第四章 食卓の客
家に着いて、継父は美緒を先に下ろした。玄関の三和土に、見慣れないパンプスが揃えて置いてある。
台所から音がした。水の音と、まな板の音。
「お邪魔しています」
エプロンをつけた千帆さんが、廊下のほうへ顔を出した。
わたしは玄関に立ったまま、靴を脱がない。
一昨日の夜、この人は八時にこの家へ来て、そのあとで音がした。音のあとで、出てこなかった。
今、まな板の前でにんじんを切っている。
「紗季さん。お帰りなさい」
「……こんにちは」
「勝手にお台所を借りてます。槙瀬さんが、夕飯を一緒にどうかって」
わたしは部屋に上がらずに、台所の入口に立った。
「手伝います」
「助かります。じゃあ、そこの鍋を出してもらえますか」
流しの下から鍋を出して渡した。炊飯器の横のしゃもじ立てに、しゃもじが二本立っている。片方は母が使っていたものだ。
千帆さんは、うちの台所の物の場所をだいたい知っていた。菜箸の引き出しも、塩の缶も、迷わずに開ける。この人がこの家に来たのは、一昨日が初めてではない。わたしが学校に通っていたころ、昼のあいだに何度も来ていたのかもしれない。
千帆さんは食後にりんごを剥くつもりらしかった。引き出しから果物ナイフを出して、まな板の端に置いた。刃が七センチくらいの、うちにずっとある物だ。
「波岡さん」
「はい」
「一昨日の夜も、来てましたよね」
千帆さんの手が止まった。ほんの少しだけだ。
「来ましたよ。夜分に押しかけて、怒られました」
「何時まで、いましたか」
「九時前には出ましたね。書類の整理を頼まれて、それを片づけてから。……どうしてですか」
「玄関で、何か倒れる音がしたので」
「ああ。傘立てにぶつかりました。私です」
千帆さんは笑って、にんじんを鍋に入れた。わたしはその横顔を見ていた。額にも、首にも、腕にも、怪我の跡はない。
音を聞いたのはわたしの耳で、そのあと運ばれたのもわたしだ。それだけが残る。
この二日間、わたしは千帆さんが死んだことにして考えていた。門の外にタイヤの跡がないことも、アカウントの返事が上手すぎることも、ぜんぶそこへつないだ。つないだ先が外れると、二日ぶんの考えがまとめて崩れる。残ったのは、この人が生きていて、今この家の台所にいて、わたしはまだ誰にも何も伝えられていない、という並びだけだった。
夕飯まで、わたしは台所にいた。部屋に上がってしまえば、この人と二人になる機会は今日で終わる。継父は食事のあいだ席を立たない。だから食卓ではなく、そのあとの十分をもらうしかなかった。
「波岡さん。あとで少しだけ、話してもいいですか」
「いいですよ。何のお話ですか」
「学校のこととか」
継父が廊下を通った。千帆さんは鍋のほうを向いた。
*
食卓には四人分の皿が並んだ。
継父が美緒の椅子の高さを直してやっている。食事のあいだ、千帆さんはよく喋った。この家の食卓が四人になるのは二年ぶりだ。美緒の絵のことを褒めて、わたしには学校のことを聞いた。継父は短く答えて、箸を止めなかった。
わたしは、このあと何をどう話すかを頭の中で並べていた。半地下に男が鎖でつながれていること。顔が同じこと。信じてもらえなくてもいい。一度この家の外の人の頭に入れば、それは家の外に出た話になる。
千帆さんは取り分け用のスプーンを持って、美緒の皿ににんじんを入れた。
「美緒ちゃん、これ食べられる?」
「それ、わたしのお皿だよ」
「うん。だから入れたの」
「入れないで」
美緒はフォークを置いて、皿を自分の手前に引いた。継父が顔を上げる。
「美緒」
「この人、来ないで」
千帆さんはスプーンを大皿に戻した。
「ごめんね。びっくりさせたかな」
「わたしの家に来ないで」
「美緒、やめて」
わたしが言い終わる前に、妹は皿を両手で持ち上げていた。
皿は千帆さんの額の上のあたりに当たって、床に落ちて二つに割れた。千帆さんが額を押さえる。指のあいだに血。
美緒はもう次のものを握っていた。フォークだ。
継父が立ち上がって、美緒を抱き上げた。わたしは椅子を回り込んで、二人のあいだに入った。
「美緒、下ろして。落ち着いて」
継父は千帆さんに一言も言わなかった。美緒を抱えたまま、廊下のほうへ歩いていく。
その背中に、千帆さんが床のフォークを投げた。
フォークは美緒の足に当たって落ちた。
継父が振り返る。
そこから先は一続きだった。美緒を廊下に下ろして、戻ってきて、千帆さんの首をつかんで椅子ごと壁に押しつける。わたしは腕をつかんで引いた。引けなかった。
継父の手が食卓のフォークを取り、千帆さんの首に打ち下ろす。
血が飛んで、わたしの頬にかかった。
「紗季。美緒を部屋に連れていきなさい」
継父の声は、ピアノを教えるときと同じ高さだった。
わたしは動かなかった。継父は待たずに、千帆さんの腕を自分の肩に回して立たせ、玄関のほうへ運んでいく。美緒が廊下からついていって、継父の空いたほうの手を握った。
あとで少しだけ話しましょう、と言ったのは一時間前だ。
*
玄関の鍵が閉まって、車が坂を下りていった。
わたしは台所から布巾を取って、床の破片を集めた。大きいものを先に拾って、粉になったところは湿らせてから拭いた。にんじんが二切れ、椅子の脚の下まで転がっている。
頬を洗った。水は冷たくて、タオルには何も移らない。
玄関の三和土から、パンプスがなくなっている。揃えて置いてあった場所に、うちのサンダルが一足残っているだけだった。
美緒が戻ってきたのは、片づけが半分終わったころだった。パジャマに着替えている。
「お姉ちゃん」
「ん」
「波岡さん、帰った?」
「帰ったよ」
「よかった」
妹は椅子に座って、足をぶらぶらさせていた。テーブルのシールの台紙を取って、自分の部屋へ持っていく。足の当たったところに痣はできていない。
美緒にとって、あの人は今でも夜に絵本を読む人だ。さっき廊下で手を握ったのも、わたしではなかった。
美緒の皿には、にんじんが三切れ残っていた。ラップをかけて冷蔵庫に入れる。まな板の端に果物ナイフが出しっぱなしだったので、柄を持って引き出しの元の場所に戻した。
四枚の皿を洗った。コップも洗って、水を切って、棚に戻す。美緒のが手前、わたしのが奥。継父の分と、もう一つは、棚の二段目に伏せて置いた。
食卓を拭いた。継父が座っていた椅子の下に、にんじんの皮が一枚落ちている。拾って生ゴミの袋に入れた。冷蔵庫の扉には、美緒の時間割が磁石で留めてある。二年生の四月のもので、貼ったのは母ではない。わたしでもない。
布巾を絞って、シンクの縁にかけた。




