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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第肆章  近滋国で物見遊山
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第八二話   ~ぜったい湯るさん~



「お前、ただの黒鬼じゃねえな」


「…………」


 怪しい影を追って、村を飛び出し、野を駆け抜けてきたコナツ。

 思った以上に相手は逃げ足が速く、全速力で追っても距離がなかなか縮まらず、しかも相手が疲れて減速する気配も無し。

 追う相手の向こう側、暗い遠景に森の影が見えてくる頃には、コナツも若干の焦りを覚えたものだ。

 近滋村にて自分を監視するかのように遠巻きに眺めていた、いかにも怪しいこいつを取り逃がしたくはない。

 森に逃げ込まれると恐らく見失う。そんな煮え切らない展開は御免被る。


 コナツは風を生み出して纏い、それに背を押してもらうことで加速して、距離を詰めることすら視野に入れていた。

 ただ、森が近付いてきたところで向こうが駆けながら、ちらりと振り返った後に少しずつ足を遅め始めたのを見受け、強行的な風の加速は取りやめた。

 逃げ切ろうとする意志が無く見えたのだ。どこかで立ち止まって対峙するつもりか。

 自分自身が風の如き速さで駆けるコナツは、減速しつつ少しずつ距離を詰めることを許し始めた相手に、脚を緩めることなく近付いていく。


 そして、今に至っている。

 木々の群がる暗い森を背後に、コナツに向き直って真正面から見据えてくる存在は、見立てのとおり人ではなかった。

 大人ほどの背丈、しかし今までに見てきたどんな人間よりも逞しく、見るからに岩のように固い筋肉で全身を包んだ人型の怪物。

 動かずにいれば闇に紛れてしまいそうなほど、全身真っ黒の黒鬼だ。

 腰巻一枚のみを身に纏う、筋骨隆々のその姿は、コナツがこれまでに幾度となく葬ってきた黒鬼のそれと同じ特徴には違いない。


「只者ではないと感じるか?」


「貫録が雑魚の黒鬼のそれじゃねえ。

 手を焼かされた大和龍山の赤鬼よりも、お前の方が少し上にすら見える」


「…………そうか。

 ふふ、そうか、そうか。俺もまだ捨てたものではないな」


 静かな野の夜、吹き抜ける風が草木を揺らす音さえよく聞こえる月空の下、コナツと黒鬼は静かに語らう。

 特筆すべきは、憎き鬼を前にしながら、コナツが殊の外落ち着いていることだ。

 冷静になるべき状況であると、意識を持とうとするコナツであるが、強い意識を持たずとも、自分がこれほど冷静なことにコナツも違和感を覚えている。


 自覚はあるのだ。俺は、鬼を前にすると我を忘れやすい気性だと。

 そんな自分が、鬼を前にして、必要程度の警戒心のみ胸に抱き、ここまで落ち着いていられることは、今までの自分を顧みて異例たる自覚も今ある。


「お前、性格の悪そうな青鬼と一緒にいた奴だろ。

 色鬼の傍仕えってだけでも、黒鬼にしちゃ異質の待遇だ」

「覚えていてくれたか。

 今一度名乗らせて貰おうか。俺は、伊吹獣士(いぶきじゅうし)という。

 俺のことを知るのであればそう覚えてくれ」


 その相貌まで真っ黒で、表情の読み取りづらい鬼でありながら、その表情に敵意や害意が無いことが不思議とコナツにはわかる。

 同時にその声と、その全身から漂う、ただの中鬼とは思えぬほどの強者の気質から、一度面識のあった個体だとも徐々に思い出せる。

 あの時一度名乗った身にありながら、黒鬼イブキはコナツに会釈程度の頭を下げ、今一度その名を口にする。

 まるで、敢えて強調するかのように、御挨拶の仕草すら交えてだ。


 相手が鬼だと知ったその瞬間、すぐにでも一戦が始まりかねない一触即発の局面であると、心を構えていたコナツ。

 そうはならなかったのだ。コナツとイブキは、一定の距離を保ったまま、構え合いもせずに言葉だけを交わしていた。











「はぁ~……いい湯だわぁ。

 そっち行っていい?」

「駄目ですよ、触ったりしたらびりびりにしますよ。

 女同士でもみだりに触れ合うのは駄目です」

「あなた可愛いし体つきも立派だから、見てるだけでぎゅっとしたくなっちゃうの。

 ちょっとぐらい駄目? 絞め殺したりなんてしないわよ?」

「駄目ですってば、しっしっ」


 同じ頃、山の麓でコナツとイブキが睨み合うような図式にある中、山奥の温泉には和やかな一触即発の空気が漂っていた。

 肩まで湯に浸かって女相手でも裸体を隠すアンズと、胸から上をお湯の上から出して、手をわきわきさせてアンズに近付きたがるイバラギ。

 近付かれそうになると、アンズも湯の中でお尻を後退させ、イバラギとの距離を三歩ぶん以上必ず保つ。


 敵意が無いこともわかるし、触らせたとしても命を取られることなどないことは、不思議と信頼できる相手である。

 鬼はその握力だけで骨を砕けるし、それに全力で抱き締められれば人の背骨だって折れる。接触すること自体が危険な存在だ。

 それを踏まえた上で、今のアンズがイバラギとの接触を拒む理由は、身を守るためではなく操を守る意識によるものでしかない。

 テンジン様の言質あってのこととはいえ、明確に敵であるこの緑鬼に対し、その程度の認識でいる自覚もアンズにはある。


 私、このひとあまり嫌いじゃない。

 この人懐っこい表情と声に、絆され始めてる気がする。


「……だいたい私の身体つきが立派って、それちょっとした嫌味ですよね」

「ん? もしかして羨ましい?

 あなたも結構ちゃんと大きいし、なんならでっかく膨らむばかりで品の無い私のより、綺麗な形で羨ましいなって思うのだけど」

「なぁにが羨ましいんだか……

 そんな色気いっぱいの身体しておきながら……」


 お湯の中で背中を丸めて、濁った湯の中で何をしてるか相手に見えぬよう、自分の胸の形をぽんぽんと手で確かめるアンズ。

 ばればれの挙動だが、そんなことをしていると具体的に目の当たりにされるのも恥ずかしいので。

 そしてアンズはどこか恨めしそうに、そんな大きなものを持ってるくせに何が羨ましいんだと、胸を張って堂々と立つイバラギを上目遣いで睨んでいる。

 女として嫉妬しながらも、性格がいいから、いいなぁ、いいなぁと子供のように羨む目の色の方が濃く、イバラギから見て可愛げのある目付きである。


 戦場で睨み合えば気魄をも発するアンズだが、戦火を交えぬ世界であれば、その眼力もこんなものなんだなとイバラギには微笑ましい。

 同時に、敵たる自分とここまで近く向き合った状況にありながら、戦場の顔付きでいずにいてくれることが、イバラギにとっては嬉しくもある。

 やがて命のやり取りをする相手には違いない。約束された未来だ。

 その日を迎えるまでは、アンズのような子とは穏やかに語り合うこともしたいというのが、イバラギの嘘偽り無き本心でもある。


「それより、一つ確認させて下さい。

 まさかミノヤマさん一緒じゃないですよね?

 前回あの人とあなた一緒に行動してましたし、なんか共通の目的持ってる仲間同士に見えましたし、一緒に行動すること多いでしょ」

「あ、そうだそうだ、それだけはちゃんと言っておかないと。

 ミノヤマいないわよ、少なくともここには来ないはず。

 あたしこの温泉に入ることも伝えてきてるから、もし来たら覗きでしょ。

 そんなことしたらあいつぶっ殺さなきゃいけなくなるし、あいつもそれぐらいわかってるでしょ」


「う~ん……

 それ鵜呑みにしたとしてもなんか嫌だな……

 だってあなた、私とお話するためにここに来た風なんでしょ?

 ってことはミノヤマさん、私がここにいることも知ってるんでしょ?

 あの人いっつも、私の一番嫌な時にちょっかい出してきた人なんですけど」

「うっ、鋭い……

 流石に血生臭い世界で長生きしてきただけあって頭の回転早いわね。

 こうして見てると普通の女の子にしか見えない顔してるくせに」

「くせに、って何ですか、失礼な。

 別に命のやり取り何度も繰り返してくれば、誰でも歴戦の侍みたいないかつい顔付きになっていくわけじゃないですよ」

「いやいや、女だって厳しい世界で長く生きてくれば目が吊り上がってくるものよ?

 私はそうならないように気を付けてるけど。

 せっかく可愛い顔に生まれてきたんだから、顔の怖い女にはなりたくないし」

「自分で言うんだ。

 ……しかもその自信が間違いじゃないぐらい本当に可愛いからなんかむかつく」


『お前もよく言うであろうが。

 こんな可愛い子つかまえて何たらかんたら、と冗談で。

 コナツ相手の世間話でもよく言っておるぞ』

(……それは完全に冗談なんだからいいんですよ)


 湯に浸かるため、頭の後ろで一本結びにしている髪も解き、長い髪を頭の後ろと横に流すアンズは、確かに普段以上に普通の女の子の顔だ。

 髪を結ぶのは、長すぎる髪が有事の際に邪魔にならないよう結んできたのが、日常的になったものに過ぎない。

 そうしないと大きな動きをしただけで、長い髪が顔に絡んで視野を狭めたり気が散ったりする。それほどアンズの髪は長いのだ。

 つまり本来は荒事に対応するための髪型であり、それを解けばそんじょそこらの、自慢の髪長を胸を張って歩く年頃の女の子にいっそう見た目が近付く。

 アンズが髪を解くのは、入浴中や寝る前ぐらいのものだから、それを目の当たりに出来る者など極めて限られる。

 イバラギは今、かなり珍しい彼女の姿を目にしていると言えそうだ。


「そんなことより、話があるとか仰いますが、まずこっちから聞きたいこといっぱいあるんですけど。

 前もそうだった気がするんですけど、そっちの言いたいことばっかり好きに言って、こっちの聞きたいこと一切教えないとかしませんよね?」

「あ、あなた結構がつんとくるわね……

 そ、そりゃ私だって悪いとは思ってる、ほんとに思ってるのよ?

 でも今の時点では話せないこともいっぱいあるし……」

「全部とは言いませんし小出しでもいいですから話して下さいよ。

 もう一方的に振り回されるのもなんか嫌になってくるんですよね」


 少し背中を丸めたことで、一部が顔の前に流れてきた髪を頭の後ろにかき上げたアンズが、じと~っとした目でイバラギを追及する。

 威嚇する目でも無いし怖い顔ではないが、イバラギにとっては負い目ある相手がいかにも拗ねたようなこの表情は、口八丁であしらうこともやりづらい。

 摂泉国でさんざんイバラギとミノヤマの都合で振り回されたこともあって、今日はアンズも攻めの口が積極的である。

 黙って見守るテンジンも、どうせだったらそれでいいぞと応援気味。


「わかった。流石にそうよね。申し訳なかったもんね。

 だったら、あなたの質問を最後に纏めて聞くから、先に私の話をしてもいい?」

「え? 駄目ですよそんなの。

 言うだけ言ってすっきりしたら、目的果たして満足した気分でのらりくらりと私のことあしらうつもりでしょ。

 最悪逃げればいいと思ってるでしょ」

「ち、違っ!?

 そんなつもりじゃなくて、その、今から私がする話も合わせた上で、色々聞きたいことが出来たらそれも纏めて答えるからっていう話で……」

「私が知りたいのは今までのことが殆どなんですよ?

 今からする話とか関係ないでしょ。

 こっちの質問に先に答えてくれてから、あなたの話をしてもなんにも問題ないじゃないですか」

「そ、それはほら、今から私がする話にも、あなたが知りたがってる内容がいくつか含まれてると思うし?

 それを先に聞いてからだったら、質問する数も減って手間も省けるわよ?」

「そんなの判断するのはこっちでしょ。

 駄目ですよ、そっち主導で話を進めないで下さい」


 ど正論でばっすばす攻め立てるアンズに、イバラギもたじたじ。

 これはまずい。あんまり駄々をこねると、最後にはアンズを怒らせかねない。

 この子に"もういいです"と言わせてしまったら、一度線を引いたら譲らなくなるであろうアンズ相手では絶対に話が進まなくなる。本当に大事な話があるのに。

 この話をアンズに伝えることが叶わなかったら、イバラギもかなり困るのだ。


 たまたま刺さったアンズの言い分だが、言うだけ言ってすっきりするよう先に話すようなことは許さない、という前置きは今のイバラギに劇的に効いた。

 目的があって接触してきた相手の目的を先に達成させてしまったら、後はどうとでも気が軽くなった相手に余裕を与えることになる。

 相手の目的を果たせぬよう掌握し、無自覚ながら主導権を手放さずにいる今のアンズは、たまたまながらも交渉を有利に進める商人らしい立ち振る舞い。

 彼女はそうした計算高い立ち回りは不得意だが、積もり積もった感情を容赦なく吐き出して、断固として譲歩を認めない姿勢が結果的にそれに繋がっている。

 テンジンも昔から認めるところだが、この子は頭で考えて計算ずくの戦いを組み立てるより、感情あらわに苦難に立ち向かう時の方が遥かに強い。

 それが状況に噛み合えば、今のイバラギのように前にも後ろにも動けなくなった相手から、今にもこちらの望む言葉を引き出せる空気が出来上がる。


『…………』


 だから、今は邪魔が入って欲しくないのだが。

 テンジンは、あまり望ましくない気配を感じ始めていた。

 敢えて今はこの空気に水を差さぬために黙っているが、本来ならば今すぐにでもアンズに教えるべきこと。

 しかし、イバラギが追い詰められているこの空気も捨てがたい。

 真意の読めない暗躍者どもから、少しでもその行動の数々の真意の片鱗を聞き出すなら、これ以上の好機は無いからだ。


「わ、わかったわ……

 そうよね、こっちの都合ばかりじゃいけないわよね……

 よしっ、ちゃんとわかったわ。あなたの質問に先に答えるわ。

 でも、一つずつにしてね? たくさん一気に聞かれると、私も困っちゃうから」

「ええ、勿論です。

 それじゃあ答えて下さいね。

 こないだ、オオムカデなんてものをこの世に蘇らせたのは何故ですか」


「……………………それは、ちょっと答えにくいかな……」

「はー?」


 ふいっと顔を逸らして超気まずそうな顔をするイバラギだが、そんなの許すわけないでしょうが。

 ざばぁと波を立てて立ち上がったアンズが、ざぶざぶ湯を太ももでかき分けてイバラギに歩み寄る。

 慌てて一歩退がったイバラギに掴みかかろうと手を伸ばすアンズだが、その手首を掴まれて抑えられ、ぐぎぎぎと詰め寄ることを食い止められる。


「な、なんでもかんでも話せるわけじゃないって言ったじゃない……

 その質問に答えるのはすっごく難しいの……

 かなり繊細な問題で、言葉選びを間違えると必要以上にあなたを怒らせそうだし……」

「とっくに怒るだけの案件だったことぐらいわかってますよねぇ?

 理由を話せば私がもっと怒るってことですか?

 やっぱり調伏しちゃった方がいいひとっぽいですね、あなた」

「あわわわっ、勘弁してっ!

 言えないものは言えないのっ! だから許してっ!

 太鼓やめてやめて、濡れてる身体に神様の稲妻なんて絶対つらいんだからっ!」


 むっきぃと頬を膨らませるアンズはまだ戦う巫女の表情になっていないのだが、雷神太鼓を背後に顕現させ、撥を両手に握る恫喝姿勢を露わにする。

 それで火雷鼓を叩いた瞬間、温泉で濡れた身体の二人を強烈な稲妻が包むだろう。

 いかに巫女が自らに浴びても優しい神雷とはいえ、アンズとて濡れた身にそれを浴びれば流石にかなり痺れて痛いはず。

 しかしイバラギに与える痛打はその非ではあるまい。

 テンジン様の稲妻は妖相手に激烈に効く。かの大妖魔オオムカデすら、海の水に塗れた中でそれを受けたことが決定打となり、調伏され果たしているのである。


「嫌ならちゃんと話して下さいよ。

 そしたらやめるし許すかもしれません」

「やだー! どうせ許せてもとりあえずぶち込んだるって顔してるー!

 私このままあなたの手首を握り潰せるほどの力だってあるのよー!?

 それでもそんなことしない程度には誠実にやってるんだから、それに免じてちょっとは許してよー!」

「握り潰してもいいですよ、その時は全力で道連れにしますから。

 私これでも、太鼓叩かなくたって神力爆発させる最後の切り札ぐらいは持ってるんですから」


「……うそでしょ?」

「はったりだと思ってます?」

「ひえええ」


 膝より上を湯の上で風に晒す、丸裸の女二人で押し合う図、イバラギは間近にアンズの表情を目の当たりにしている。

 すん、と真顔で言ってくるアンズの表情に、はったりの気配は一切無かった。

 アンズは最悪、雷鼓を打たずに自分の身体の真ん中から、触れている相手にも激烈な稲妻を流し込む、自爆同然の技を一つ持っている。

 それをやってしまうと自分の身体もずたずたになるし、最悪心の臓が止まってしまうかもしれないため、完全に勝てなくなった相手を道連れにするための技だ。

 あるいは、山賊辺りを相手に敗れることあらば、その身を穢されるくらいならと自ら命を絶つと同時、悪の魂を地獄へ連れていくための道具要らずの自害手段。

 この局面でそんなものを使いたくはないのはアンズの本心であるが、鬼のイバラギ相手に自ら触れにいける根拠でもある。

 目的のためなら命すら容易に賭けられるアンズであるのは、大和龍山に乗り込んできたあの姿からしても明らかで、イバラギに対してこの牽制は極めて有効だ。


「さあ、答えて下さい。

 話してくれれば悪いようにはしないかもです」

「か、かもじゃなくて約束して?

 危害を加えるなとまでは言わないから、多少は穏便に手心ある対応に……」

「もう前置きしてる時点でいい話の予感しないんですよ。

 いい加減に腹を決めて下さい。それだけのことやったでしょ。

 あの後、摂泉村がどれだけ大変だったかまだわからないんですか?」

「うう、それを言われると……

 わ、わかったわよぅ……話すから、せめてちょっと落ち着いて……」


『ああいかん、アンズ、もう駄目だ。

 今すぐそいつから離れて座れ。湯の中に身体を隠せ』

「え? テンジン様、なぜ急に……」

『いいから座れ、裸を見られることになるぞ』


 ここに近付いてくる者の気配をずっと感じていたテンジンだったが、これ以上は限界だとアンズに声をかけた。

 せっかくここまでイバラギを追い詰められたのに、この空気をぶった斬ってしまうのはつくづく惜しいだが。

 大事な愛娘の裸を、女のイバラギ相手ならともかく、男の目に触れさせてしまうのは父として食い止めたい。


「ちょ、ちょっとイバラギさん、まずその手を離してくれません?

 撥はもう消しましたよ? 殴ったりもしませんよ?」

「お、落ち着いてくれてる? ほんとに冷静?

 今のあなたを自由にするの、私も怖いのよ?」

「い、いいから離して貰えません!?

 なんとなくすっごい嫌な予感がす……」


「苦労しておるなぁ、イバラギ。

 やはり私が赴いた方がよかったのではないか」


 テンジン様から賜った短い言葉に、たまらなく嫌な展開が迫っていることを瞬時に察したアンズであったが、すぐには座ることが出来なかった。

 右も左も手首をイバラギに握られているのだ。そして事情を知らぬイバラギも、今はアンズの怖さを目の前に必死だからすぐには離してくれない。

 そうこうしている間に、それは来てしまった。

 その声が二人の耳に届き、ぎょっとして二人とも同時に声の方向に振り返った瞬間、イバラギもアンズの手を離してくれたが時すでに遅し。


 ふんどし一丁で黒頭巾で顔を隠した、細身ではあるが引き締まった筋肉を持つ男が、温泉の縁の岩に立っていた。

 張りのある大胸筋は女のそれではない。

 どこからどう見ても変態の出で立ち。ただ、ミノヤマであることはわかる。

 相手が男だと認識した上で、膝より上をすべて湯の上、月明りの下に晒しているアンズも、あまりの現実に一瞬硬直したほどだ。


「っ、はーーーーーーーーーー!?!?!?

 あっ、かっ……はっ……はああああああああああああああ!?!?!?」


「こっ、こっ、こらあああああミノヤマああああああああああ!!!!!

 女の風呂に堂々と入ってくる奴があるかああああああああああ!!!!!」


 あまりにあまりなものを見たアンズが、湯の底の地面にお尻を打ち付けることも厭わぬ速度で、大きな波を立ててその場にしゃがみ込む。

 全裸を晒すことに抵抗は無いのかイバラギは我が身を隠すことをしなかったが、思いっきり手を一振りする批難の仕草と共に怒鳴る。

 濁り湯の中に身体を隠してなお、胸と股の間を隠す位置に両手を持って行ったアンズは、ミノヤマを見上げて口をはくはくさせている。

 こいつ信じられんことをしやがる。それは駄目だろ、いくらなんでも。


「話が進んでおらぬではないか。

 大事な話だとお前自身が言って、だからお前に任せたというのに」


「っ、っ~~~……!!」

「!?

 わ゛~だめだめだめアンズ!

 それやったら全員死ぬから! あんたごとよ!?」

「うるさいっ!! かまうかっ!!

 あいつまじぶっ殺す!!」


 燃え上がるような殺意にはイバラギも敏感で、しゃがみ込んだ湯の下で、アンズが再び撥を握ったこともなんとなくわかった。

 大慌てでイバラギはアンズに飛びつくようにして、後ろから彼女に抱き着くように、自分の両手を回す形でアンズを縛り上げる。

 自分の両肘が自分のお腹の横に押し付けられる形でぎゅっとされ、湯の上の太鼓を叩く位置までアンズは撥を振り上げられない。

 今のこの子に神の稲妻を使わせると本当にやばい。全員感電してお陀仏の予感しかしない。


「どうせお前、怒ったこいつに問い詰められて困っておったのであろう。

 私が来なければまずいことになっていたのではないのか」

「それはそうだけど! だからってこれはないでしょ!

 しかも何その格好!?

 あんたまさか一緒に温泉に入るつもりだったわけ!?」

「はなせぇ~~~~~!!

 あいつ殺す!! 絶対殺す!!」


 顔を真っ赤にしてじたばたするアンズを抑え込むのは、鬼の怪力を持つイバラギには本来容易なことだが、本当に凄い力で暴れるのでかなり困る。

 力ずくで全力を込めたらこの子の身体を壊してしまう。でも今解放するとやばい。

 加減の難しい力でアンズを押さえ込むことに苦労しながら、イバラギは糞馬鹿相棒を憎らしい目で睨みつけるばかりである。


「童貞でもあるまいし私は気にせんぞ。

 女の裸なぞイバラギの行水で見慣れ……」


「あほ! 死ね!」


「ぱぅぁっっっっっ!?!?!?」


 気にするのは私達がお前に対してじゃなくてお前が私達にでしょうが、という普遍的かつ真っ当な突っ込みももはや億劫。

 アンズを左腕だけでぐいと抱き込んで拘束する姿勢に改めて、イバラギはミノヤマの足元に向けて右手を突き出す。

 するとミノヤマの股の間の岩、そこから地面に平行な一本の枝、細身のアンズの腕ほどの太さがにょきりと素早く一本生える。

 それが、引いたのち指を話された弓の弦のような勢いで上方に立ち上がり、鞭のようにミノヤマの股間へと直撃した。

 イバラギだって、今のミノヤマは許さん。


 これに耐えられる男は一人もいない。

 内股になったミノヤマは、そのまま立っていられなくなり、猫背で胸と額から温泉にざぶうと落ちて沈んでいった。

 股間を押さえて顔も上げられず、ぶくぶく顔の横から泡を溢れさせてぷかりと浮く。そのまま沈んで一生顔を出さなくてもよろしい。


「ほ、ほら、アンズ?

 あいつは成敗したわよ?

 ごめんね、ほんとに節操の無い奴で……」


 すぐにアンズを両腕でがっちりと捕まえ、暴走されないように押さえつけるイバラギだが、至近距離で振り返り睨みつけてくるアンズと目が合う。

 ああ、流石に涙目だ。これは申し訳ない。私達の大失態だ。

 あのミノヤマの蛮行には、流石に自分も連帯責任だとは思わないが、女の子相手に身内のあの振る舞いとくれば知らんぷりともいくまい。

 我が身を守るためとはいえ、こんなに居ても立っても居られない女の子を押さえつける己が腕にも、申し訳なさは際立つ一方である。


「……イバラギさん。

 あいつのあれ、ちょん切ってやりません?」

「気持ちはわかるけど勘弁してやって……

 私もお詫びするから……ほんとにごめんね……」


 イバラギが痛烈極まりない制裁を加えてくれたおかげか、多少はアンズもおとなしくなってくれたが、今度は静かな怒りが残った眼が別の意味で怖い。

 仮にイバラギがいいよ言ったら、本当にミノヤマの大事なものを斬りに行くかもしれない。刃なんて無いこの山奥、尖った石を探してでもやりそう。

 ミノヤマの愚行にはイバラギもおかんむりだが、流石にミノヤマに、死んだり死ぬにも等しいことに至られても困る。

 なんとか、なんとかアンズを宥めて、この場を収めることに、先ほど以上に時間をかけて苦労するばかりであった。


 自分の判断もあって、アンズの裸体をミノヤマという男の目に晒してしまったことに、テンジンは憤りも悔いもする。

 あまり見せるようなことのない不機嫌な顔で、テンジンは背中だけ湯の上に浮かせるミノヤマの半殺され姿を一瞥し、ちっと舌打ちすら見せていた。

 未だ動けずぶくぶくと湯に浮いたままのミノヤマ。ふんどし一丁の黒頭巾という変態には相応しい末路たる姿である。

諸事情により一週間だけ連載を止めます。

次の最新話は10月1日に公開します。

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