第三章 半地下の顔
昨日の夜も、美緒は八時に部屋へ入って、三十分で出てきた。飴の包み紙が二枚、ゴミ箱に増えている。
昼を過ぎて、継父が出かけた。玄関で鞄を持ち替えながら、話しかけていたのは美緒のほうだった。
「三時には戻る」
「波岡さんも?」
「ああ。仕事だ」
美緒がその名前を知っているということは、千帆さんの名前がこの家で普通に呼ばれているということだ。わたしの前ではないところで。
車が坂を下りていく音を聞いてから、一階を歩いた。
千帆さんが最初に来た夜の跡を、まだ探していた。上着の繊維でも、髪でも、何でもいい。ソファの隙間に指を入れて、テレビ台の裏を覗いて、廊下の幅木に沿ってしゃがんで進んだ。何も出てこない。
千帆さんが来た夜にこの家で起きたことを、わたしは一つも見ていない。聞いたのは音だけだ。音は証拠にならない。玄関の砂も、ゴミ袋の中身も、朝には入れ替わっていた。この家は、一晩で元に戻せる。
台所の窓を開けたとき、声が聞こえた。
美緒の声だった。外から、下のほうから来ている。
庭に回って、斜面を下りた。物置の外扉が、人ひとり分だけ開いている。昨日わたしが留め金を戻した扉だ。
声はその奥から来ていた。言葉になっていない。高くて、短くて、息継ぎのたびに切れている。
*
扉を引いて中に入った。
コンクリートの段が五段。下りると床は土間だった。天井の蛍光灯が一本だけついている。壁際に段ボールの山と、古い扇風機と、母が使っていた本棚。
奥の壁に、美緒が背中をつけて立っていた。両手で耳を押さえている。
その二メートル手前に、男がいた。
床に座って片足を投げ出している。足首から壁の金具まで、鎖が伸びていた。シャツは元の色がわからない。痩せていて、膝の骨の形が布の上から見える。
土間の空気は外より冷たくて、下水の匂いが混じっていた。壁の継ぎ目に沿って水が滲んでいる。母がいたころ、ここは防音室と呼ばれていた。母が死んでから、物を入れるだけの部屋になった。扉に南京錠がついたのがいつだったのかは、思い出せない。
わたしは美緒の腕を引いて、自分の後ろに入れた。
「美緒、上に行ってて」
「お姉ちゃんは」
「すぐ行く」
妹は動かなかった。わたしのシャツの背中を両手でつかんだまま、男のほうを見ている。
男が顔を上げた。
蛍光灯が正面から当たった。頬はこけて、髪は伸びきっている。それでも、その顔をわたしは知っていた。
継父の顔だった。
右の頬に、指の長さの古い傷がある。
わたしは一歩下がった。左の眉の上には、何もない。
「紗季」
声も継父の声だった。かすれているだけで、同じ声だ。
「紗季。私だ。お前たちの父親だ」
「……何を言ってるんですか」
「外にいるのは私じゃない。顔が同じなだけの男だ。私をここに入れて、私の家に住んでいる」
男が鎖を引いた。金具が鳴って、壁から埃が落ちた。
「先に鍵を外してくれ。話はそれからでいいだろう」
「鍵は、どこにあるんですか」
聞いてすぐに、聞かなければよかったと思った。
男の目が、入口の横の棚に動いたからだ。棚の一番上の段からS字のフックが下がっていて、小さな鍵が一つかかっている。男の足からは届かない距離だ。
「紗季、頼む。私が出れば、美緒も連れていける。ぜんぶ終わる」
わたしは鍵を見た。見ただけで、手は伸ばさなかった。
鍵を外せば、この人は立つ。立った人はわたしより大きい。段は一本しかなくて、美緒はわたしの後ろにいる。そこまでを順番に数えているあいだ、男はずっとわたしの手のほうを見ていた。
「紗季」
「美緒、行こう」
妹の手首を握って、段を上がった。背中で鎖の音が鳴りつづけていた。
外に出て扉を閉めた。留め金は垂れたままで、かからない。段ボールを一つ、扉の前に積んだ。何の役にも立たないことは、積みながらわかっていた。
*
美緒にサンダルを履かせて、門を出た。
「どこ行くの」
「お店」
歩きながら、着いたら何と言うかを考えた。家に男が鎖でつながれている。そう言えば、その場で警察に電話をしてもらえるかもしれない。けれど電話が終わってから誰かが来るまでのあいだ、わたしと美緒がどこにいればいいのかがわからなかった。帰る家は一つしかない。
坂を下りて、バス停を過ぎて、六分歩くと角に喫茶店がある。喫茶こはぜ。母が生きていたころから、姉妹で入っていい店はここだけだった。
引き戸を開けると、店員さんがカウンターの中から顔を上げた。
「あら、紗季ちゃん。美緒ちゃんも」
「こんにちは」
奥の席に座った。ミルクが二つ来て、グラスの下にコルクのコースターが敷かれる。美緒は両手でグラスを持って飲んでいる。
わたしは立って、カウンターに行った。
「すみません。電話を貸してもらえませんか」
「電話? どうしたの、何かあった?」
「家に、知らない人がいるんです。うちの中に」
店員さんは布巾を置いた。
「入ってきたの?」
「前からいました。下の部屋に」
言いながら、自分の声が細くなっていくのがわかった。前からいた、という言い方がいちばん信じてもらえない言い方だということも、言ってから気がついた。
「わかった。お父さんに電話するね。今、外にいらっしゃるの?」
「待ってください。そうじゃなくて」
「大丈夫。すぐ来てくださるから」
店員さんはもう受話器を持っていた。番号はメモを見ずに押している。この店には、番号を覚えるくらいの回数、継父が電話をかけている。
受話器を置いてから、店員さんはおしぼりを二つ出して、カウンターの向こうで洗い物に戻った。その横顔は、いいことをした人の横顔だった。
十五分で、店の前に車が停まった。
ドアベルが鳴って、継父が入ってくる。美緒がグラスを置いて椅子から下りた。
「お父さん」
「ここにいたのか」
継父は美緒を抱き上げて、店員さんに頭を下げた。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「いえ。紗季ちゃん、心配で来たのよね」
継父がこちらを向いた。窓の光が正面から当たる。
左の眉の上に、短い古い傷がある。右の頬には何もない。
わたしはグラスの中を見ていた。美緒のミルクが半分残っている。
車に乗ると、継父が手を出した。
「スマートフォンを」
ポケットから出して渡した。継父はそれを自分の上着の内側に入れて、シートベルトを締めた。
「紗季。今日のことは、美緒には言わないでおこう」
家に着くまで、わたしは窓に映る横顔を見ていた。街灯を通るたびに、左の眉の傷が白く光る。半地下の男に、その傷はない。




