第八四話 ~近滋村の長い夜~
「はぁ……どうしよう……
お母さんにはああ言ったものの……」
朝を迎え、今は昼前。
アンズは宿を出て、近滋村の市場に繰り出していた。
そばにはコナツもついて来てくれている。
だが、年頃かつ親しい間柄の女と男で、楽しく逢引という空気は一切無い。
「なるべく希望あること言ってやりたいけど、多分どうにもならないだろ。
タケスエさんもいるんだし、俺達だけで可能な限りどうにかするしかねえよ」
「わかってるけどさぁ~……はぁ~……
私、お母さんに何かあったら耐えらんないよぅ……」
「そりゃ俺だって母さんを鬼どもに取られてるからな。
お前にあの時の俺と同じ想いをさせてたまるか。
全身全霊で力貸してやるから、その辺少しは頼りにしてくれていいからよ」
「うん、ありがと……
そう言って貰えるのほんと嬉しい……」
コナツの心強い言葉そのものは嬉しいのだが、アンズの不安はそう簡単に晴れるものではない。
それもこれも全部あのミノヤマのせいだ。
今宵、近滋村を襲撃すると宣言されてしまってからというものの、昨夜もなかなか眠りに付けなかったほど。
温泉で身体を綺麗にして、さっぱりとした頭で枕を高く眠れるはずだった昨夜も、おかげで台無しというものであった。
コナツには、昨夜のことも既に共有してある。
ミノヤマとイバラギに山奥で絡まれ、今宵の件について宣戦布告をされたことも。
同時にそんなことがあると知ってしまった以上、もはや二人はこの村を、今日のうちには離れられなくなった。
近滋村とて自衛力はあるのだが、ミノヤマやイバラギがけしかけてくるような勢力の強さ、大きさはあまりにも未知数である。
アンズがいなければ摂泉村が焼け野原になっていたであろう先月のことを思い出すだけでも、あいつらの招く災いがどれほどのものはか想像もつかない。
村を離れるのは近滋村を見捨てるのと同義だ。
山波国あるいは大奈国生まれで、けしてこの国、この村との縁が深くない二人とて、今宵滅ぼされるやもしれぬ村を見捨てることなど出来ない。
貴人のナルミ様には当然程度に腰が低くも、変わり者の出で立ちのアンズや流れ者風体のコナツにも、寝る前の時間に茶を淹れて持ってきてくれる宿の主人。
畑作業に精を出す百姓の姿は、アンズ達が故郷で見慣れた、今を必死に生きる皆様の姿と何ら変わらない。
賑わう市場には、高いだの安いだの一喜一憂する客と、売れた売れなかったで一喜一憂もせず気持ちを切り替える忙しい商人に溢れている。
歩き疲れたとわがままを言う我が子に苦言を呈しながらも、抱きかかえて歩く母は、しょうがない子だと内心では可愛くてたまらない我が子に綻んだ顔を隠す。
身なりのいい太っちょの父が肩車した愛娘に、次はあっちあっちと行き先を翻弄されながらも、たまの休日を幸せそうに過ごす姿がある。
どこだって一緒だ。山波村も、近滋村も、かつての和良村でさえ。
そこには今のささやかな幸せを噛みしめながら、そんな日々を失うこともまた常に恐れながら、必死に今を生きる人々でいっぱいなのだ。
それを知る二人が、縁の深くない他国の村だからと言って、この人々の死や涙に満ちた未来の可能性を知りながら、見捨てて去れようはずがない。
迷わず自分のことだけ大事にするようになったら人間おしまいだ。
世の中そんな奴ばかりになれば、どんなに栄えた村はおろか、京や幕府すら十年はもつまい。
夜までこの村に滞在し、ミノヤマがけしかけるか率いるかする勢力を迎え撃つことは、アンズもコナツもわざわざ確かめ合ってなどいない。
自分は迷わずそうするし、この親友はそうするだろうとも、お互いはなから知っているのだから
だから二人の心配事は、自分達が戦うことそのものには一切無い。
生き延びられるかどうかの不安が無いと言えば嘘になるが、そんなものはなるようにしかならないのだ。何度も繰り返してきたことである。
アンズが心底恐れるのは、こんな時に同じ地に、この世で誰よりも喪いたくない母が居合わせていることだ。
「ナルミ様って、実際どれぐらい強いんだ?」
「いや、結構やるよ?
陰陽術の使い手としては、たまに京まで赴いて指南役やってたぐらい。
薙刀も使える。本職の武士様には流石に劣るだろうけど、若者相手なら間合いにも入れずに圧倒するって聞いたことある。
護身術も嗜んでるから、徒手でもそんじょそこらの暴漢には負けない。
あとお酒と口喧嘩にもすこぶる強い」
「そんで詩が詠めて舞踊も一流、と。
お前の母さんえげつねえな」
「なんか改めて羅列すると、普段は忘れてたけど凄い人だなぁって思うよ。
そんな人に育てられると私みたいな奴が出来るのもわかるでしょ」
「何それどういう意味?」
「わかんないけど」
「わかんねーのかよ、どういう意図で聞いてんだ」
こんなナルミが育てたアンズがどんな奴に育てばわかるのかは想像に任せるとして、重要なのはナルミが戦う力を持つ人物だということ。
だからアンズは現時点、今宵ミノヤマが近滋村を襲撃するという情報を、未だナルミに話していない。
それを知ったらあのお母さんは、確実に戦列に並ぼうとする。
大きな村の長ゆえに、万一があってはならない身でなのだから、だから我が身を危険に晒すべきでないという説得は、ナルミに対して何の効果も及ぼすまい。
母を連れて村を去ることを選ばず、戦うことを選んだアンズの精神性が何よりの証拠である。そんなアンズを育てた人物なのだから。
「でも黙っておいて宿に押し込めといても多分どうにもなんねえぞ。
どうせ外が騒ぎになったら、お前の母さんなら絶対様子を見に来るだろ。
なんせお前の母さんなんだろ」
「うん、それもわかってる……
はぁ……やっぱりそうなんだよねぇ……」
彼女自身もはっきり口に出していたが、アンズはナルミに万が一のことなどあろうものなら絶対に耐えられない。想像するだけで泣きそう。
私とコナツで何とかしてみせるから、お母さんは宿で待っていてって言いたい。戦列には並ばないで欲しい。
でも、無理だろう。何年も一緒にいたお母さんが、そんな言うこと聞いてくれるなんて絶対無い。
ナルミの方こそ、あなたに万一あるかもしれない時にそばにいて、じっとしていられるものですかとはっきり言ってくるだろう。
もはや悩んでも仕方ない程、ミノヤマが今宵この村を襲撃する時点で、ナルミが傷つく可能性そのものは避けようのないことなのだ。
待ち受ける戦いを前に、普段以上にアンズが神経質になるのも当然である。
「事情を話して身構えて貰った方がまだ良いんじゃねえかなぁ。
知らずにいきなりそんな状況になったら、ナルミ様だって想定に不足が出るかもしれないだろ。
タケスエさんもいるんだし、きちんと協力して迎え撃つ想定でいた方が、より良い結果になるような気がするぞ」
「……そう言われると、そりゃそうだよねって気がしてきちゃう。
っていうか、それしかないんだよなぁ……冷静に考えればさ」
「至って普通で妥当な発想だぞ。
その普通のことにすら思い至れないぐらい不安なんだろ。
だから俺もついて来て話聞いてんだから」
「やだコナツ、さっきから男前に見える。
コナツのくせに」
「なんでお前の中で俺の評価そんなに低いんだ?
俺そんなお前にだらしないとこ見せてきた記憶無いぞ?
身長か? おん?」
「そうかもしれない。
猫背で歩いてる私と目線の高さ一緒だもん」
「今だけは大目に見てやるけど、普段だったらつねってんぞ」
ど失礼なこと言ってくるアンズだが、顔色があまり良くないぐらいには、母の不幸を想像して気持ちが沈んでいる彼女である。
コナツも今だけは苦笑いしながら色々なことを許してやることにする。
母を喪った悲しみと苦しみを経験として知る身をして、母を喪うかもしれない不安に駆られるアンズには、なんだかどうしても甘くなってしまうのだ。
「……うん、わかった。
ありがとコナツ、なんか上手い具合に覚悟決められたかも」
「こら、決まってねえだろ。
今から宿に帰るまでに決めていく構えだろ」
「いたたた!?
な、なんでわかるの!?」
「お前ほんとわかりやしーからな。
目元が元気になってねえんだよ」
「ぐう~、最近よく一緒にいるとはいえ、付き合いはそんなに長くないはずなのにぃ……」
そこまで痛くはない程度に耳をつまんで引っ張られ、アンズは膨れっ面でコナツを睨む。
それで、少しは普段の彼女らしい顔になったか。
こいつ本当に、じゃじゃ馬アンズの手綱を上手く握る腕の立つ友人だなぁ、というのは、このやり取りを微笑ましく眺めるテンジン様の所感である。
同い年の異性とここまで親密になることが今まで無かったアンズを知る身として、つくづく愛娘のこの良縁たるや、テンジンも嬉しく感じられるものだ。
「やることは普段と変わんねえさ。
きちんと俺達の手で向かい来る奴らを殲滅して、そいつらの牙に晒される人達を守り抜く。そんだけだろ。
ましてナルミ様自身が戦えて、それを守ってくれるタケスエさんもいてくれれば、なんかかんだで適当にどうにかなるだろ」
「適当に、って。
まあでもそう言われれば確かにそうかも。
コナツは知らないかもしれないけど、タケスエさんだって適当に戦っても山賊十人を一人で始末できるぐらい強い人だしさ」
「始末、って。
お前けっこう上品じゃない言葉遣いを普通にするよな」
「う……そ、そうだね、今のはよくないね……
私は山賊とか、簒奪者に対しては無自覚に言葉遣いが乱暴だなぁ」
「知ってる知ってる、よっぽど嫌いなんだよな」
「語り明かせるぐらい嫌いだよ。
自分のことしか……んっ?」
いくらか気が楽になり、雑談の空気になっていき始めたその時である。
アンズが歩く数歩先の地面に、さく、と矢のような細い枝が突き刺さった。
本当に矢のように、放物線を描いてきた末に地面に斜めに刺さっている。
どこから飛んできたんだ、と、地面に刺さった枝の尻の方向を見ると、民家の間からこそーっと顔を出す女性の姿が見えた。
そいつはコナツと目が合うや否や、やばいとばかりに一目散に逃げていった。すごく速い足。
イバラギである。コナツとは関わり合いになりたくないらしい。
「こんな矢文ある?」
「あいつもいまいちよくわかんねぇ鬼だな……」
「え? あいつ"も"、って?」
「ああ、今のは気にしなくていい」
地面に刺さった枝には紙が結び付けられていた。
アンズが言うように矢文の趣である。
お喋りしながら紙を枝からほどき、開いてみればちゃんと文字も書いてある。やはり矢文であった。
「これ信用できるものだと思う?」
「普通は無視していいけどな。
あんまり意識し過ぎねえ程度で丁度いいんじゃね」
内容は簡潔。
"今宵の襲撃は村の東の入り口から屍人の集団で"とあった。
さて、敵方からのわざわざの情報提供。どこまで鵜呑みにしてよいか。
「ま、いいや。
信じようが信じまいが上手く立ち回ればいいだけだよね」
「前向きになってきたな。いい傾向じゃね」
「そだね、らしくなかった。
よーし、今日は頑張るぞ!」
おおよそ矢文は無視されそうなアンズの言動である。
果たして、わざわざ文を寄越したイバラギの真意は届くことやら。
仮にだが、翻弄するのが目的である文であるとすれば、今のアンズには通用していなさそう。
コナツと話せたおかげもあって、どうやら彼女も心持ちを立て直せたようであり、今の前向き思考のアンズはきっと、多少の策では揺さぶられても心乱すまい。
今宵までにアンズの憂いが晴れねば、どうにかしてやらねばなと思っていたテンジンにとっても、この好転は好ましい。
主神に頼らなくとも、彼女を支えてくれる人がそばにいて、しかも本当によく立ち直らせてくれるものではないか。
巫女を導く神としての御言葉を手向ける機会を失うことは、テンジンにとっては何よりのことであり、己の仕事が減れば減るほど、それは神としても望ましい。
現世を生きる人の子は、人の子同士で支え合うのが一番なのだから。
やはり、コナツは捨てがたい。
アンズの幸せを誰より願う、テンジン様の所感である。
「調子はどうだ?」
「うるせえよ、大物ぶって話しかけてくるんじゃねえ」
陽はゆっくりと西へと傾き始め、そろそろ空を赤らめ始めようという頃合い。
上天からの強い夏の陽が、西日に偏り光が弱まる頃合いになれば、鬱蒼とした山の中は日中でもやや暗くなる。
そんな山中、太い樹木の根元で不遜に座った黒い鬼に、全身黒装束の男が歩み寄って話しかけている一幕だ。
「その強気ぶりは頼もしいな。
以前、あいつらの強さに手も足も出なかった鬼道丸の姿は、もはや過去のものとなったことがよくわかる」
「……胸糞悪いことをわざわざ蒸し返してんじゃねえぞ。
この力で、お前を八つ裂きにしてやっても構わねえんだぞ」
相も変わらず飄々とした態度のミノヤマを、立たず見上げて睨むのは、根無し草の黒鬼キドウマル。
かつて屍人を率いてイナリ姫を襲撃した、コナツと同じ程度の体格の鬼である。
その襲撃はアンズとコナツに退けられ、さらにはその後、夜の山中でミノヤマ率いる軍勢に混じり、アンズの命を奪おうともした凶暴な鬼。
そして、その夜襲の際にもコナツの横槍を食らうはおろか、圧倒されたあの日の屈辱を今も忘れぬ復讐鬼だ。
「その怒りと憎しみは、あの小娘と小僧に向けて惜しみなく発揮してやれ。
私のことが気に食わぬのは構わんが、奴らのことを思い出せば、私のことなどどうでもよくはなろう?」
「…………思い返させるのか?」
「わかったわかった、悪かったよ。
私も、今のお前に牙を向けられては堪らん。
駒を揃えてやったはたらきに免じて許してはくれんか」
かつてもそうであったが、ミノヤマはこのキドウマルを子供扱いするかのように、接する態度もぞんざいだ。
イバラギに対しては勿論、敵対者であるアンズに対してすら思いの外雑な態度を取らぬ彼をして、ここまでいい加減な付き合いをするのがキドウマル。
よほど見下している。ミノヤマが揃えた"駒"というのは、きっとその内心ではキドウマルそのものも含んでいそうだ。
「今のお前ならばあいつらにも負けはしまい。
そして奴らを屠った暁には、大和龍山を攻め落とさんとする輩を葬った功を以って、あのイバラギの傍仕えとなる"かもしれぬ"話もあるのだろう?
くくっ、夢が目前というのは羨ましいものだ」
「へっ、そうだそうだ。
お前は俺をそうして喜ばせてりゃいいんだよ。
そうすりゃ敵には回さねえでいてやるからよ」
「っ、く……ああ、光栄だ」
だってこいつ、子供より扱いやすいのだもの。時々噴き出しそうになる。
気が短いくせにおだてには弱い。三歳児か。むしろ癇癪を起こしたら何を言っても無駄な幼児の方が扱いづらいぐらいだ。
他者を翻弄し操る話術や神算鬼謀に秀でたミノヤマをして、培ってきたそれをふんだんに活かす必要も無い。
敵がみんなこれぐらい馬鹿だったらどんなに楽だろうかと、現実を落胆視すらさせてくれるのが多少迷惑に感じる程度である。
「功を為したお前が立場を得た暁には、私もお前に世話になるやもな。
その時には、私も相応の返礼と深き敬意を以って、お前に尽くさせて貰う」
「はっ、今のうちから媚びて意地汚ぇ野郎だ。
そうそう思い通りに事が運ぶと思うんじゃねえぞ」
「むぅ……そうか……」
せいぜい、下手に出る態度をしばしば挟む程度で全て片付くのだ。
ありもしない出世話に浮かれているこいつをおだてるのは本当に楽。一番苦労するのは、笑いそうになるのを耐えること。
普段から顔を隠すために用いているこの覆面が、恐らく今日は過去一番役に立っている。
「アンズと、コナツだったな……
あいつらに、明日の朝日は拝ませねえ……!」
「……よろしく頼むぞ」
急にミノヤマは白けてきた。
キドウマルがほくそ笑み、あの二人を葬りきったことを想像する姿を見たら見たで、それもなんだか面白くない。
なんだかんだでミノヤマは、敵対陣営でありながらあの二人を買っているのだ。
だから、見下している相手が想像の世界の中限りであったとて、それを踏み躙っている顔を見るのは虫唾が走る。
確かにあいつらがいなくなった方が助かるのは確かだが、それを為すのがこいつだとすれば違う、という愛憎感情というのもミノヤマには実在するようで。
無性にむかついてきたミノヤマだが、覆面の下では冷静な表情を取り戻す。
冷静に考えればわかる。こいつにそんなことが成し遂げられるはずはないのだから。
浮かれたこいつを、アンズとコナツは涼しい顔で始末してくれるはずだ。それでいい。
「さて、そろそろ行くか。
屍人の歩みは遅いぞ。そろそろ参らねばな」
「おう。
あいつらに、目にもの見せてやる……!」
アンズやコナツを葬り去る未来を目前に目がぎらつくキドウマルと、キドウマルが転んだ後の展開がどう転ぶばかりを気にしているミノヤマ。
同陣営にして、まったく通じ合っておらぬ胸中だ。
イバラギはどちらの側なのだろうか。きっと、語るべくもあるまい。
いつの世も知恵が足らぬものは、悪知恵が利く者の食い物にされるのだ。
悪党の世界では殊更そう。知性の弱者は生き残ることすら叶わない。
なるほど、悪の蔓延らぬ世界を正しく志す者達とは尊ばれるべきというものだ。
キドウマルを見ればわかるように、自分が充分賢いと思っている小者の悪党こそ、何よりも哀れだとミノヤマは心から思うのだった。
雨季にして晴天の今宵は、満月が地上を照らしてくれる頃合いということも相まって、夜の中では最も明るい部類に入る。
それでもやはり、わざわざ外に火を焚かぬ村は、暗い闇に閉ざされる。
灯り無き夜の暗さは、山奥も人里も変わらない。
満点の星が煌めく空模様そのものは美しいが、それを美しく感じられるのもまた、少し離れた木々も真っ黒に見える、地上の暗さの言い得ぬ怖き闇所以だろう。
夜は等しく人々に、本能的な恐怖心を呼び起こす。酒場で夜まで飲み明かす者達とて、帰り道は酔いに心を委ねねば帰り道も不安になる。
酒場に通って夜遊びする女はごく稀だ。それが出来るほど、未だ現世の人里は光には満たされていない。
アンズやコナツのような、夜に平気で外を歩き、あまつさえこの暗さで迫り得る敵を迎え撃つ意志を持てる者など、根本的に極僅かである。
村の東出口のそばに、少人数ながらも陣を構えて、空を見上げるコナツが手を振る。
上空にて雲に乗るアンズは、先端にかすかな稲光を放つ撥を振り、地上から見れば蛍火の軌道で×の字を描く。
まだ敵の姿は見えない、という合図である。
地上から見れば光を放つ雷神太鼓を背負うアンズの位置はよく見えるが、灯り無き地上のコナツの所作を空からアンズが視認するのは本来少し難しい。
二人ともそうだが、夜の戦いに慣れてすっかり夜目が利くようになっている模様。
いかにこの時代の人々とて誰しもが持つわけではない眼であり、何年も夜を駆けてきた二人が培ってきたものの一つである。
「すっかり頼もしくなったわ、あの子も。
コナツくんにとってもそう?」
「めちゃくちゃ頼りになりますよ。
一人でもどうにでも出来る自信はありますけど、やっぱりあいつがいると安心感が違うんで」
季節柄、蛙が騒がしくて静かではない夜ではあるが、それでも普段から戦場に身を置くコナツらのような者でなければ、やはりこの暗き夜は不安になるものだ。
そんなコナツのそばには、羽織を纏って扇を手にしたナルミも立っている。
彼女もこの夜闇の中で、不安な表情を浮かべてなどいない。
村長としての政務の日々、決して荒事とはかけ離れた日常を送る女性の身でありながら、夜を恐れぬ堂とした態度はコナツも恐れ入る。
流石アンズの母さんだなとしか言えない。
「それにしても、あれだけの説明ですんなり信じてくれるんですね。
こっちも言えないこと沢山あるって顔での説明だったのに」
「独り立ちしようと努めてきた子って、親を頼らず自分で何でもしようとするじゃない。
そんなあの子が、私を頼ってくれているんですもの。
信じることに理由はいらないわ」
アンズは肚を決め、ナルミに此度の事情を概ね話した。
そうは言っても、すべてを明け透けに話したわけではない。
鬼のイバラギやら正体不明のミノヤマとの接触があり、そこから得られた情報がどうこうだの、そうした細かい説明は伏せてある。
それを話してさらに追及されても、アンズ達もイバラギらの真意はわからぬのだから、仕舞いには不明だらけの話になってしまう。
全部は説明できないけど、今日は村の東の方から妖の襲撃があるかもしれないから、私とコナツはそれを迎え撃ちたい。お母さんも手伝ってくれないかな。
ナルミに話したのは概ねそんなところである。話せないことも沢山あるけど、というのは態度と顔色でだいたい示してだ。
こんな話され方をしたナルミの側としては、問い質したいことも多々あったはずである。少しでも多くの情報が欲しい内容であるはずだ。
それでもアンズを信じて腰を上げ、ここに参じてくれたのだから、この母あってのあのアンズとは言い得て妙であろう。
あのアンズが、戦力として数えるに値するとまで評するナルミがいてくれるのは、コナツとしても頼もしい。
「あいつ、すごく気を揉んでましたよ。
お母さんに何かあったら耐えられないって」
「ええ、わかってる。あの子は、そういう子だから。
元々私は前に出る方ではないけど、危ない橋は渡れないわね。
失敗したら、あの子を悲しませてしまう自覚もあるわ」
「基本、危ない目には遭わせませんけどね。
雑魚が何百匹で迫ろうとも、そっちまで通す気はないですから」
「ふふ、ほんと頼もしいんだから。
あの子がこんなに頼れる相棒に恵まれてるだなんて、私も嬉しいわ」
ナルミに万一のことあらば耐えられぬアンズには、コナツと二人だけで戦い抜くという選択肢もあっただろう。
だが、そもそもアンズは静かに戦えない。激戦になればなるほど、晴天の今宵に稲妻の音を何度も響かせることになる。
お母さんがその性格上、そんな音を耳にすれば宿を飛び出し、音がする方に駆けつけてくるのは知れている。
いつ母が戦場近くまで参じてきて、その時になってから母を守るために対応するよりは、最初からいてくれた方がいい。
即時他には対応できぬほどの死闘の中で、いきなり母を守るという至上命題が降りかかることを想定すると、どうしてもそうした結論になる。
敵の大将格があのミノヤマである以上、想定を超えた厳しい戦いになることは想定必須であり、戦前の不確定要素は極力一掃すべきである。
「私は大丈夫よ。タケスエもそばにいてくれるんだから。
私だって身に降りかかる脅威を打ち払う力量には自信があるし、あなた達は振り返らずに前に出てくれても問題ないわ。
タケスエですら私を守り切れないほどの敵が現れるのであれば、どのみちどうしようもないでしょうしね」
「言われてみればそうっすね」
この暗い夜の中で、ナルミのそばに立っている武者タケスエは、あまり存在感を醸し出していない。
ずっと無言でじっとしているからどうにも影が薄い。
戦前の構えとして今は意識を研ぎ澄ませているのか、外に発するものが少ないというのもあろう。
元より名高き侍の一人ということを知るのもあり、こんな人こそ、いざとなれば頼もしいこともコナツは承知である。
何よりもナルミが、タケスエがいて駄目ならどうしようもない、とまで言い切るほど彼の強さを信頼していることから、コナツも信頼するには充分だ。
「不謹慎だけどなんかちょっと楽しみになってきたな。
ナルミ様やタケスエさんの強さ、どれほどのものか興味出てきちゃった」
「ふふふ、びっくりさせちゃうかも?
私これでも、京の陰陽師の皆様の師なんだから。
タケスエも、かつてはミツサダに並んで京では武の指導者に回っていた程だし、人生の先輩として格好いいとこたまには見せなきゃね」
不謹慎上等で、コナツも軽い口を叩いておく。
共に戦列に並んだことのない味方に、あなた達を頼りにしていると口にするのもまた、いざという時の連携を強めるという点では重要だ。
信頼は不可欠だ。それが無くては複数人で戦う強みを、頭数以上のものには決して高め得ない。
たった独りで多くの戦場を駆けてきた割に、あるいはだからこそなのか、コナツは誰かと手を結んで戦う時、何が最も重要なのかもよくわかっている。
「コナツ~」
「お、来た来た。
なんだあの抜けた声、これからおっ始まるっつーのにな」
「あははっ、あの子もすっかり大物になっちゃったわね」
空からコナツを呼ぶアンズの声。
撥をくるくると回し、大きな〇を描く素振りは、高所から敵の接近を感じ取った合図だ。
結局イバラギに寄越された文を信じることを選びつつも、ここ以外の村の入り口も空から監視していたアンズであるが、やはり敵は東から攻め来る模様。
別動隊があった場合は話も変わるが、今のところイバラギが寄越した情報に嘘は無かったようだ。
そして間もなく、慌てた足で数人の若者がコナツとナルミ、タケスエの元へ駆けつけてくる。
東からだ。目の当たりにしてきた者達の表情は、焦りと恐怖に満ちている。
「本当に来ました……!
屍人の群れです!」
「は~? なんだそれ、思ったより雑魚くせえな。
こりゃなんかそれ以上のもんがありそうだな」
「屍人って雑魚かしら?」
「もっと怖いもんいくらでもいるんで」
「確かにね」
村の夜警を司る者達をして、屍人の軍勢は怪物集団であり恐怖の対象でしかなく、雑魚と切り捨てるコナツに驚く一般感性もまた妥当。
これが普通なのだが、ナルミもその表情に動揺の色ひとつ無いことを見ると、彼女も屍人程度ならどうということもないと内心では思っていそう。
なんならコナツの言葉に頷いて、そんな尖兵の後ろに控えるさらなる大物がいるなら、それこそが真の警戒対象とまで思い至っているのだろう。
なんだ、アンズとそばで一緒に戦うのと変わらねえや。
多くを語らずとも同じ危機感と意識を容易に共有できる者との共闘戦線は、アンズと共に戦う中で何度も経験したが、随分と気が軽くなる。
タケスエがそばにいることを差し引いても、この人は俺が護るまでもなくある程度は大丈夫なんだろうな、という信頼はコナツもはっきりと得られた。
戦いやすそうだ。強い味方は、不要な懸念を態度だけで払拭してくれる。
「皆さんは念のため、周囲にお住まいの方を避難させて下さいね。
ここは、私達が応じてみせますので」
「……わ、わかりました」
ナルミの指示に、警邏を務める数人の若者は、何一つ口を挟まずあっさり従った。
屍人の群れを、この三人と空に浮くあの若き巫女の四人だけで?
ましてその強さを身近に知る地元民でもなく、余所の国からお越しの親しみ深くない、その力量もよく知らぬ者達なのだ。
大丈夫なのですか、という一言ぐらいは挟みたくなるものだろう。
彼らが一言の口も挟めずに、すべてをこの余所者に任せることを選んだ、選んでしまった根拠はナルミのすぐ隣にあった。
決して表情一つ変えてもおらず、一言も発していない、今のところは刀も抜いていない、闇の中で不動に佇む武者。
それは、敵の接近を意識して、じわりじわりとその身から発する覇気は、一般人に言葉一つ無く、言い知れぬ凄味を伝えきるに値するほど凄まじい。
コナツなど、振り返りもせずに後ろでその人物が発し始めた覇気に、ああこりゃすげぇわと小さく笑えてしまったほどだもの。
味方じゃなかったらこの人に背後なんて絶対見せられないと思う。味方とあらば、これほどのものが後ろにいるとあれば死ぬほど頼もしい。
「さ~て、始めましょうか。
タケスエさん、よろしくお願いします。
基本、あまりそちらに手はかけさせないつもりですけどね」
「うむ、頼んだぞ。
ただし、多少は楽を覚えて流してくれても構わぬからな。
長引く想定というものも必要だ」
「ええ、よろしく頼んます」
前に出てナルミとタケスエから離れ、前線として構えるコナツに、タケスエもまたありがたい箴言をもたらしてくれる。
仮に長期戦となれば体力の消耗は最小限に抑えた方がいい。
こちらは何があっても万一のことは起こさぬから、多少の敵兵をこちらに手を抜いて流して、体力の温存を試みてくれてもよい、ということ。
人数ぶんだけ労力を分散するのもまた多人数で戦う時の強みだ。コナツとアンズだけで頑張る必要は無い。
ある意味で贅沢な悩みが出来たなぁと、これだけ傑物を揃えた四人体制などそう多くない経験に、コナツも負ける気がしない昂りを得る。
そして、闇の向こう側から見え始めた無数の影。
警邏の者達には無理に戦う必要なく、敵襲あれば速やかに知らせてくれればいいと伝えたとおり、敵の侵入は極めて容易に果たされている。
一切の障害物無く村に足を踏み入れられた、はじめから死傷者相当の傷だらけにして無傷の尖兵らが、低い唸り声を上げてこちらへ向かってくる。
夜の畑から響き渡る蛙の合唱と併せて聞き、なんと不快で趣の一つも無い不協和音であろうか。
「アンズ! やるぞ!
跡形も無く一掃してやんなきゃな!」
「任せとけー!!
お母さんには指一本触れさせないんだから!!」
最後に言葉を交わし合うのは、やはり互いを一番の相棒と認め合う二人。
コナツらの姿を確かめて、一気に足を速めて襲い掛かってくる屍人の群れを前に、怯むことはおろかいっそうの闘志を燃やすばかりだ。
怖いものなど一つも無い。恐れるものがあるとすれば、この軍勢を破った末に何が待ち受けているかのみ。
短くも長い夜の始まりだ。
近滋村を襲う悪しき者達を挫き、守るべきものを守るための戦いの火蓋が切って落とされた。




