の引き出しを開けた。果物ナイフを取って、パーカーのポケットに入れる。
美緒はリビングで画用紙を広げていた。
「美緒。わたし、庭にいるから、ここにいて」
「うん」
「呼ばれても、下りてこないで」
「呼ばれるの?」
「呼ばれない」
物置の外扉は昨日と同じに開いた。積んだ段ボールは崩れて、土の上に倒れている。
継父は昼過ぎに戻ると言った。時計は十時を少し回ったところだから、使える時間は二時間ある。二時間で足りるのかどうかは、何をするのかが自分の中で決まっていないので、測りようがなかった。
段を下りる前に、ナイフを扉の内側の棚に置いた。手に持ったままでは、頼みごとができない。
男は壁に背をつけて座っていた。わたしの足音で顔を上げる。
「紗季か」
「はい」
「水をくれ」
ペットボトルを土間に置いて、足で滑らせた。男は両手で受け取って、半分飲んだ。
「先に教えてください。あなたは、どのくらいここにいるんですか」
「五年だ。ここで数えてた」
「五年って、いつから数えてるの」
男はボトルから口を離した。
「お母さんと結婚した年だ。次の春に、あいつが来た」
母が再婚したのは、わたしが小学六年の秋だった。今のわたしは十七だから、五年は、だいたい合う。
合わないのは、そのあとだ。母が生きているあいだに、この家でわたしの身に起きたことを、わたしは忘れていない。鎖につながれている人には、できないことだった。
五年は嘘だ。嘘でなければ、わたしの記憶のほうが嘘になる。
「あいつは、誰ですか」
「双子の兄だ。十年、刑務所にいた。出てきたが行くところがなくて、私を頼ってきた。断ったら、こうなった」
「兄弟がいるなんて、聞いたことがないです」
「人に言う話じゃないだろう」
男の膝は、布の上からでも形がわかるくらい痩せていた。手首にも足首にも、擦れて色の変わった輪がある。輪の内側は、周りの皮膚より白い。
男が鎖を引いた。金具が鳴る。
「紗季。先に外してくれ。出たら、あいつをどうにかする。お前たちには、ちゃんとした暮らしをさせてやる」
わたしは棚のフックを見た。鍵はまだそこにある。
この家に、わたしの味方になれる大人はいない。伯母は継父に電話をかける人だった。店員さんも同じだ。千帆さんは昨日の夜、継父の肩に腕を回されて運ばれていった。残っているのは、鎖につながれて嘘をついている大人が一人きりだ。
わたしは鍵を取った。
フックから外すとき、金属のこすれる音がした。男がその音のほうへ体を向ける。座ったままの姿勢が少しだけ変わって、膝が内側に入り、足の裏が床につく。いつでも立てる座り方だ。わたしは気がついていた。気がついていて、そのまま歩いていった。
金具は錆びていて、鍵は二度目で回った。鎖が土間に落ちる。男は片手を壁につけて立ち上がった。立つのに、時間はかからなかった。
「ありがとう。紗季、お前は賢い子だ」
「それと、紗季。出たあとは、しばらくこの家の中に隠れている。毎日この時間に、二階の納戸に来てくれ。夏の上着のポケットに、次にどうするかを書いて入れておく」
「納戸に」
「ほかに、あいつが見ない場所がない」
「美緒は上にいます。驚かせないでください」
「わかってる」
*
男が段を上がっていく。わたしは鎖と鍵を拾って、あとを追った。
外扉の光の四角に、男の背中が入って、そこで止まった。
「お姉ちゃん」
美緒の声だった。
段の上に、妹が立っていた。両手で果物ナイフを持っている。棚に置いたやつだ。
「美緒、下ろして」
妹はわたしを見ていない。男だけを見ている。
男が一歩、前に出た。
美緒が両手ごと腕を突き出した。
男は腹を押さえて後ろに下がった。シャツの前が濡れていく。
男はわたしのほうを見た。目が合ったのは二秒くらいだ。それから段を駆け上がって、外の光のほうへ出ていった。走り方に、膝の悪い人の癖はなかった。
外に出てみた。門は開いていて、坂の下の道に人影はない。隣の家の生け垣の向こうで、洗濯物が揺れていた。あの人がどこへ行ったのかも、戻ってくるのかも、わたしにはわからない。玄関に回って鍵を閉め、チェーンをかけた。
美緒はナイフを持ったまま立っていた。
「お姉ちゃん。どうして、この人を出したの」
「……美緒。ナイフをちょうだい」
妹は素直に渡した。柄が生あたたかかった。
わたしはその手首を握る。握ったまま、段を下りた。
「お姉ちゃん?」
土間で鎖を拾った。
妹の足首は細くて、金具は大きすぎた。二番目の穴で止めて、鍵を回す。美緒は逃げなかった。わたしが何をしているのかを、下から見上げていた。
「お姉ちゃん」
「ごめん」
「ここにいるの?」
「うん」
継父は美緒を手放さない。二年間、毎晩八時に部屋へ呼んで、三十分で飴を持たせて出してきた。あの人が惜しむものがこの家に一つだけあるとしたら、それはこの子だ。この子を持っているあいだだけ、わたしは物を言える。
*
八時まで、まだ二時間ある。
土間は冷えた。家からタオルケットを持ってきて、美緒の膝にかけた。妹はわたしの脇に寄りかかって、口を半分開けて眠っている。息の音が短い。
土間の壁の高いところに、細長い窓が一つある。外の光がそこから斜めに入って、床の段ボールの上で止まっていた。光の線は少しずつ位置を変える。わたしは妹の呼吸を数えながら、その線が本棚の脚に届くまで見ていた。
髪が首にかかっていたので、指でよける。
うなじの下、襟の内側に黒い色があった。
わたしは襟を少しだけ広げる。
肌の色ではなかった。背中の上のほうが、手のひらより広い範囲で黒ずんでいる。触ると乾いていて、硬い。指で押しても戻ってこない。
その黒いところに、点があった。
細かい点が、数えられないくらい並んでいる。古いものは色が薄く、新しいものは周りが赤い。並び方には順番があって、端のほうほど間隔が狭い。真ん中には、もう空いているところがない。
指が震えていたので、いったん膝の上に置いた。置いても止まらないので、握った。
わたしは襟を戻した。鍵を取って、金具を外す。両手で妹を抱えた。
美緒は起きなかった。
段を上がって家に入れて、リビングのソファに寝かせた。タオルを濡らして足首を拭く。タオルの縁は織り目が太くて、拭くたびに肌に筋がついた。
「お姉ちゃん」
「起きた?」
「ここ、痛い」
「ごめん。わたしがやった」
「うん」
妹はそれ以上何も言わなかった。わたしの手を押しのけて、自分で足首をさすった。
「お姉ちゃん、今はさわらないで。ここにいて」
わたしは手を引いて、床に座った。
外はもう暗い。継父の車は、まだ坂を上がってこない。昼過ぎに戻ると言った人が、七時間遅れている。
「美緒。八時の部屋で、お父さんは何をしてるの」
「言ったら、飴くれなくなる」
「じゃあ、言わなくていい。痛い?」
美緒は少し考えた。
「ちょっと。すぐ終わる」
「三十分?」
「時計、見てないもん」
台所のゴミ箱の底に、飴の包み紙が溜まっている。二年ぶんだ。
背中のあの広さは、三十分では説明がつかない。二年かければ、つく。それだけのことを毎晩やって、この人が何を続けさせているのかを、わたしはまだ知らない。




