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焼け野の観測

メリディアは、戦場の山道を甘く見ていた。


魔導学院時代の実習で登ったことはあるし、研究員になってからも、昔は魔素観測のために尾根へ立ったことがある。だが長年王宮に引きこもる彼女の中での山とは、地図の上に引かれた等高線であり、魔素の流れが地表の起伏によってわずかに曲がる場所であり、王宮魔導師になりたての頃に書いた論文に出てくる観測点の一つでしかなく、戦場で急かされながら登る場所ではなかった。


朝の霧はまだ薄く残っている。魔導国軍と帝国軍が相対する前線からほど近い焼けた麦畑の向こうに、戦場を俯瞰できる山がある。山というより、大きな丘と呼ぶ者もいるだろう。だがここ数年、王宮の廊下と研究棟の階段を主な移動範囲にしてきたメリディアにとっては、十分に高い山だった。


「どこにも道が見当たらない。安定して歩ける場所が、歩くたびに変わる」


「普通だ」


「王宮の床はどこも同じ歩き方ができるのだが」


「王宮の床と戦場を比べるな」


「なるほど。戦場とは、床が不親切な場所なのだな」


アンブローズは足を止めた。


昨晩、受け入れた王宮魔導師の名簿を確認した時のことを思い出す。


「メリディアといったか」


「ああ、そうだとも」


「平民出身。白の稀色。魔導学院を首席で卒業ののち、王宮魔導師に。全属性を扱える魔法適性と、強い魔力によって発現する晶瞳(しょうとう)、魔素研究における先駆者、と」


「ふむ、そのとおりだ」


「……自分の研究以外まるで無頓着。生活能力なし。研究所に寝具を持ち込み、魔素研究員に義務づけられた郊外調査は体力不足により長年実施なし」


「……」


「軍人に向かないやつだな、お前は」


「仕方ないだろう。わたしは王宮の引きこもり研究者だ」


そして今、その引きこもり研究者が山道に文句を言っている。


振り返ると、メリディアは真面目な顔で足元の石を見ていた。白い髪は朝露を吸って少し重くなり、王宮魔導師の立派なローブの裾にはもう泥が跳ねている。彼女の後ろを歩く兵が、笑ってよいのか判断できずに顔を伏せた。


「いいか。右の根を踏め。そこの石は踏むな、濡れている。枝を足場にする時は、枯れているか確かめろ」


「なるほど」


「なるほど、ではなくよく見ろ」


「見ているとも」


「空を見るな。足元を見ろ」


メリディアは少し不満そうに瞬いた。


「足元は足元で見ているよ。だが、あちらの空気の揺れも見ておきたい。敵地の観測に来たのだろう」


「登り切ってからの方がよく見える」


「それまで敵は待ってくれるかな」


言い返す言葉としては正しく、それが腹立たしい。


アンブローズは手を伸ばした。


「掴まれ」


「わたしは子供ではないんだがね」


「子供でも、ここまで手はかからないが」


メリディアは何か言いかけ、足元の根に引っかかって前へ倒れかけた。

アンブローズが腕を掴む。彼女は困ったような顔をしていた。


「……足がもつれた」


「はやく掴まれ」


メリディアは、手を取り不服そうに立ち上がって、歩いた。


ほんのすこし。


その時、低い枝が彼女の髪をさらった。


「おや」


メリディアが止まる。白い髪が枝に絡み、葉が何枚も落ちた。動こうとすると、さらに絡む。


「はあ...動くなよ」


アンブローズは戻り、枝から髪を外した。白い髪には細かな葉が混じっている。王宮魔導師というより、森で迷った子供のようだった。


「この山は髪を捕まえてくるみたいだ」


「山ではなく枝だ。その長さの髪を下ろしたまま登るな」


アンブローズは腰の地図筒を留めていた碧のリボンをほどき、メリディアへ押しつけた。風を帯びたような深い碧は、アッシュボーン家の男がよく身につける色だった。


「やる。これで髪を縛れ」


「地図はよいのかい」


「地図より、お前が木に捕まる方が困る」


メリディアは少し考え、それから不慣れな手つきで髪を束ねた。碧のリボンは、白い髪によく映えた。


「そういえば、婚礼の申し出には自分の色を添えた留め具を贈るのだったね」


「彩留めの話か」


「これは留め具ではないが、贈り主の色を相手に預けたことには違いない。戦場の偵察でとは、風情のない求婚だね」


「残念だが、俺には領地で帰りを待っている妻がいる」


「こんな最前線に出てきているのに? 高位貴族も苦労しているんだね」


「お前が木に捕まらないようにする苦労ほどではない」


メリディアは、結んだリボンの端を指先で撫でた。


「それで、これは本当に私がもらっていいのかい」


「やると言った」


「贈り物か」


「ただのリボンだ」


「そうか。いや、自分のために、誰かが手元から何かを差し出してくれたのは初めてでね」


アンブローズは眉を寄せた。


「祝い事くらいあっただろう」


「農家の娘は日々の暮らしで手一杯だ。祝いはあったが、贈り物はなかった。魔力が分かってからは王都の魔導学院へ送られたが、白の稀色で全魔で晶瞳持ちの平民など、まあ遠巻きにされるよ。王宮魔導師になってからは研究漬けだ。親しくなる相手もいない。これは私も悪いのだがね」


メリディアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「だから、少し驚いた。私は、誰かに認めてもらいたかったのかもしれない」


「髪を縛ったなら、行くぞ」


「ふふ。照れ隠しかい」


「違う。時間が惜しい」


山上の見張り場に着く頃には、霞がかっていた空も澄み切っていた。


メリディアは、相当にぐったりしていた。額に汗を浮かべ、肩で息をし、頂に着くなり近くの岩に手をつく。それでも、焼け野の向こうを見た瞬間だけ、呼吸の乱れを忘れたように目を細めた。


そこからは、帝国軍の前線がよく見えた。


麦畑の跡を貫く道。潰れた用水路。黒く焼けた納屋。帝国軍の旗。炊事の煙。馬の囲い。物資を運ぶ小さな列。朝の光を受けて、槍の穂先が細く光っている。


メリディアは、黙った。先ほどまで山への不満を並べていた女とは思えない静けさだった。


白い髪に、淡い赤、青、緑、金の光沢が浮かぶ。朝の光ではない。彼女の内側で四つの魔力が巡り、髪の奥に沈んでいた色が細い文様のように浮き上がっている。


振り向いた横顔の瞳には、虹色の輝きがあった。


ただの稀色だけではこうはならない。


全魔(ぜんま)


四属性すべてを携え、なおそれを操る力を持つ魔導師。


「見えるか」


アンブローズが問う。


「ああ、人は多い。だが、魔力の濃い者は思ったほど前にいない。前線にあるのは、旗と槍と盾だ。強い魔導師は少し後ろ。あの煙の右、荷車が三つ並ぶところに集まっている」


アンブローズは目を細めた。


彼には、ただの荷車に見えた。


「なぜ分かる」


「火の術式の残り香がある。炊事の火ではない。魔素の濃度をみる限りそこまで薄くなっていない。大魔法ではないが、何度も同じ場所で中魔法を組んだ跡かな。魔導師が休んでいるか、魔道具を調整しているか、どちらかだね」


「魔素は見えないもののはずだが、見えるのか?」


「わたしの目は特別製だからね。晶瞳には何かしらの感覚がついてくる。わたしの場合は魔素が見えるという力さ」


「強い魔導師の数は」


「十人より多く、三十人より少ない。正確には分からない。人の魔力は重なると面倒だ」


彼女はそう言いながら、地図の余白に小さな丸を書き込んだ。


線はひどく細かい。


川筋、煙、旗、荷車、魔力の濃淡。兵站の列と魔導師の溜まり。魔力の強い者の位置だけでなく、魔力が薄いのに人が妙に多い場所にも印が付いていく。


「そこは何だ」


アンブローズが指差す。


「分からない」


「分からないものを書くな」


「分からないものこそ書くべきなのだよ。見えているものだけ地図にしても、見えていないものに転ぶだろう?」


メリディアは真顔で言った。


さっき山道で転びかけた女の言葉としては、妙に説得力があった。


「あの前線、魔力は薄い。だが、おそらく人は厚いと思う。わたしが知りうる範囲の、王宮でふんぞり返っている魔導国の貴族なら、弱い場所だと思って突っ込むだろうね」


「お前はどう思う」


「戦争が分からないわたしにだって分かる。罠だ」


アンブローズは、地図を覗き込んだ。


帝国軍は魔導国ほど魔導師を前面に出していないため、魔力だけを見れば薄いが、そこには盾があり、杭があり、溝があり、荷車がある。


「帝国は、魔法を使わずに殺す気だな」


「戦場とは、そういう場所なのだろう?」


メリディアは少し首を傾げた。


「足場も不親切だしね」


---


最初の戦闘は、魔導国にとって久しぶりの勝利になった。


メリディアの観測をもとに、アンブローズの中隊は帝国軍の術者が集まる後方の荷車を避け、逆に魔力が薄いと見せかけていた正面の盾列を横から崩した。イレーネが率いる辺境伯軍が退路を塞ぎ、王都騎士団は前に出さず、後方の守りに回した。


派手な戦いはなかった。


西側では、アッシュボーン中隊付きの魔導師が、低く息を整えていた。


「グラニアよ、金礎を据え、迫る鉄を拒む壁を欲す。土岩壁」


地面が大きく持ち上がり、人の背丈を越える黒い土壁が帝国軍の進路を塞ぐ。長いが、崩れない詠唱だった。眷属を呼び、属性を固定し、効果を定め、最後に名を置く。魔導国の魔導師が学院で叩き込まれる、完唱という詠唱だった。


一方、東側の辺境伯軍はほとんど声を上げなかった。


魔の森の側で戦う者たちは、魔物がどこから来るか分からないことを知っている。茂みから来る。空から来る。地面の下から来る。詠唱を最後まで唱える余裕があるとは限らない。


イレーネが短く手を振る。


「風逸」


「土槍」


辺境伯軍の魔導師たちは、魔法名だけを短く告げて風を逸らし、足元の土を跳ね上げ、帝国兵の視線を切った。無詠唱では単純な魔法しか扱えず、威力は落ちる。持続も短い。だが、初動が速い。魔物相手に鍛えられた反射の魔法が、戦場でも兵の足を止めた。


足が止まったところへ、辺境伯兵が横から食い込む。退こうとする前列の背後には、アッシュボーン中隊の土壁があった。前へ出るには視界が悪く、下がるには道が狭い。


帝国軍の前列が、大いに乱れた。


魔導国側の兵たちは、帝国の旗が一つ下がるのを見て声を上げた。数日ぶりの歓声だった。誰もが勝ち方を忘れかけていた戦場で、ほんの少しだけ、呼吸が戻った。


その夜、陣地の空気は少し変わった。


炊事場の火の周りで、兵たちが小さく笑った。負傷者の呻きが消えたわけではない。焼けた麦の匂いも、血の匂いも薄れてはいない。それでも、明日の配置について話す声に、初めて諦め以外のものが混じった。


王宮から来た白い髪の魔導師が、敵の布陣を見抜いたらしい。そんな噂が、駐屯地の中をゆっくり回った。


メリディアは歓声に驚いていた。


「勝ったのかい」


アンブローズは、血の付いた手袋を外しながら彼女を見た。


「お前の観測通りに動いた。勝った」


「そうか。では、わたしの地図は役に立ったのだな」


「そうだ」


「なら、山に登った甲斐があった」


メリディアは満足そうに頷いた。


「次は、もう少し低い山がいい」


「勝利の余韻を台無しにするな」


二度目の戦闘でも、魔導国は押し返した。


帝国軍は前日の配置を変えていた。術者の集まる場所も、荷車の数も、旗の位置も違っていた。だが、すべてを隠し切れるわけではない。炊事の煙は兵の数を示し、馬の動きは伝令の流れを示し、魔力を抑えても、術式を組んだ跡は空気の魔素に残る。


メリディアは、また山に登らされた。


今度は、登る前にアンブローズが靴紐を確認した。


「子供扱いではないかね」


「子供でも靴紐くらい結べる」


「それは子供が偉いのだ」


「靴紐に負ける王宮魔導師がいるか」


「残念だが、ここにいる」


二度目の観測で、メリディアは帝国の予備隊の動きを読んだ。


「あの魔導師の一団を見てほしい。歩き方が違うと思わないかい?」


「歩き方?」


「前に出る兵は当たり前のように敵を観察するだろう? 戻る兵は早く後方に戻りたいから足元を見る。あれはどちらでもない。何かを待っている歩き方のように見える」


「なるほど。別働隊か、可能性はありそうだな」


「なんとなくそう思っただけさ」


彼女は当たり前のように言った。


その読みは当たった。


帝国軍の予備隊が動く前に、メリディアが焼けた麦畑の向こうへ手を向けた。


「あそこなら、届くかな」


「何をする気だ」


「なあに、少し邪魔をしてやろうと思ってね」


彼女の白い髪に、赤と緑と金の光沢が浮いた。炎、風、大地。三つの属性が同時に立ち上がる。


「赤火、翠風、金礎。熱と礫を運べ。灼礫嵐」


焼けた土が砕けた。風がそれを巻き上げ、赤く熱を帯びた礫が帝国軍の予備隊の足元へ降り注ぐ。鎧を溶かすほどではない。だが、地面を深く抉り、盾を上げさせ、馬を怯ませ、隊列の足を乱すには十分すぎる威力だった。


「簡易詠唱でその威力か。めちゃくちゃだな、お前は」


アンブローズが呆れた声を漏らす。


「めちゃくちゃではないよ。土を砕いて、火で熱して、風で運んだだけだ」


「あのな、三煌の俺が通常詠唱で三属性を通しても、そこまではいかん。やっぱり天才ではあるんだな、お前」


「ふふん、存分にほめてくれたまえ」


「呆れているんだよ」


その混乱へ、イレーネが率いる辺境伯軍が側面から圧をかける。アンブローズの中隊が魔法で大岩を落とし、進路を塞いだ。王都騎士団はまた後ろで騒いだが、今回は崩れなかった。崩れる前に、前に出されなかったからだ。


魔導国は、二度続けて帝国軍の進軍を止めた。


二度目の勝利は、一度目よりも大きかった。一度目は偶然かもしれない。帝国が油断しただけかもしれない。そう言う者はいた。だが二度続けば、誰もが理由を探す。理由を見つけたがる。


そして多くの者が、メリディアの地図を見た。


王都騎士団の若い騎士が、彼女を見る目を変えた。後方勤務の魔導師たちが、彼女の紙片を覗き込みたがった。負傷兵の一人が、水を受け取る時に「あの白い魔導師様がいるなら、まだやれます」と呟いた。


メリディアは、自分が何を背負わされ始めているのか、まだわかっていないようだった。

アンブローズには、それが少し怖かった。


天幕では、魔導軍長官が自分の判断の成果のように語った。


「やはり、王都の魔導師を投入したことが効いておりますな」


アンブローズは何も言わなかった。言えば、アルトゥールにまた名を呼ばれる。


イレーネも何も言わなかった。彼女はただ、地図の端に置かれたメリディアの紙片を見ていた。


勝てるかもしれない。押し返せるかもしれない。王都まで帝国軍を通さずに済むかもしれない。


その「かもしれない」が、陣地の中で火の粉のように増えていった。兵は武器を磨き直し、魔導師は使える術式を紙に書き出し、王都騎士団は昨日までより大きな声で笑った。


希望は、弱った軍には薬になる。


同時に、ひどく甘い毒にも。


---


その夜遅く、アンブローズは消えかけた火のそばで、まだ紙片を並べているメリディアを見つけた。


メリディアは座ったまま、羽根ペンを握っている。目の前には、帝国軍の配置を写した細かい紙が散らばっていた。眠っているのかと思えば、急に目を開けて線を一本引く。


「そこは違う」


「起きていたのか」


「寝ていたとも」


「なら黙って寝ろ」


「夢で見えた」


「夢で地図を直すな」


アンブローズは、線を引かれた地図から目を離した。


「昼の魔法だ」


「ああ、あれかい?」


「あれだけ短い詠唱で、なぜあの威力が出る」


メリディアは羽根ペンを置き、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「ふふ。そうだね。詠唱は魔法の発動には、本質的には何も役に立っていないからさ」


アンブローズは無言で彼女を見た。


「おや、頭は大丈夫かという顔だね。私は今日も冴えているよ」


「続けろ」


「詠唱は、魔力を圧縮し、魔法が発現するために必要な空間の支配率を上げるための型だ。神々の眷属に祈るから火が生まれる、と教えられているが、実際には祈りそのものが火を運んでくるわけではない。祈ることで、術者が深く集中する。集中するから魔力が締まる。魔力が締まるから、空間に魔法を通す場を広く作れて、現象をこちらの形へ寄せられる」


「聖教の教えを、ずいぶん雑に扱うな」


「雑にしてはいないよ。みな、子供の頃からルミナリア聖教の唱和を聞いて育つ。魔導師なら、学院でなおさら厳しく覚えさせられる。火のアルデア、風のヴェリア、大地のグラニア、水のリュミア。癒しのセレナもあるね。神学ではそれぞれ格や由来が細かく分かれるが、詳しいことは司祭に聞くといい。私は専門ではないからね」


メリディアは肩をすくめた。


「大事なのは、唱える言葉が身体に深く染みついていることだ。だから完唱は強い。深唱はもっと強い。ありがたい言葉ほど、術者は疑わずに集中できる」


「では、帝国の短い詠唱は」


「同じ型を、軍の号令に変えただけだろうね。祈りが合う者もいれば、号令が合う者もいる。私は研究室で独り言を言う方が合う」


「否定できん」


「ひどいな。とはいえ、やはり詠唱をしたほうが楽だ。魔力の圧を高めるにも備えは必要だしね。わたしも詠唱をするほうが楽なのは間違いない」


アンブローズは、昼に見た三色の魔力光を思い出した。


「詠唱の理屈は分かった。全魔は、すべての属性が使えるという意味だろう。俺は三煌だから、三属性までは想像できる。だが、四属性を同時に発動させるとどうなる」


「ああ、そうか。四色持っている者は、なかなかいないのだったね。数百年ぶりだとか言われたよ」


メリディアは、焚き火の小さな火を見た。


「魔力回しは分かるかい。魔法として放つ前に、属性の魔力だけを励起させる訓練だ」


「ああ」


「四属性でもそこまではできる。炎、風、大地、水。四色を合わせて魔法にしなければ、魔力として体内で回るし、同時に動かすこともできる。ただ、それを現象として発現させようとすると、互いに打ち消し合う。何も起こらない」


「何も、か」


「正確には、起こらないように見える。そこへ一定以上の魔力を流し込むと、ぼん、だ」


「ぼん」


「あれはつらかったね。しばらく王宮の救護室を独り占めしたよ。髪も焦げて、魔力を溜めにくくなり、研究に支障が出るから切る羽目になった。腰の上まで短くなったのは、農家の娘だった頃以来さ」


メリディアは、焚き火の火を見たまま、少しだけ首を傾げた。


「ただ、奇妙だった。爆発したとき、その魔力がすべて魔素に戻った。私の目にもそれが見えた。魔法の魔力がゆっくり魔素に戻るなら、それは普通の反応だ。ただ、すべてがすぐに魔素に戻ることは、絶対にならないはずなんだ」


アンブローズは、今の長い白髪を見た。


「それで、原因は」


「まだ分かっていない。ただ、仮説はある。四色の適性を持っていてもこの結果だ。四色の外側にある魔法なのだと思う。それこそ、眷属ではなく、もっと上の神へ詠唱を捧げるくらいにはね」


メリディアの声が、少しだけ低くなった。


「原初の二柱に直接触れるようなものかもしれない」


「試したのか」


「まさか。痛いのは嫌だよ」


「お前にもそういう感覚はあるんだな」


「失礼だね。だが、まあ、嫌な予感がするのさ。詠唱は本質ではないと言ったが、あの二神に直接呼びかける言葉だけは、少し違う気がする。何が起こるか分からない」


メリディアはまた羽根ペンを取った。


「だから今のところ、私が知っているのはこのくらいだ。分からないものは、分からないと書いておくに限る」


---


三度目の戦闘で、帝国軍は変わった。


朝、山に登ったメリディアは首を傾げた。


「薄いね」


「何が」


「魔力が。前線が薄い。旗も薄い。煙も少ない。魔素をみる限り魔法を使われた形跡もない。兵を下げたのかな」


アンブローズは地図を覗き込む。


確かに、帝国軍の前線は薄く見えた。だが、嫌な静けさだった。


「罠か」


「罠かどうかは分からない。魔力は薄い。人も、見える範囲では薄い」


「見える範囲では、か」


メリディアはその先を地図に描かず、見えないものを見えたことにはしなかった。


---


軍議では、長官が前進を主張した。


「帝国軍は下がっております。今こそ押すべきです。二度続けて勝った流れを逃すべきではありません」


イレーネは反対した。


「静かすぎます、何かがあると考えるのが自然かと」


「辺境軍は慎重ですな」


「慎重でなければ、魔の森の側では生き残れません」


アルトゥールは迷った。


迷う時間はなかった。


前線から、帝国軍の一部が後退しているという報告が入る。王都騎士団は、それを敗走と受け取った。魔導軍長官の腰巾着である騎士団長が、許可を待たずに前へ出た。


そして、戦場の中央で止まった。


焼けた麦畑の下には、用水路があった。崩れたと思っていた溝の一部は、帝国軍が夜のうちに直していた。荷車の残骸が壁になり、灰をかぶった杭が足を止め、麦の焼け跡に伏せていた弓兵が一斉に立ち上がる。


魔力は薄かった。


だから、見えなかった。


鈍色の兵は、息を潜め、灰と泥の中で待っていた。


灰の奥で、短い声が重なった。


「金礎、前列を固めろ。土壁」


「翠風、矢筋を伸ばせ。風渡」


帝国の魔法士たちの詠唱は、魔導国のものより短かった。神の眷属へ丁寧に願うというより、兵へ命令を飛ばすような調子だった。だが、魔法は発動した。土がわずかに盛り上がって盾の隙間を埋め、風が弓兵の列を撫でて、矢の飛ぶ道を整える。


そのさらに後方で、違う声がした。


焼けた荷車の周囲に、数人の魔法士が膝をついている。彼らは地面に刺した短い金属杭へ手を添えていた。その中心で、淡い翠の髪を束ねた帝国の稀色魔法士が荷車の上に立つ。虹彩に細い風の光が走っている。


「ヴェリアよ、翠風を巡らせ、灰と矢羽を高く掲げ、敵列を打ち伏せる冠を欲す」


メリディアが顔を上げた。


「深唱だ」


荷車の周囲に集められた魔力が、主唱者の声に従って一本に締まる。風が、戦場の上で渦を巻いた。


「嵐冠」


敵の魔法が開いた。灰が巻き上がり、矢が風に押され、人も軽々と吹き飛ばすような暴風が、倒れかけていた王都騎士団の盾列へ圧をかける。盾兵は耐えきれず盾を落とし、前列の守りが引き倒された。


その開いた隙間に、矢が飛び交う。


最初の一斉射で、王都騎士団の前列が崩れた。次の矢で、伝令が倒れた。旗が一つ落ちる。戻れという赤い旗が上がる前に、別の隊が前へ出ようとして詰まった。


「伏せろ!」


アンブローズが叫んだ。


笛が鳴る。


メリディアは、伏せなかった。


彼女は矢を見ていなかった。矢の後ろで動く魔力の薄い兵の列を、式を解くような顔で見ていた。


「馬鹿、伏せろ!」


アンブローズが走った。


一本の矢が、メリディアの白い髪の横を抜ける。


次の矢は、彼女の胸元へ向かっていた。


アンブローズは彼女の肩を掴み、地面へ引き倒した。


矢は彼の腕をかすめ、甲冑の留め具を弾いた。痛みが遅れて来る。だが、腕は動いた。


メリディアは地面に押し倒されたまま、少しだけ瞬いた。


白い髪の横に、矢が刺さっている。


「……そうか。死ぬところだったのか」


アンブローズは彼女の腕を掴んだ。


「立て。ここで寝ている暇はない」


矢が来る。


アンブローズは、呆然としたままのメリディアを引き上げながら、剣を振った。


一本目を払う。さっきの傷が、鎧の下で熱を持っていた。


二本目も払う。


三本目は肩の鎧をかすめた。


帝国兵は退いていない。白い髪の魔導師を狙っている。


「走れ」


メリディアは動かなかった。


目が、頭をかすめた矢から離れていない。


「くそっ」


焼けた荷車の陰から、別の矢が放たれた。


矢尻に、翠と金の魔力が巻いている。


剣では間に合わない。


詠唱も、間に合わない。


昨夜のメリディアの声が、頭をよぎった。


詠唱は、魔法の発動に本質的には何も役に立っていない。

深く集中を引き出し、圧縮に必要な制御力を高めるためにある。


集中。


アンブローズは息を止めた。


魔素器を、風と大地の色で無理に励起させる。


詠唱を伴わない圧縮は荒い。整えきれなかった魔力の棘が、体の髄に痛みを走らせた。


「風礫壁!」


風に巻き込まれた礫が、壁のように跳ね上がった。


矢が弾かれる。


アンブローズの胸が焼けた。無理な励起の反動が、魔素器の奥で暴れる。


メリディアは、弾かれた矢を見ていた。


まだ、息の仕方を思い出せない顔で。


それから、ゆっくりアンブローズを見上げた。


「……なんだ。きみも、できるじゃないか」


---


撤退は、戦闘ではなく崩壊に近かった。


イレーネが率いる辺境伯軍が、逃げる兵と追う帝国兵の間に割って入った。アンブローズの中隊は、盾を拾い、負傷者を抱え、魔導師を後ろへ押し戻した。メリディアは何度も転びかけ、そのたびに誰かに腕を掴まれた。


王都騎士団の旗は泥に落ちていた。


帝国軍は深追いしなかった。


追わずとも、十分だった。


魔導国が二度の勝利で取り戻しかけた呼吸は、三度目の戦場で折られた。


希望を持つ前なら、まだただの敗走だったかもしれない。


だが彼らは、もう一度勝てると思っていた。


白い魔導師の地図があれば、帝国軍を読めると思っていた。王太子の判断と辺境軍の踏ん張りと、アンブローズの中隊の守りがあれば、押し返せると思っていた。


その希望ごと、焼けた麦畑の泥に叩き込まれた。


陣地へ戻った時、アンブローズはしばらく座り込んだ。


腕の傷は浅い。命に関わるものではない。だが、甲冑の内側で血が固まり、動かすたびに布が皮膚へ張り付いた。


メリディアは、彼の横に座っていた。


座っているというより、座らされていた。顔には泥が付き、白い髪にも灰が混じっている。王宮魔導師には見えない。戦場に迷い込んだ研究者にも、もう見えなかった。


「この戦いは、どうなるんだ」


アンブローズは、誰に言うでもなく呟いた。


遠くで負傷兵が呻いている。誰かが水を求めている。誰かが、隊長の名を叫んでいる。


「一度読めば、次は変えてくる。二度勝てば、三度目には罠を張る。魔法の強さだけではない。あいつらは、戦い方を柔軟に変えてくる」


メリディアは黙って聞いていた。


「王都の連中は、まだ分かっていない。ただ稀色を並べれば勝てると思っている。長官は、次も魔導師を増やせと言うだろう。王都騎士団はまた前へ出たがる。イレーネ殿の兵も、いつまでも持たない」


彼は地面を見た。

爪の間に、麦畑の黒い灰が入っている。


「この戦いは、どうなるんだ」


今度は、問いだった。


メリディアは少し考えた。そして、ひどく場違いなほど穏やかに言った。


「なんとかなるさ」


アンブローズは、顔を上げた。


「根拠は」


「ない」


「ないのか」


「ないね」


「お前な」


メリディアは、泥の付いた袖で頬を拭こうとして、余計に汚した。


「けれど、今日きみはわたしを助けた。わたしはまだ見える。きみはまだ動ける。イレーネ殿の兵も、まだ旗を立てている。殿下もまだ諦めていない」


アンブローズは黙った。


「なら、明日は今日より少しだけましにできるかもしれない」


「かもしれない、か」


「未来を確定で言えるほど、わたしは世界を知っているわけではないからね」


メリディアは焼けた麦畑の方を見た。


「ただ、戦場というものが、少し分かったと思うよ。魔法だけを見ていては転ぶし、足元を見ていたら、矢で射られて死んでしまうし……」


「遅い学びだな」


「遅くても、学ばないよりはましだろう」


アンブローズは息を吐いた。


笑ったつもりはなかった。


だが、少しだけ口元が動いた。


「次に笛が鳴ったら」


「伏せる」


「赤い旗が上がったら」


「退く」


「青い旗が上がったら」


「自分の小隊へ戻る」


「覚えたか」


メリディアは、ほんの少しだけ胸を張った。


「かなり覚えた」


アンブローズは額を押さえた。


それでも、その夜、彼は初めて少し眠った。


戦場は悪くなる。


帝国軍は次もきっと戦い方を変えてくる。


魔導国は、まだ自分の弱さを認めきれていない。


だが、王太子は逃げていない。


イレーネの旗は折れていない。


なら、明日は今日より少しましにする。


そう思わなければ、焼け野の夜は長すぎた。


---


同じ夜、帝国軍の前線本陣では、別の地図が広げられていた。魔導国側の陣地に、赤い駒が一つ置かれる。


帝国前線指揮官は、しばらくその駒を見ていた。二度、押し返された。増援の魔法士が何かを読んでいることも、王都の雑兵とは違う、毛色の違う訓練された軍団が容易に崩れないことも、魔導国の武の公爵家の軍が相当動けることも分かった。


分かったなら、潰し方も変えればいい。


「抜けましたな」


鈍色の将校が言った。


「ああ」


前線指揮官は頷く。


「魔導国は、増援の魔法士が持ち込んだ読みに頼り始めた。なら、その読みが届かない場所で殺す。今日で王都の雑兵はまた浮き足立った。あの訓練された白磁の軍団は強いが、全部は守れん。今日の戦いで相当削られたはずだ」


天幕の奥で、皇帝が地図を見ていた。


「明日は」


前線指揮官は姿勢を正した。


「全面攻勢に移ります。正面で押し、側面で裂き、退路へ圧をかけます。おそらく王都の雑兵に頼らざるを得ないでしょう。魔導国軍が自分たちの過ちを認める前に、押し潰します」


皇帝は少しだけ笑った。


「よい。民が冬を越すための糧を焼いた代価を、王都の門前まで運ばせろ」


赤い駒が、さらに一つ前へ進む。


焼け野の夜は、まだ明けていなかった。


※属性、容姿、魔法の発動について

この世界では、魔力の属性が髪や瞳の色に現れる。主属性が強い者ほど髪にその色が大きく出て、複数の属性を持つ者は、髪の光沢や瞳の奥に別の属性色が混じることがある。稀色は淡く澄んだ属性色、鈍色は濃い属性色として現れる。特に魔力が高い者は、瞳に強い魔力の輝きを宿すことがあり、これは晶瞳と呼ばれる。


魔法は、術者の魔力を空間へ作用させ、火、風、水、大地などの現象を発現させる技術である。魔法を成立させるには、その空間を自分の魔力で満たし、現象を保てるだけの支配率を取る必要がある。そのため、手元や身体の近くで発動する魔法ほど安定しやすく、遠くへ直接効果を及ぼすほど難しくなる。遠距離攻撃では、手元で作った炎や水、石、風の流れを射出したり、風で矢や魔法の通り道を整えたりすることが多い。

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