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焼け野の結末

朝、山へ向かう道は塞がれていた。


いつもの低い山だった。メリディアが何度も足をもつれさせ、アンブローズが何度も腕を掴み、この白い髪の王宮魔導師が山道に向いていないことを全員に教えた、あの見張り場へ続く道である。


だが、その朝は途中で斥候が戻ってきた。


顔が白かった。


「帝国兵です。山上の見張り場を押さえられています」


アンブローズは、足を止めた。


メリディアも止まった。彼女は肩に観測用の鞄を掛け、前日より少しだけ丈夫そうな靴を履かされていた。靴紐はアンブローズが確認した。本人は不服そうだったが、今日は文句を言う暇もなかった。


「数は」


「多くはありません。ですが弓兵がいます。近づけば射られます」


アンブローズは山の稜線を見た。


朝日を背に、木々の間で何かが光る。


槍か。矢じりか。


「迂回路は」


「東側の細道も押さえられています。西側は崖です」


「取られたか」


アンブローズは短く言った。


「登れないのかい」


「登れば死ぬ」


「それは困るね」


「昨日、学んだばかりだろう」


「ああ。矢で射られると死んでしまう」


真面目な顔で言う。


冗談に聞こえなかった。


アンブローズは息を吐いた。


「敵地は見えるか」


メリディアは目を細める。


白い髪の奥に、淡い属性色がかすかに浮かんだが、すぐに消えた。山上から見下ろす時と違い、ここからでは焼け野の向こうは遠すぎた。煙も旗も、荷車の影も、低い地形に隠れて見えない。


「無理だね。空気の揺れは見える。けれど、その向こうで何がどう動いているかは、分からない」


「読めないか」


「読めない」


彼女は迷わず言った。分からないものを分かるふりはしない。それが彼女の良いところであり、戦場では残酷なところでもあった。


「見えていないものを地図にしても、研究の仮説とは違う。ここでは、何の役にも立ちはしないだろう?」


アンブローズは、山上をもう一度見た。


帝国軍は、メリディアの目を潰しに来た。あの白い王宮魔導師の名を知っているわけではないだろう。顔を覚えているわけでもないだろう。それでも、魔導国側が山から何かを読んでいることは見抜いた。


「戻るぞ」


アンブローズは言った。


「今日は、見えないまま戦うことになるな……」


---


王太子アルトゥールの天幕に戻ると、そこにはすでに重い空気があった。


地図の上には、帝国軍の確かな配置は書かれていなかった。斥候は戻っているが、焼け野の広がりは広い。帝国軍がどこへ兵を厚く置き、どこへ騎兵を回し、どこに魔法士を潜ませているのか、わからない。


わからないものを、すべて警戒するだけの兵はなかった。


イレーネは、地図の東側に手を置いた。


「東部辺境伯軍はここを支えます。ですが、昨日で相当に削られました。動かせる小隊は半分以下です」


アンブローズも頷く。


「アッシュボーン中隊も同じだ。動けるが、薄い。昨日みたいに全体を拾うのは無理だ」


魔導軍長官は、そこで待っていたように咳払いをした。


「ならば、王都騎士団をすべて前へ出すしかありますまい」


天幕の隅で、王都騎士団の貴族将校たちが顔を上げる。


その中には、昨日まで後方に置かれていることへ不満を漏らしていた者もいた。彼らは負傷者の呻きを聞いていないわけではない。泥に落ちた旗を見ていないわけでもない。それでも、自分たちが前に出されなかったことを、侮辱のように受け取っていた。


「当然ですな」


一人が言った。


「我々を後方に置くから、こうなるのです」


別の者が頷く。


「王都騎士団が最初から前に出ていれば、帝国兵ごときにここまで押されることもなかったでしょう」


イレーネの目が冷えた。


アンブローズは口を開きかけた。


その前に、アルトゥールが机の縁を掴んだ。


ぎり、と小さな音がした。


歯を食いしばった音だったのか、木が軋んだ音だったのか、誰にも分からなかった。


「王都騎士団を中央に入れる」


アルトゥールは言った。声は静かだった。


「東側をイレーネ殿、西側をアッシュボーン中隊。中央は王都騎士団で受ける。魔導師は前に出しすぎるな。崩れた時、後ろを焼くことになる」


「殿下」


王都騎士団の将校が眉を上げる。


「我々は崩れません」


アルトゥールは、その男を見た。


「そうか」


メリディアは、天幕の隅で黙っていた。手にした地図にはいつものような細かな線がない。魔力の濃淡も、荷車の印も、旗の位置も、兵が妙に厚く集まる場所も書き足されておらず、白い余白だけが焼け野の広さを示している。


アンブローズはそれに気づき、何も言わなかった。今日は彼女の目が届かない。


---


昼前、戦線が開いた。


最初に見えたのは旗だった。


灰色の空の下、帝国の旗がいくつも並ぶ。昨日までより多い。二列ではない。三列でもない。焼けた麦畑の向こうから、黒い波のように増えていく。


「多い」


誰かが呟いた。


それは報告ではなく、悲鳴に近かった。


帝国軍は前進していた。


ゆっくりと。


あまりに整然と。


盾が揃う。槍が揃う。騎兵が後ろに見える。数があった。足音が地面を鳴らし、焼けた麦畑の灰が風もないのに浮き上がる。


「総攻撃だ!」


魔導国軍の前線で声が上がった。その言葉は命令より早く広がった。


総攻撃。


帝国軍が全てを押し出してくる。


それが分かった瞬間、魔導国軍は浮き足立った。


王都騎士団の一部が、盾の位置を下げた。別の隊が早すぎる詠唱を始める。魔導師の声が重なり、前列の騎士がまだ見えない敵へ向けて槍を構えた。


「早い! まだ撃つな!」


アンブローズが叫ぶ。


だが中央では、王都騎士団の魔導師が先に火を放った。


「アルデアよ、赤火を灯し、敵列を焼く火を欲す。火弾」


炎は届いた。


帝国軍の前列を舐め、盾を赤く染めた。


だが止まらない。


盾の後ろから、別の盾が出る。焦げた兵を後ろへ下げ、次の兵が前へ出る。炎に驚いて足を止める者はいた。だが列は止まらなかった。


「なんで止まらない」


王都騎士団の若い騎士が声を漏らす。


イレーネが遠くで叫んだ。


「前を見るな、足を見ろ! 騎兵が来る!」


その声の直後、帝国軍の中央が割れた。


黒い騎兵が出てきた。


先頭の馬は低く伏せるように走る。騎兵の槍には派手な魔法光はない。だが馬具には魔道具の補強があり、蹄が灰を蹴るたびに小さな火花が散った。


騎兵の後ろで、帝国の魔法士が短く唱える。


「翠風、脚を送れ。風渡」


風が馬の胸を押し、蹄の下の灰を払う。突破力を上げるささやかな魔法。それでも数に任せたこの戦場では強すぎる力になる。


魔導国の中央防御陣へ、一直線に来る。


「槍を下げろ! 中央、受けろ!」


アルトゥールの伝令が叫ぶ。


王都騎士団は、受けなかった。


最初の一撃で前列の盾が割れた。割れた盾の音が、兵の心も割った。二列目の騎士が一歩下がる。三列目の魔導師は、詠唱に気を取られていて気づかない。


若い稀色の魔導師が杖を掲げていた。胸元には名門の紋章が光っている。騎兵の蹄の音より、自分の詠唱の方を聞いていた。


「アルデアよ、赤火を灯し、我が魔力を城壁となして、荒ぶる敵列を焼き払」


そこで、帝国騎兵の槍が届いた。


杖が弾け、赤い魔力が城壁になる前に散る。火花だけが空へ散り、若い魔導師の身体は後列の魔導師ごと泥に倒れ込んだ。


そして誰かが、後ろへ走った。一人が走ると、隣も走った。


「下がるな! 戻れ! 戻れ!」


赤い旗が上がる前に、中央が崩れた。


臆病風に吹かれた王都騎士団は、抵抗することなく後方へ逃げていった。彼らは昨日まで、前に出せと叫んでいた。自分たちなら止められると胸を張っていた。


だが騎兵が目の前に来た時、彼らは魔導国の中央に穴を開けたまま逃げた。


帝国騎兵は、その穴へ入った。


防御陣が裂ける。


イレーネが率いる辺境伯軍が向きを変えようとする。西側のアッシュボーン中隊が土壁を起こし、穴を塞ごうとする。だが中央にできた穴は大きすぎた。


辺境伯軍の白磁の鎧は、もう元の色が分からないほど血と煤と泥に汚れていた。イレーネは剣で迫る槍を弾き、短い魔法で足元の泥を跳ね上げ、崩れかけた隊の前に立つ。


帝国歩兵がそこへ押し寄せる。


小隊が一つ、包まれた。旗が落ちる。


別の小隊が後退しようとして、逃げる王都騎士団とぶつかった。


足が止まる。そこへ槍が届く。


「西を支えろ! 魔導師を下げろ! 負傷者を置くな!」


アンブローズの声は枯れていた。彼は何度も馬を避け、何度も兵を引き起こし、何度も倒れた盾を拾わせた。だが戦場は、一人の声で戻せる形をしていなかった。


メリディアは、その中に立っていた。立っているというより、立ち尽くしていた。


魔力の流れは見える。炎も、風も、水も、大地も。


だが、今日の戦場で人を殺しているのは、それだけではなかった。


馬の蹄の音。

突き出される槍の鋭さ。

逃げる味方の背。

泥にまみれて落ちた旗。

声にならない叫び。


魔法だけでは、戦場は読めない。


彼女はそれを、昨日学んだばかりだった。


そして今日も。


「もう駄目だ」


誰かが言った。


一度出た言葉は、すぐに広がる。


「押し込まれる」

「中央が抜かれた」

「王都まで逃げるしか」

「殿下を下げろ」

「もう終わりだ」


魔導国軍の空気が、折れた。


アンブローズは、折れた音を聞いた気がした。


あるのは金属音と、怒号と、馬の嘶きと、血を吐く声だけだ。


だが確かに、何かが折れた。


「魔導国軍は終わった」


アンブローズは笑った。


笑うしかなかった。


視界の先は帝国兵ばかりだった。遠くの焼け野は、黒い波に飲まれている。自国の旗は低い。王都騎士団の一部は後方でまだ騒いでいる。肥え太った貴族将校たちの姿は、もう前線にはない。


「見てみろ、我が国の軍を。王都の連中は後ろへ逃げた。肥え太った貴族どもは、自分の血筋だけ抱えて王都へ戻る気だ。残っているのは、辺境から来てくれた義の軍と、貧しくても国のために戦う兵ばかりだ」


彼は近くにいたメリディアを見た。


「もう終わりだよ、この国は」


メリディアは、彼の言葉を聞いていた。


だが、同じものを見てはいなかった。


彼女は戦場の向こうを見ている。


帝国兵でも、崩れた中央でも、逃げる王都騎士団でもない。


焼けた麦畑。

壊れた用水路。

踏み荒らされた土。

死んだ者たちからほどけていく魔力。

魔法で焼かれた空気。

大地に染み込んだ血。


そのすべてから、細い光が立ち上っていた。


「ああ、感じるよ」


アンブローズは力なく笑う。


「はは、お前もそう思うか。お互いよく戦った。せめてお前だけでも逃がしてやりたいものだ」


ふと、メリディアへ目をやった。


彼女の虹色の晶瞳の奥で、小さな光がいくつも瞬き、白い髪に浮かぶ四つの色が、呼吸するように淡く明滅していた。


「感じるよ。魔素の広がりが。世界を包む神秘の光が。ほどけていく。ここに、始まりの底が見える。ふふ、なんだ、こんなことだったのか」


「お、おい。何を言っている」


メリディアはもう、アンブローズを見ていなかった。


虹色の晶瞳が、強く輝いている。白い髪の奥に、赤、青、緑、金の色が浮かび、風もないのに揺れた。


「偉大なる世界の大神よ。ルミナの二神、太陽のソレイア、暗夜のノクト、数多の神々の眷属よ」


アンブローズは息を呑んだ。


「今ここに、始源の泉に満ちる彩の顕現を願う」


空に、ゆっくりと魔力の波動が広がった。


戦場の音が遠のく。


帝国兵も、敗走する魔導国兵も、誰もが一瞬だけ天を見た。


誰も目を逸らせなかった。命令でも恐怖でもなく、空に開いた虹の冠が、戦場のすべての目を奪っていた。


「信じられん……俺は何を見ているんだ」


「灯は太陽を映し、静謐は夜を抱く。炎は万象を照らし、風は天を巡り、大地は命を載せ、水は世界を循環す」


大気がきらめき、それが渦を巻いてメリディアを包む。


アンブローズにも、見えた。


魔素。


彼女がいつも見ていたというもの。


川筋から、焼けた麦畑から、空気から、死者の魔力がほどけた場所から、細い光が集まっていく。それらはメリディアの身体へと吸い込まれ、彼女自身を中心に渦を作る。


「これは……なんだ」


「魔素さ。なあんだ、君にも見えるようになったのか」


メリディアは笑った。


柔らかな笑みだった。


戦場には似合わない。


王宮の研究室で、古い論文の余白に面白い式を見つけた時のような顔だった。


「どうやら、ここがわたしの終着点みたいだ。最期に見る景色にしては、神秘が過ぎると思わないかい?」


「待て。何を言っている」


「君にも見える魔素の濃度だ。たぶん、わたしの魔素器が扱える圧力じゃない。ふふ。まさか最期に魔の極致に出会えるなんて。ここまで生きてこられてよかったよ」


「やめろ」


アンブローズは手を伸ばした。


だが、空気が重い。


彼女の周囲へ近づけない。


魔力の圧が、目に見えない壁のように立っている。


「なあに、ちょっとした魔法をほいっと放つだけさ。きっと君たちは生き残ることができる」


「やめてくれ、メリディア!」


メリディアは少しだけ目を細めた。


「はは。やっと私の名前を呼んでくれたね」


彼女は、焼け野の向こうを見た。


帝国軍が迫っている。


魔導国軍は崩れている。


だが、王太子は逃げていない。


イレーネの旗は、まだ折れていない。


アンブローズは、まだ動こうとしている。


メリディアは、小さく息を吐いた。


研究室の外へ出た。


数年ぶりに王都を出た。


地図上でしか行けなかった帝国との国境の端まで来た。


戦争は怖かった。つらかった。


だけど。


山に登り、泥に転び、軍の食事を食べ、兵たちの笑い声を聞いた。王宮の研究室に引きこもって、古い論文と干し肉だけを相手にしていたら、きっと知らないままだったものばかりだった。


「……これで思い残すことは」


そこで、彼女は少しだけ笑った。


「いや、この魔法の研究ができないことだけは心残りだね。目の前にこんな神秘があるというのに、記録を取る暇もないとは」


虹色の晶瞳が、さらに強く輝く。


「けれど、まあ、満足はしているかな。さあ、離れているんだ」


魔力の圧が弾けた。


アンブローズは吹き飛ばされる。地面に背を打ちつけ、息が詰まった。それでも彼は顔を上げようとした。


メリディアに集まる光は、さらに強くなる。


白い髪が、虹色に輝いている。瞳には、小さな星々のような煌めきが広がり続けていた。


「さあ、太陽よ、夜よ、世界に遍くすべての者よ」


ほんの一瞬、メリディアの喉の奥で息が詰まった。


輝きが一点に集まる。


「これが私の魔の極致。……始源回帰」





音が消えた。





光が消えた。





感覚が、見える世界が、すべて消えた。


刹那。


視界を塗りつぶすほどの、強大な輝き。






世界が、裂けた。






---


アンブローズが目を開いた時、音は戻っていた。


最初に聞こえたのは、自分の呼吸だった。


次に、誰かの泣く声。


それから、風。


彼は倒れていた体を起こす。


「な……」


さっきまで帝国軍が迫っていた場所には、何もなかった。


そこにあるのは、深い、ただ深い裂け目だけだった。


帝国軍の前線と、魔導国の崩れかけた陣地の間に、底の見えない巨大な裂け目が走っている。焼けた麦畑は途切れ、用水路も、道も、荷車も、旗も、人も、すべてそこで断たれていた。


進軍は止まった。逃亡も止まった。戦場そのものが、そこで終わっていた。


「メリディア」


アンブローズは立ち上がろうとして、膝をついた。


彼女がいた場所には、誰もいなかった。


ただ、風が吹いた。


白い長い髪に映えていた碧のリボンが、ふわりと空を舞う。


それは焼け野の上を少しだけ漂い、深い裂け目の風に乗って、見えなくなった。


誰かが、呟いた。


「止まった」


別の誰かが、泣きながら笑った。


「帝国軍が、止まった」


アルトゥールは、裂けた大地の前で立ち尽くしていた。

イレーネは、折れかけた旗を握ったまま空を見ていた。

アンブローズは、何も言えなかった。

ただ、メリディアが最後に見ていた光だけが、瞼の裏に焼き付いている。


この日、魔導国は滅びなかった。


一人の王宮魔導師が、ただの麦畑だった場所に、国境を刻んだからだ。


戦場に残ったのは、勝利の歓声ではなかった。


深い、深い傷跡だった。


裂けた大地の縁からは、崩れた土がいつまでも落ち続けていた。焼けた麦畑はそこで途切れ、用水路は裂け目へ口を開け、荷車の車輪だけが半分ほど縁に引っかかっている。馬の嘶きも、兵の怒号も、なにも聞こえなくなっていた。


---


裂け目の向こう側で、帝国軍の旗が乱れていた。前線本陣へ最初に戻ってきた伝令は、報告にならない報告をした。


「前が、ありません」


帝国の前線指揮官は、眉を寄せた。


「何がない」


「前線が、ありません。騎兵も、中央の歩兵も、将校団の一部も、全部、大地とともに消えました。裂け目に飲まれて...」


「裂け目だと」


「底が見えません」


天幕の中が静まり返った。誰もすぐには口を開けなかった。帝国軍はまだ敗走していない。陣も崩れていない。だが、進むための地面が消えていた。


別の伝令が、泥まみれで駆け込む。


「前列の幕僚と連絡が取れません。騎兵指揮官も不明。工兵隊は裂け目の幅を測れないと」


「測れないとは何だ」


「近づくと崩れます。向こう岸まで声が届きません」


皇帝は、地図の前で立っていた。


鎧は着ていない。その場の誰よりも戦場を遠くまで見ている目が、初めて地図の上で止まっていた。


何も読めなかった。


「同じ魔法がもう一度来ると思うか」


誰も答えなかった。


答えられない沈黙が、答えだった。


あれが一度きりの奇跡なのか。まだ撃てる兵器なのか。術者が生きているのか。死んでいるのか。帝国側には、何一つ分からない。


分からないものに、軍を進めることはできなかった。


「停戦の使者を出せ」


皇帝が言った。


「陛下、撤退では」


「停戦だ。こちらから背を向ければ追われる。こちらから踏み込めば、もう一度あれを撃たれるかもしれん。あの裂け目を国境として扱う。魔導国には、これ以上撃つ意思がないことを示させろ」


前線指揮官は、わずかに唇を噛んだ。


「奪取済みの土地は」


皇帝は、すぐには答えなかった。


「相手の出方次第だ」


それから、地図の上に残った帝国側の線を指で押さえた。


「最初に焼かれた畑の代価だ。その代価の代わりに取り返した土地は帝国領として認めさせる。だが、王都への進軍は止める。こちらの将校をこれ以上、あの光へ放り込むな」


その日の夕刻、白旗が上がった。


魔導国軍も兵を引いた。追うための道はなく、追うだけの力も残っていなかった。


王都騎士団は崩れ、辺境軍は削られ、アッシュボーン中隊も兵を失い、王宮魔導師メリディアは戻らなかった。帝国軍の進軍は止まったが、それは魔導国の力が帝国を打ち破ったからではない。


白い小さな魔導師が、命を燃やし尽くしたからだった。


---


講和は、裂け目の縁から離れた仮設天幕で行われた。


アルトゥールは、まだ王ではない。


それでも王族としてこの戦いを見届けた責任者として、血の気の薄い顔で帝国側の条件を聞き、失った土地を取り戻せないことを理解し、筆を取った。怒鳴る者はいなかった。泣く者もいなかった。泣くには、誰もが疲れすぎていた。


帝国は王都への進軍を止める。魔導国は、帝国が反転攻勢で押さえた国境沿いの土地を、帝国領として認める。


そして、この戦いの名を焼糧戦役とする。


それは帝国側が譲らなかった名だった。


焼かれたのは畑だけではない。冬を越すための糧であり、逃げ延びた鈍色たちの子孫が守ってきた食料庫だった。魔導国がその糧を焼いたから、この戦争は始まった。帝国は、その事実を魔導国の歴史に刻ませた。


アルトゥールは、それを呑んだ。


その代わり、渓谷の名だけは譲らなかった。


両国は、白虹の渓谷を当面の境界として扱う。


講和文書にその名が書かれた時、アルトゥールは一度だけ筆を止めた。


白虹の渓谷。


白い髪の魔導師が、虹の光で戦を止めた場所。


逃げ出した貴族たちではなく、最後まで戦場に立った者の記憶が、そこに刻まれた。


---


王宮は、戦場より静かだった。静かすぎた。


王都へ逃げ帰っていた貴族たちは、戦場の泥も血の匂いも知らない顔で震えていた。帝国軍が王都へ来なかったことに安堵し、すぐに、自分たちの名が責任の文書に残らない道を探し始めた。


責任を取らされたのは、魔導軍長官だった。


「長官の作戦判断に重大な瑕疵があった」


「王都騎士団の配置は長官の裁量であった」


「王宮は十分な権限を与えていた」


戦場で何が起きたかではなく、誰の責任にするかが先に決まっていた。


王宮で震えていた貴族たちは、自分たちが逃げたことを話題にしなかった。帝国の侵攻に泣きついた北の公爵家も、戦場でどれだけ兵が死んだかを問わなかった。ただ、魔導軍長官一人に、敗北の形を背負わせた。


長官は小物だった。


無能でもあった。


だが、すべてではない。


アルトゥールは、そのことを分かっていた。


彼はまだ王太子であり、王宮には王がいて、王妃を出す北の公爵家も、宰相派も、すでに玉座の周りへ根を張っていた。


---


その夜、アルトゥールはイレーネを呼んだ。


王宮の奥ではなく、戦場から戻った者たちのために用意された仮の控え室だった。まだ鎧を脱ぎきっていない兵が廊下を通り、遠くで治癒魔法の光が揺れていた。


イレーネもまた憔悴していた。鎧の肩には乾いた泥が残り、目元には眠らなかった者の影があった。青白磁だったはずのフルプレートは、乾いた血と煤で、元の色が分からないほど汚れていた。


「殿下」


「生きていてくれてよかった」


アルトゥールが最初に言ったのは、それだった。


イレーネは少しだけ目を伏せる。


「それはこちらの台詞です。殿下が逃げなかったから、兵は最後まで踏みとどまりました」


「踏みとどまらせたのは君だ。君の辺境伯軍がいなければ、あの中央の穴はもっと早く広がっていた」


「それでも、多くを失いました」


「ああ」


アルトゥールは頷いた。


しばらく沈黙が落ちる。


それから彼は、逃げるような前置きをせずに言った。


「イレーネ嬢。いや、イレーネ・ヴァルティア・オストヴァルト。俺の妃になってほしい」


イレーネは、瞬きをしなかった。


「妃は、もう決まっているはずです」


「決まっている。北の公爵家だ。帝国の侵攻に泣きつき、王宮で自分たちの責任を薄めることだけは上手い家だ」


「殿下」


「今日くらいは言わせてくれ」


アルトゥールは苦く笑った。


「だが、あれとは政略だ。愛情も何もない。あの家は王宮の安定には役に立つだろうが、国を守るには不安が残る。俺は、今回それを見た」


イレーネは黙っていた。


「君となら、国を守れる」


その言葉だけは、王太子の言葉ではなかった。


戦場で、自分の国の守りが崩れていくのを見た若い男の言葉だった。


「これは求婚ですか。任命ですか」


「両方だ」


「王族の求婚は、もっと繕いがあると思っていましたが」


「戦場で回りくどい言い方をする余裕を失った」


アルトゥールは、肩の外套を留めていた飾り具へ手をかけた。橙を主に、風と水の淡い色が重ねられたものだ。


「だが、これくらいの形は残しておきたい」


イレーネは、そこで初めて少しだけ息を吐いた。


笑ったのかもしれない。泣きかけたのかもしれない。


どちらにも見えた。


「側妃になっても、私は東部辺境のことを気にかけ続けますよ」


「大歓迎だ」


「北の公爵家は、私を嫌うでしょう」


「嫌わせておけ。国を守らぬ者に好かれて何になる」


「殿下は苦労します」


「そうだろうな」


イレーネは、膝を折った。


「ならば、お受けします。ですが、私は東部の者です。王宮の飾りにはなれません」


彼女は彩留めを受け取り、代わりに自分の髪から青白磁の髪飾りを外した。


「それでもよろしければ、これを」


アルトゥールは、差し出された髪飾りを両手で受け取った。


「君の誇りは受け取った。君を王宮の飾りにするつもりはない」


その顔に、ようやく少しだけ安堵が浮かぶ。


「共に国を守ろう、イレーネ」



同じ頃、アンブローズは王宮の庭園に面した回廊で、夜気に当たっていた。


眠れなかった。


灯りの落ちた庭園の向こうに、王宮魔導師たちの研究塔の明かりが見える。


「メリディア」


目を閉じると、戦場が戻る。


帝国兵の黒い波。崩れた中央。王都騎士団の背。折れかけた旗。メリディアの白い髪。碧のリボン。虹色に開いた晶瞳。微笑んだ顔。そして、


世界を満たした魔素の輝き。


それでも、あの瞬間だけは見えた。川筋から、大気から、焼けた麦畑から、死者の魔力がほどけた場所から、すべてがメリディアへ集まっていく光景を。


あれは美しかった。


恐ろしかった。


許されないものだった。


そして、間違いなく魔導師の極致だった。


「俺には、いつかまた、あれを見る日が来るのだろうか」


誰に聞かせるでもなく、アンブローズは呟いた。


答える者はいない。


ただ瞼の裏に、あの光だけが残っている。


---


数日後、王宮に戦没者報告が上がった。


紙は厚かった。兵の名。騎士の名。伝令の名。魔導師の名。身元の分からない者。遺体の戻らなかった者。渓谷の向こう側に消えた者。


最後に、王宮魔導師メリディアの名があった。


遺体なし。帰還なし。


戦死。


その横に、王命による追贈が書き込まれた。


王宮魔導師メリディアに、勲章名レーヴェリアを追贈する。


レーヴェリア。


国を救った者にのみ許される、魔導王家の名に近い響きだった。


平民に勲章名が与えられたのは、これが初めてだった。


だが、その報告書の別紙には、別の文字もあった。


禁忌。


人の魔素器を魔素の集積点とし、世界を形作るものを始まりの源へ還す魔法。大地も、魔力も、生命も、術式の内にあるものは魔素へほどかれる。発動者の消滅を避けられず、再現を試みることを禁ずる。


メリディアは、国を救った。同時に、人が踏み込んではならない場所を、世界に見せてしまった。


その名は、後に救国の英雄として語られる。


白虹のメリディア。


そして彼女の魔法は、人が扱うべきではない極致、自己の消滅を避けられない禁忌として、長く魔導国の歴史に残る。


焼糧戦役は、メリディアの始源回帰によって帝国軍の進軍が止まり、講和へ向かったことで終結する。


ただし、これは魔導国の完全勝利ではない。帝国は王都への進軍こそ止められたが、反転攻勢の初期に奪った魔導国側の土地を、講和条件でそのまま帝国領として認めさせている。魔導国は国を守ることには成功したが、失った土地を取り戻すことはできなかった。


また、講和時点の帝国は、始源回帰を放ったメリディアが消失したことを確実には把握していない。帝国がメリディアの喪失を知るのは、講和からしばらく後のことである。この情報は、帝国にとって大きな意味を持つ。焼糧戦役で帝国は多くの将校を失ったが、魔導国側の最大の切り札も同時に失われていたためである。


その後、帝国は失った戦力を立て直し、軍備を整えたうえで、八年後に再び魔導国へ侵攻する。この再侵攻で大きな戦果を上げるのが、焼糧戦役でメリディアの魔法を目撃したアンブローズである。

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