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八時の部屋  作者: 空の異変


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第一章 八時の約束

 廊下の時計は、夜になると音が大きくなる。昼のあいだは誰も気にしない。

 七時半から、わたしはリビングのピアノの前に座らされていた。継父は隣の椅子に、肘が触れないだけの距離を測って腰かける。

「そこ、左手が半拍早い。もう一度」

「はい」

 同じ四小節を七回弾いた。七回とも、継父は同じ言い方で同じ場所を直した。怒らない。急がせない。外から見れば、根気のある父親だ。

 美緒(みお)はソファに座って、シールの台紙を膝の上に立てていた。台紙の端が丸まっているせいで、貼る前の一枚が何度も指から逃げる。わたしがピアノを離れて端を押さえてやると、妹は花のシールをつまみ直した。

「お姉ちゃん、この花、ここでいい?」

「いいよ」

「そこ、もう空がある」

 美緒は自分で決め直して、窓の下の余白に花を貼った。画用紙はまだ半分白い。

 台所のほうで冷蔵庫の扉が閉まる音がして、継父が廊下に出てきた。

「美緒、そろそろだ」

「うん」

 妹はシールの台紙をそろえて、テーブルの端に置いた。置く場所まで決まっている。二年かかって、そうなった。

 継父はしゃがんで、美緒の靴下のずれを直してやっている。ランプの光が左側から当たっていた。左の眉の上に、短い古い傷がある。この家に来たときからある傷で、わたしは毎日見ている。

「紗季、ピアノは明日にしよう。美緒の時間だ」

「はい」

 二人は廊下を歩いていった。継父の部屋の扉が開いて、閉まる。

 わたしは時計を見た。長針が十二に重なっている。

 玄関まで行って、サンダルをつっかけた。門まで七歩、門から坂の下の道まで十二段。数えるのは癖になっている。夜でも道には街灯がついていて、塀の外は誰でも歩ける。家から出られないわけではない。出たところで、美緒を置いていくことになるだけだ。

 庭の隅に、背の高い木が一本ある。九月の終わりで、葉の縁はもう赤い。それなのに、木の下の土には葉が一枚もない。去年も一枚もなかった。この家に越してきた年も同じだった。

 家に戻ると、長針は六に近づいていた。

 扉が開いて、美緒が出てくる。頬が赤い。歩き方が少しだけ重い。口の中で飴を転がしている音がする。

「お姉ちゃん、この飴、とっておいて。あとで食べる」

「もう口に入ってるよ」

「こっちのぶん」

 妹はポケットからもう一つ出して、わたしの手のひらに押しつけた。包み紙に絵はない。会社の名前も書いていない。


    *


 部屋に戻って、机の抽斗から古いほうのスマートフォンを出した。同級生から譲ってもらった端末で、入っているのは LINE だけ。登録してあるアカウントも、占い用の一つきりだ。

 友だち一覧には、一人しかいない。波岡(なみおか)千帆(ちほ)さん。継父の助手をしている人で、澄葉製薬(すみはせいやく)の名刺を持っている。名前を知っているのは、去年の春に一度、書類を届けに家まで来たからだ。

 向こうはわたしが誰なのか知らない。星座のことを書いて、今日の運気を並べておくと返事が来る。そのうちに、返事のほうが長くなった。

「気になっている人がいるんです。相手のほうが立場が上で、たぶん、私のことは何とも思っていません」

「仕事の話しかしてくれないんですよ。会いに行く口実なら、いくらでもあるのに」

 名前は書いてこない。書かなくてもわかる。

 わたしは指で文面を組み立てた。動いたぶんだけ返ってくる日だと書いて、夜でも会いに行くほうがいい、と書き足した。送信して、画面を伏せる。

 母が死んだのは二年前の冬で、脳出血だったと聞いている。倒れたところを見ていないし、病院の紙も読んでいない。それでも、母を殺したのはあの人だと、わたしは何百回も自分に言い聞かせてきた。証拠は一つもない。言い聞かせた回数だけが増えて、いつからか疑うのをやめた。

 母が生きていたあいだ、わたしはこの家で継父から性的な加害を受けていた。母に言う前に、母が死んだ。

 八時の部屋で何が行われているのかを、わたしはまだ知らない。知らないまま、止めたい。今夜だけでもいい。

 継父には家の決まりがある。夜八時を過ぎたら、誰も家に上げない。二年のあいだ、それを破った人はいない。破った人がどうなるのかも、わたしは知らない。


    *


 八時の十分前に、インターホンが鳴った。

 わたしは自分の部屋の扉に耳をつけた。玄関の鍵が回る音。継父の声。千帆さんの声。挨拶が二往復して、そこで止まった。

 階下で物がぶつかる音がした。短くて、続けざまで、床を伝って二階まで来る。椅子が倒れるのに似ていて、椅子ではなかった。

 音は止んだ。

 扉を細く開けて、廊下に出た。時計は八時を二分過ぎている。八時の部屋の扉は閉まったままだ。手すりの隙間から下を見ると、玄関には誰の靴もなかった。美緒もいない。

 階段を下りて、柱の陰に入った。台所の明かりは消えている。継父の部屋の扉の下から、光の線が出ていた。もう一段、足を前に出す。廊下の板がわたしの体重で鳴った。

「紗季」

 名前は背中の側から来た。

 振り向くより先に、腕をつかまれていた。力は強くない。強くする必要のない持ち方だった。

「何を見た」

「何も見てません。美緒を探してました」

「約束しただろう。八時のあとは、美緒は遊べない」

「はい」

「今日は誰かと話したか」

 わたしは床を見ていた。継父のスリッパの先が、わたしのスリッパの先と並んでいる。

 体が浮いた。継父はわたしを抱き上げて、廊下を歩きだす。振りほどこうと思ったのに、指は開いたままだった。頬がシャツに当たる。布の下が熱い。

 連れていかれたのは、継父の部屋の隣の部屋だった。二年この家にいて、一度も入ったことがない。

 白い布をかけた台がある。壁際の棚に、ラベルのない小瓶が並んでいる。金属のトレイ。記録用のバインダー。天井の照明が、それらの上で同じ白さになっていた。

 台に寝かされた。継父が背を向けて、棚の前で何かを取っている。

 わたしの視界の端を、注射器が通った。

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