第二章 同じ写真
目が覚めて最初に見たのは、自分の部屋の天井だった。壁の高いところに、去年美緒が貼ったままのシールがある。
体を起こすのに二度かかった。枕元のスマートフォンを取る。八時。日付は昨日の次の日になっていた。夜の八時ではない。カーテンを開けると、坂の下の道を制服の子が歩いている。
ベッドの脇の棚に、水のボトルと、白い箱の風邪薬が置いてあった。置いたのはわたしではない。
扉が開いた。
「起きたか」
継父だった。額に手が伸びてきたので、わたしは体を引いた。継父は手を止め、棚の薬の箱を指す。
「昨日は熱が出た。三十八度五分あった。廊下で倒れていたから、部屋まで運んだ」
「……はい」
「今日は寝ていなさい。美緒はわたしが見る」
廊下で倒れた覚えはない。運ばれた覚えはある。白い布をかけた台のことは、言わなかった。
継父が階段を下りていく音を数えた。十四段。
廊下に出て、継父の部屋の扉の前に立った。ノブは回らない。隣の扉も同じだった。階段の下には物置へ下りる内側の扉があって、そこには前から南京錠がかかっている。鍵は見たことがない。
今学期から、わたしは高校を休学している。保健室に行くのも春でやめた。担任からは月に一度、決まった曜日に電話が来る。美緒は小学校の二年生で、学校には病気療養ということになっている。連絡はぜんぶ継父が受けている。
古いほうの端末を開いた。LINE のトーク画面に、千帆さんからの返事が来ていた。
「昨日はありがとうございました。会えましたよ。でも書類の整理を頼まれて、それで終わりです。また次の機会にしますね」
文字の並びはいつもの千帆さんだった。語尾の癖も、絵文字の位置も同じだ。それでも、この文を千帆さんが打ったとは思えなかった。あの音を聞いたあとでは、思いようがない。
*
家の中を歩いた。
玄関のたたきは乾いていて、濡れた跡もない。リビングの床に椅子の傷はない。台所のゴミ袋は新しいものに替わっている。通いの家政婦さんは週に二度しか来ないし、昨日は来ない日だった。
門の外にも出てみた。道の端の乾いた土に、タイヤの跡は一本もない。歩いて来る人なのだから、跡がないのは当たり前だった。
リビングの棚の下に、アルバムが三冊並んでいる。母が作ったもので、二年間だれも開いていない。一冊目を膝に置いてめくった。
七五三。入学式。海。母とわたし。母と美緒。
四十ページ目の左上に、見たことのない写真があった。
母が椅子に座っていて、膝の横に女の子が立っている。十六か、十七くらい。髪の長さも、肩の落ち方も、わたしのものだ。母の顔にも見覚えがある。背景は白い壁で、右の端に細長い窓が縦に一本写っている。
この写真を撮った覚えがない。
母が死んだとき、わたしは十五だった。
昼に、美緒がパンを持って部屋に入ってきた。
「お姉ちゃん、お熱は?」
「もうない」
「じゃあ、シールしてもいい?」
「いいよ。でも、ここで」
妹はベッドの端に座って、台紙を膝に立てた。昨日の続きの画用紙は、空の青が増えている。
台紙の四隅は透明の角で留めてある。角の一つが浮いていたので、写真を抜いて裏を見た。日付も、名前も、何も書いていない。
午後になって、継父が美緒を連れて買い物に出た。玄関の鍵が閉まる音を聞いてから、わたしは廊下を歩いた。
昨日の部屋の扉には鍵がかかっている。突き当たりのキャビネットは開いた。中は書類ばかりで、クリアファイルの背に番号が振ってある。
中身は数字と記号の表ばかりだった。読めるのは日付の欄だけで、去年の春から今月までが飛び飛びに並んでいる。全部を写真に撮ろうとして、途中でやめた。撮ったところで、誰に見せればいいのかがわからなかった。
三つ目のファイルの後ろに、同じ写真が挟まっていた。
同じ角度、同じ白い壁、同じ細長い窓。印画紙の大きさだけが少し違う。アルバムの一枚は角が浮いていて、こちらの一枚は折れも汚れもない。
一枚なら、わたしの記憶のほうが壊れているということにできた。二枚は、そうはならない。
自分の部屋に戻って、普段使っている端末から母方の伯母に電話をかけた。三回目のコールで出た。
「紗季? どうしたの、こんな時間に」
後ろでテレビの音がしている。
「おばさん。わたしと美緒を、しばらく預かってもらえませんか」
「二人とも?」
「二人ともです」
間があいた。
「わかった。じゃあ、まずお父さんに電話してみるわね。あちらにも都合があるでしょうし、黙って連れていくわけにはいかないから」
「……そうですよね」
「何かあったの?」
「いえ。学校のことで、ちょっと」
電話を切った。伯母は今から継父に電話をかけるだろうか。かけるだろう。かけない理由がない。
警察という言葉なら、頭の中に何度も出てきている。番号も知っている。それでも指が止まるのは、連れ戻されたあとの家のことと、美緒とわたしが別々の場所に置かれることを、いっぺんに考えてしまうからだった。
*
夕方、美緒と庭に出た。
外に出る道順をもう一度たしかめる。門、坂の下の道、バス停まで大人の足で六分。家の横は斜面になっていて、下のほうに物置の外扉がある。半分地面に埋まった部屋で、母がいたころから物を積んでおくだけの場所だ。
扉の留め金は前から歪んでいた。指をかけて引くと、ねじが一本、木から抜ける。留め金は下を向いて垂れた。かけ直そうとしたら、ねじ穴のほうが潰れている。わたしは留め金を元の向きに戻して、そこを離れた。
美緒はテラスで画用紙を広げていた。
「見て」
「何の絵?」
「白いおうち」
四角い白い建物に、屋根と、玄関。玄関の横に細長い窓が一つ、縦に描いてある。その窓の線だけが、定規を当てたようにまっすぐだった。
「どこのおうち?」
「わかんない。白いの」
美緒は緑のクレヨンを探しはじめて、家の話は終わった。
夜、二人で牛乳を飲んだ。
コップを台所に運ぶ。水切り籠の中に、丸い茶こしが伏せてあった。スポンジで内側を洗って、水をよく切って、棚の同じ場所に戻す。美緒のコップが手前、わたしのが奥。




