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焼け野の布陣

川の匂いは、もうしなかった。


かつては緩やかな水音が畑の畝を渡り、川向こうの帝国領にも同じような麦の穂が揺れていたという。だが今、魔導国王太子アルトゥール・マグナリス・レーベンブルグの前に広げられている地図には、焼失、撤退、陥落、未確認の赤い印ばかりが増えていた。


アルトゥールは、橙の稀色(まれいろ)を後ろで束ねていた。王族として十分に高い魔力を持つが、戦場を一人で押し返すような怪物ではない。そのことを彼自身が一番よく知っている顔だった。


天幕の外では、負傷兵を運ぶ担架が何度も通り過ぎている。


だが、天幕の中で一番よく響くのは、血も泥も見ていない者たちの声だった。


「ですから、王都に残る魔導師をすべて投入すべきなのです」


魔導軍長官は指で地図の一点を叩いた。指先には高価な指輪が三つ光っている。泥も血も付いていない手に防護の魔具だけが重そうだった。


「帝国兵など所詮は鈍色(にぶいろ)の群れ。こちらが稀色の魔導師を並べれば、押し返せます。そもそも今回の後退は、前線の士気に問題があったのであって」


魔導国で稀色と呼ばれるのは、薄く澄んだ属性色を持つ者である。属性色は髪に大きく出て、虹彩にも細かな光として宿る。魔力の質が高く、圧縮に向くとされ、名門貴族ほどその色を血の誇りとして掲げる。対して、濃い属性色を持つ鈍色は、魔導国ではしばしば見下しの響きを持った。


「士気ではありません」


美しくよく通る声が、天幕の空気を割った。


東部辺境伯の娘であり、精強な辺境軍を率いるイレーネ・ヴァルティア・オストヴァルトは、甲冑の肩に乾いた泥を付けたまま立っていた。髪は結い直す暇もなく、額には汗と煤が薄く残っている。だが背筋は伸びており、声に乱れはない。


青白磁の稀色は、普段ならきちんと結い上げられているのだろう。垂れ気味の目元には、いくつもの戦いをくぐった疲れが滲んでいる。本来なら柔らかな美人にも見える顔立ちだが、よく通る声と伸びた背筋が、その印象を許さない。白磁の器に刃を隠したような冷たさと優雅さが、白磁の剣花という異名を生んだのだろう。


「帝国軍は部隊を崩しません。三列が二列になっても、旗が落ちても、次の旗が前に出る。こちらの騎士団は、最初の中隊が崩れると後ろまで怯む。士気の問題ではなく、訓練と指揮系統の問題です」


魔導軍長官の隣にいた騎士団長が、丸い腹を揺らしてにやりとした。その視線は、イレーネの顔から甲冑の線へ、遠慮なく滑っている。


「辺境伯軍長殿は、ずいぶんと口が達者ですな。いや、白磁の剣花殿の声なら、いくらでも聞いていられますが」


「東部辺境伯軍は魔物相手に退きません」


イレーネは騎士団長を見た。視線だけで、相手の笑みごと一蹴する。


「ですから、味方の背を押して前へ進ませる訓練は受けておりません。王都騎士団のお守りを続けろというのなら、せめて彼らに撤退の合図くらい覚えさせてください」


天幕の隅で、若い将校が噴き出しかけた。


南部の武を支える公爵家の嫡男、アンブローズ・ヴァイオラント・アッシュボーンだった。大柄な体と、戦場の空気を力で押し返すような目つきは、すでに兵を率いる側の男のものだった。髪は男としては一般的な長さで、魔導貴族らしく長く伸ばしてはいない。戦場で邪魔になるものを、わざわざ身につける気はないという風貌だった。


「笑い事ではないぞ、アッシュボーン」


長官が睨む。


「笑ってはおりません。感心しておりました」


「何にだ」


「この期に及んで、なお兵ではなく魔導師の数を数えられる胆力に」


長官の眉が、わずかに動いた。


「長官閣下の魔導名は、たしか戦列を立て直した古の賢将にあやかったものと伺っております。私のヴァイオラントは、かつて南部の砦線を少ない兵で三日守り抜いた武人にあやかった名です。十歳でその名を授かった時、父から言われました。魔導名は飾りではない。家が子に背負わせる才と役割だと」


アンブローズは、そこでわざとらしく長官の胸元へ目をやった。


魔導名を子に与えられるのは、四代以上続く大魔導貴族の家系に限られる。平民の勲功では届かず、一代の成り上がりにも許されない、家門の年月そのものを背負う名だった。


だからこそ、アンブローズの言葉はただの嫌味では済まなかった。


「なにが言いたい」


「いえ。閣下ほどの方ならば、その名にふさわしいご采配をお示しくださるものと」


天幕の空気が凍った。


アルトゥールは、そこで初めて口を開いた。


「アンブローズ」


咎める声ではなかった。だが、それだけで十分だった。


アンブローズはわずかに顎を引く。イレーネも黙った。長官だけが、助け舟を得たと勘違いして胸を張る。


アルトゥールは地図を見た。


彼はまだ二十歳前後の王太子でしかない。王冠は遠く、決裁の印だけが先に重くなっていく。父王は王都にいる。宮廷の貴族たちは、それぞれの邸と財産と血筋を守ることで忙しい。


ここで何かを決めても、決めなくても、誰かが死ぬ。ならば。


「王都に残る魔導師の名簿を出せ」


長官の顔が明るくなった。


「では」


「研究職も後方勤務も含める。ただし、所属、専門、実戦経験の有無を全て書け。使い潰すためではない。どこに置けばまだ生きて使えるかを見るためだ」


長官の笑みが少し固まる。


「殿下、戦場でそこまで細かく選んでいる余裕は」


「余裕がないからこそだ」


アルトゥールは顔を上げた。


声を荒げてはいない。だが天幕の中の者は、王太子が疲れているのではなく、怒りを抑えているのだと気づいた。


「稀色を並べれば勝てるという考えで、ここまで押し込まれた。ならば次は、誰が何をできるかで決める。イレーネ殿、東部辺境伯軍には北側の退路を支えてもらいたい。王都騎士団を後ろに置く」


「彼らを前に出さない判断には賛成します」


皮肉ではなく、本気だった。


アルトゥールは小さく頷き、アンブローズを見る。


「アッシュボーン中隊は中央後方。王宮魔導師の受け入れと護衛を任せる」


「護衛ですか」


「戦場慣れしていない者が来る。逃げる者も、泣く者も、役に立つ前に倒れる者も出るだろう。だが、その中に必要な者がいるかもしれない」


アルトゥールは、長官の方をちらりと見て、アンブローズに向き直った。


「頼めるか、アンブローズ」


それ以上の説明はなかった。家名ではなく名で呼ばれただけで、十分だった。幼い頃から知る年下の従弟が、何を命じているのかは分かる。横槍から守れ、ということだ。


「承りました、殿下」


長官は不満そうだった。騎士団長はもっと不満そうだった。だが、イレーネは初めて、ほんのわずかに王太子を見る目を変えた。この王子は少なくとも、見えているものから逃げない。


「殿下」


イレーネが言った。


「このままなら、我々は負けます」


天幕の中で、誰かが息を呑んだ。


「ですが、まだ負け方は選べます。前線を裂かれて王都まで追われる負け方と、ここで踏みとどまり、講和の余地を残す負け方は違う」


アルトゥールは、焼け野の地図を見下ろした。


川筋の線はまだ青く引かれている。だが実際の川は、泥と灰で濁っている。


「ならば、止める」


それは号令というより、誓いに近かった。


「ここで止める」


---


その日の夕刻、帝国軍の前線本陣では、別の地図が広げられていた。


魔導国の地図よりも飾りが少ない。代わりに補給路、炊事場、馬の交代地点、負傷兵の後送路が細かく書き込まれている。


帝国前線指揮官は、焼けた農具を一本、天幕の端に置いていた。


この土地を最初に焼いたのは誰か。


魔導国の貴族が帝国側の麦畑へ手を出した時、彼はまだ後方の軍団付き将校だった。報告には、国境紛争と書かれていた。だが現地へ来れば、それが紛争などではないことはすぐに分かった。


畑は奪われ、用水路は壊され、村の倉は開けられていた。魔導国の貴族にとっては少し脅せば取れる土地でも、帝国にとっては冬を越すための命だった。


「第七隊、損耗三割。だが旗は残っています」


報告に来た将校の髪は、濃い土色の鈍色だった。


魔導国なら、後方の帳簿係にでも押し込められていたかもしれない。稀色を尊び、鈍色を劣るものとして扱う国から、逃げてきた魔法士やその子らは多い。帝国は、そうした者たちを兵にし、技師にし、将校にした。魔導国で鈍色と嗤われた者たちが、帝国では隊列を組み、用水路を直し、魔道具を組み、冬を越す畑を守っている。


その畑を、稀色至上主義の貴族たちが焼いた。


前線指揮官は、報告する将校の落ち着いた声を聞きながら、その事実をもう一度噛み締めた。


「第九隊は」


「隊長戦死。副長が引き継ぎ、隊列を再編済みです」


「よし」


前線指揮官は地図に駒を置いた。


「魔導国軍は強い。個々の魔法士はな。だが、強い者が勝手に前へ出て、守るべき者を置いていく。そこを崩せ」


天幕の入り口で、帝国の稀色魔法士が片膝をつき、指先を地面に触れさせていた。土へ薄く染み込ませた魔力が、魔導国軍の伝令の足音や護衛の巡回を拾っている。


「魔導国の魔法士が増えています」


「数は」


「伝令と護衛の動きだけでは読めません。ですが、王都から後方勤務の者まで引き出しているように見えます」


指揮官は眉を寄せる。


「追い詰めたか」


「はい。ですが、個々の火力は侮れません。農地を焼く程度なら、一人でやる者もいるでしょう」


天幕の奥に座っていた皇帝が、そこで笑った。


鎧は着ていない。だが、その場の誰よりも戦場を遠くまで見ている、将校の目をしていた。


「魔導国にも、まだ血を吐く余力はあるか」


「陛下、前線を下げますか」


前線指揮官が問う。


皇帝はしばらく地図を見ていた。


「下げん。だが、将校を一箇所に固めるな。魔導国の貴族は愚かだが、魔導そのものは愚かではない」


「承知しました」


「王都までは届くか」


「このままなら」


指揮官は答えた。


「ただし、敵がここで死ぬ気になれば、こちらも無事では済みません」


皇帝は焼けた農具を見た。


「無事で済む戦などない。始めたのは向こうだ。終わらせるのはこちらでよい」


---


その夜、魔導国の駐屯地には、王都から送られてきた魔導師たちが到着し始めていた。

泣いている者がいた。怒っている者もいた。自分がなぜここにいるのか分からない顔の者もいた。


アンブローズは、そういう顔を見分けるのがうまくなりつつあった。


勇敢な顔。

勇敢に見せている顔。

もう壊れかけている顔。


そして、何も見ていない顔。


「おい、そこの」


彼は駐屯地の外れで足を止めた。


白い髪の小柄な女が、地図も持たずに空を見ていた。王宮の魔導師服を着ているが、袖はどこか引っかけたのか少し破れている。戦場に来た者の顔ではない。だが逃げ出した者の顔でもなかった。


「貴様、所属は」


女は振り向いた。


瞳の奥で、薄い虹の光が揺れている。


「所属。ああ、所属か」


彼女は少し考えるように瞬いた。


「王宮魔導研究室、第三解析棟、魔素観測班。メリディアという」


アンブローズは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


アルトゥールの言葉を思い出す。

その中に、必要な者がいるかもしれない。


「戦場で研究棟を名乗るな。ここは前線駐屯地だ」


「そうか。ではここで合っているのだな」


メリディアは、安心したように微笑んだ。


「いや、助かったよ。ここがどこだかわかる者に会えて」


アンブローズは空を見上げた。夜だというのに、川筋の向こうが薄く明るい。


火の明かりだった。


帝国軍の炊事か、焼け残った納屋か、あるいはまだ消えていない畑の火か。


ここは、ただの麦畑だった。


今は焼け野になった、ただの麦畑だった。


※稀色、鈍色、魔導国と帝国について

この世界では、魔力の性質が髪や瞳の色に現れる。淡く澄んだ属性色を持つ者は稀色、濃い属性色を持つ者は鈍色と呼ばれる。


稀色は魔力の質が高く、魔法の圧縮や制御に優れるため、強力な魔導師を生みやすい。魔導国ではその性質が血筋や家格と結びつき、稀色こそ優れた魔導の証であるとする稀色至上主義が根付いている。結果として、鈍色は魔法を使えても軽んじられやすい。


一方、帝国には、魔導国の稀色至上主義や貴族主義を嫌って流れてきた者、その子孫が多く暮らしている。帝国では髪や瞳の色よりも、技術、兵站、隊列、働きが重視される。


両国の間には以前から小競り合いが続いていた。焼糧戦役は、帝国を侮った魔導国の国境貴族が、帝国側の農耕地へ手を出したことで始まった戦争である。

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