第八一話 ~おにゆ~
「テンジンさま~……
周りは安全ですかぁ……?」
『特に危ういものの気配は無いな。
この手の天然の湯には猿が群がるものだが、その気配も無いことを考えるとこの山に猿はおらぬのかもしれん。
であれば愛されし秘湯となるのも妥当だな』
「あぁ~、なんて素敵……
周りも気にせずこんなお湯に浸かれるなんてぇ……」
アンズは温泉の縁にあたる石に後頭部を預けながら、肩まで湯に浸かって蕩け切った顔で月を見上げている。
温泉に猿が群がるというのは俗説であり眉唾だが、確かに裸で猿に遭遇したくはない。
あいつらは結構凶暴なのだ。敵と見做せば人間相手でも蹴るし殴るし引っかくし、牙は骨を貫くほど鋭く咬合力も強い。
襲われようものなら怪我をするどころか、普通に重傷を負う獣である。
アンズは万一遭遇したとて神力で抗えるが、その気配も無いとなれば、猿の怖さを知る身としてはいっそう安心。
周りをいちいち気にする必要もなく、全身の力を抜いてこの適温の湯に身を座り浮かせ、骨身に染みる快感に専念できるのが本当に幸せ。
『温泉は私も経験したことがあるが、真水と違った味わいがあるものだ。
どうだその湯は。ざらつくか? それとも、指を透き通るか?
私は感触を確かめることは今の姿ではちと難しくてな』
「なんかすっごいぬるぬるしてますねぇ。
おかげで肌を手で洗いたいんですけど、くすぐったくて出来ないんですよ」
『くふふ、お前はくすぐったがりだからなぁ。
イナリ姫に腋を撫でられて、腰が砕けて立てなくなっていたほどだしな』
「……思い出すだけで消えたくなりますから思い出させないで貰えます?
っていうか、テンジン様見てたんですか?
ああいう時、テンジン様なら見るべきじゃないと去って下さるものだと思ってたのに」
『見とらんよ。本当に見ておらんぞ。
想像で語っただけだ。どうやら当たっていたようだが』
「もぉ~……」
いつだかイナリ姫に脱がされて触られまくった時のことを思い出して、恥なのか湯にあてられたのか、はたまた両方なのか顔を真っ赤にするアンズ。
ばしゃあと手で掬った湯で顔を洗うが、それで赤面を冷やすことは出来ない。ただの気分転換だ。あれは忘れ去ってしまいたい恥辱である。
湯の中で汗を流す全身は垢を浮かせ、アンズも身体を洗うように、二の腕から手首までにかけてを掌で磨く。
それだけでもぬるぬるする湯が、アンズの敏感肌をくすぐってしまうので長続きしない。
本当は一番汗をかく所、腋やその下、あるいは胸の陰、もしくは太ももなど、磨いて綺麗にしたい場所は沢山あるのだけど。
出来るかな……と、自分で脇を掌で磨こうとしただけで、ひうっ、と詰まった息が出そうになって、長続きしないどころか始めることも出来ない。
これじゃあ太ももや胸の下なんて、自分で触ることも出来ない。絶対変な声が出る。
気持ちの良い湯なのだが、このぬるぬるはアンズにとっては都合が悪く、まったり身を沈めることしか出来ないのが些か惜しい。
『ひくひくするな』
「してませんよっ。
っていうか、悪いんですけど黙ってて貰えません?
あなたに肌を晒すのは恥ずかしくないとは申しましたけど、あんまり話してるとやっぱちょっと恥ずかしくなってくるというか……」
『見てなどおらぬのだがな。
見た所で我が子の裸だぞ? 欲情する方がどうかしておるわ。
気にせんでよかろうに』
「仰るとおりなんですけどぉ……
わかりません? この乙女心といいますか……
男性の目線が存在することを意識すると、親が相手でもそわそわすると言いますか……」
『ぷっは、こやつ主神を異性と見做しおるのか。
いかんぞぉ、それはいかん。なんと僭越な』
「もうっ、言葉のあやですよっ!
私だってお父さんを異性として見るような女だと思われちゃたまんないんですからね!」
からかう言葉遣いのテンジン様に、アンズもぷんすかした反論をしているが、心地良い中での親しきひととの語らいは、本質的にはそれも極楽。
頬を膨らませ目を閉じて、上天に向けたその表情も、テンジン目線では笑顔にも見える。
この子のお風呂好きは知っている。毎晩あれだけの手間をかけて湯を沸かすぐらいなのだから。
悪い冗談にすら機嫌良く冗談で返してくる、我が子のご機嫌な姿はやはり、テンジン様には目の保養だ。
『しかし……ふむ、どうしたものか。
猿ではないが、少々妖の気配もあるにはある』
「えっ、それだと大変じゃないですか。
私、裸で戦うのすっごい嫌ですよ」
そうは言いながら、アンズはもそもそ温泉の真ん中の方へ位置を移し、少し深い場所で中腰の姿勢で肩まで浸かる。
雷神太鼓も顕現して、湯の中で撥も握って。襲い掛かってくるものがいれば、その位置で迎え撃つつもりらしい。
濁った湯の中に身体を隠し、首だけ出してその後ろで太鼓が四つ宙に浮かぶ絵図。本人は真面目なのだが変な絵。
『それは迎え撃つ体勢として正解なのかね』
「え~、だって流石に裸で大立ち回りは……
この格好で脚開くのは妖相手であってもねぇ……」
『いや、まあ、合理的だとは思うがね。
どうにも絵面がな』
「そんなことより気配どちらからなんです?
大事な情報を是非速やかにお教え頂けると嬉しいのですけど」
絵は珍妙だが、地上の方から襲い掛かってくる敵を稲妻砲撃で迎え撃ちやすく、仮に接近されても至近距離で稲妻をぶち込める。
妖魔に特効の神力の稲妻を、水に浸かった相手にぶち込めば、余程の化け物相手でもない限り一発で片がつく。オオムカデにすらそれが決定打になった程だ。
足が着く水の中あるいは水上にて、岸からの敵を迎え撃つ構えというのは、アンズの戦い方を加味するとかなり盤石な守りだったりする。
素っ裸あるいはずぶ濡れ確定で裸同然を晒すことになる構えなので、積極的に選びたい戦術でもないが。
『いや、そちらではないんだ。
後ろから忍び寄ってきている』
「なぬっ」
しまった、もしかして飛べる妖か。そこまでは考えていなかった。
慌てて振り返るアンズは、広い温泉の情景を前にして、湯けむりの向こうから近付いてくるらしい影を探して目を凝らす。
正面や左右広角のみならず、上方にも意識を配って。
さあ来るなら来い、と、普段あまり経験したことのない迎撃環境で、アンズの胸もいやにどきどきする。
撃ち落として、仕留めきれなければ水上の敵に稲妻をぶち込み、自分も痺れる覚悟をしなければならないから尚更だ。
『いや、まあ、そこまで気を張る相手ではないと推察できるがな。
今回もそうだが、敵意や害意はまったく感じられぬ。
おかげで私も、ここまで近付かれるまで気付かなかったほどだからな』
「え? 今回もって……」
「あの~……
物騒なものを仕舞って頂けると嬉しいなぁって思うんですけど、どうでしょう?」
今回も、というテンジンの発言が引っかかったアンズだが、答えは間もなく真正面に姿を現した。
湯に顔半分を沈めて、ゆら~りと近付いて来て、口を水面から出しておずおずとした声。両手も湯面から出して、敵意無しのお手上げの構え。
緑の髪が特徴的な、人の形をした妖は、その額の上に二本の角を隠さず携え、接触相手のアンズを刺激しない態度に努めている。
「うぇ……イバラギさん?」
「はーい、イバラギです」
雷神太鼓を背負った上、火雷鼓のそばまで撥の先を近付けて、瞬時にでも叩ける構えを見せるアンズである。
撃たれたらまずい。鬼族の中でも屈指の力を持つ色鬼とて、流石に全身水に浸かった中で神力の稲妻は受けたくない。
人に例えれば既に矢じりを引いた弓を、真正面から向けられているような状況なので、さしもの陽気な鬼とて愛想の笑顔もひくついている。
こんな所で怨敵とも言える、それも底知れぬ実力が怖い茨木獣士に遭遇したアンズは、もちろん警戒心を高めただろう。
だが、それほどの敵とこの距離で対峙しているというこの状況を照らし合わせると、緊張感を覚える程度でそこまで表情も強張っていない。
幾度か対峙し、その都度人間的な表情ばかり見せてきたイバラギと顔見知りになったせいで、いくらか絆されてしまっていないだろうか。
テンジン様に、敵意無しという信頼できる言質を頂いているせいでもあるが、対峙する相手の格に対して緊迫感が若干薄いのも事実である。
「ね、ね、ちょっとお話しない?
あなたにとっても、損じゃない話も用意してきてるから」
(……ど、どうしましょう?
テンジン様なら、害意無き敵との接触は何らかの情報を引き出す好機ともしばしば仰いますが……)
『さて、どうなのだろうな。試みる価値はあるが。
こいつはミノヤマのような奴ほど裏表も無いからな』
(むむむむ……)
こんな山奥の温泉で、この日この場所でたまたま出会ったという話もあるまい。
意図的に、イバラギはアンズに接触しに来たのだ。
話がある、というのは事実かつ、それが目的でアンズに近付いているのは間違いなさそうだ。
先月摂泉の地で遭遇した時のこともあり、行動の真意や目的の詠みづらい相手かつ、情報不足の相手からの接触は、アンズ目線でも好機かもしれない。
安全な関わりにはなり得ないが、虎穴に入らずんば得られぬ収穫もまたあろう。
難しい顔を浮かべていたアンズだが、詰めていた息をふうと吐き出して、雷鼓のそばで構えていた撥を下ろす。
雷神太鼓も姿を消して、話があるなら伺いましょうという意志表明も示してだ。
その途端、イバラギの表情がぱあっと明るくなり、嬉しそうに笑う表情は無邪気なもの。
この人懐っこい表情、絆されそうで嫌だ。アンズも自覚がある。
「そっち行ってもいい?
大丈夫、絶対に乱暴なことはしないから」
「……まあ、いいですよ」
「やったっ」
ちゃぷちゃぷアンズに近付いてきて、アンズの肩に手をおいて、あっち行きましょと言いながら温泉の縁までアンズを連れていくイバラギ。
既に触れられている。触られた瞬間には、アンズも怖くてびくっとなった。
これほど人と変わらぬ姿ではありながらも、イバラギは鬼なのだ。ひと握りでアンズの肩や鎖骨ぐらいは砕くことは出来るだろう。
鬼に触れられるというのは本来、刀の切っ先を肌に触れさせられているのと同じぐらい、危険極まりないということぐらいアンズもわかっているはずなのだ。
妖の怖さなど、アンズは妖魔に怯えるそんじょそこらの一般人とは比べ物にならぬほど、何度も傷つけられて、死にかけて、骨身にこたえて知り尽くしている。
なのにここまで容易に彼女に触れる所まで至れてしまうのは、イバラギの人柄なのか、漂う人間臭さが鬼であることを束の間忘れさせるのか。
いずれにせよ、妖魔に対して決して不用心ではないはずのアンズの懐に、ここまで簡単に入り込めてしまうイバラギという妖。
それも含めて、接触した上で得られる情報の一つだ。
果たしてそれは何かの役に立つ情報であろうか。
そんな予感は全くしないが、どんな情報がどのような形で活きるかもわからないのが生き死にの戦いの世界。
無自覚ながらも明らかに絆されかけているアンズとは別の目線から、テンジンは冷静にイバラギという存在を見極める目を光らせていた。
さて、近滋村。
月夜とはいえ暗い宿の外、コナツは寝る前に何やら両掌を胸の前で上に向け、その掌で踊る風を確かめている。
「……繊細に扱うとなれば難しいな。
豪快に扱うぶんには不自由しないけど」
いつ自覚したかもコナツはもう忘れてしまったが、彼は風を起こし、それを操る能力に目覚めている。
赤鬼カネグマとの戦いでも活用した力だが、その風の力を纏う拳は、妖に対して劇的な威力を上乗せすることも知っている。
ただの風、大気の流れが妖魔に痛烈な傷をもたらすとは思えない。
この力が、アンズが雷神様の力を借りて稲妻を生み出すように、己も神様の力を借りて風を操っているであろうとはコナツも認識している。
コナツの故郷、大奈国で最も信仰されていた神様は、風を司る風神様だ。
自身がそんなに信心深かったかと言われればコナツも疑問であるし、これが神様の力であれば、何故それが自分に与えられたのかはコナツにもわからない。
アンズは主神とも疎通しているかのように最近感じられるが、コナツはこの力の源である神様がいたとしても、それと言葉を交わした経験も無い。
神職者でもない自分が、神様と言葉を交わせることなどあるはずもないのは重々承知だが。
やはり時々、この力が根無し草の自分に授けられたのか、気になることはあるものだ。
人智を超えた力というのは、今は確かに助けられているが、ある日いきなり消えてもおかしくない怖さも漠然とある。だって本質がわからないのだもの。
鬼という人類の天敵を、この力で以って滅する戦い方を既に身に付けているコナツだが、激戦さ中で突然この力を失ったりしようものなら色々と困る。
カネグマとの死闘の中ですら、実はそんな想定すら含みながら戦っていた彼だが、見方を変えると授かった力に慢心していないということでもあるか。
「軽い風ならやっぱりなんとなく、消費? も控えめな気がするけど……
広げると、どことなく天井が近付いてきてる気もするな……」
独り言がしばしば出てしまうのだが、コナツは暇かつ余人の目が無い場面では、授かりし風の力を深く知るための研鑽を欠かさない。
神力を扱う第一人者であるアンズにもいくらか話を聞いて知ったことだが、やはりこうした力にも際限というものがある。
アンズも無尽蔵に稲妻を生み出せるわけではないのだ。神力が尽きたら終わり。
それをコナツに伝えるのは難儀したアンズであったが、なんとか表現を紡いでくれた彼女の協力の甲斐もあり、コナツも自身の限界を計りつつある。
神力は水甕の中に溜めた水だと思えばいい。
水を多めに桶で汲み取って、相手にぶっかければ強力な稲妻。少量をお猪口で掬って、ちょろっと相手にかけるのであれば加減した弱い稲妻。
神力を大量に込めて生み出した稲妻は神力の消費も多く、桶で限られた水甕の中の水を勢いよく減らすのと同様、神力の枯渇もまた早く近付ける。
逆に神力控えめに威力を抑えた稲妻は、水甕の中の水をちびちびと減らす程度の消費に抑えられ、有限の神力を節制することが出来る。
水のように残量を視認できるわけではない、神力の有限さを実感するのは難しいのだが、コナツもこの力が神様に授けられたものと見做し、感覚を探っている。
アンズには神力について熟知し、指導してくれるテンジン様がいるが、コナツには神力の扱いを教えてくれる師がいないのだ。
いつの間にか扱えるようになっていた、風の力の本質に対しては、今も手探りで見極めようとしている道半ばである。
「今日は広げてみるか。
なんでも試してみなきゃな」
コナツは自分の掌の上で渦巻かせていた風を、解き放つように全方位へと発した。
それは仮に誰かがその風を身に受けても、特別性を感じぬ、何の変哲もない空気の流れにしか過ぎないが、コナツを中心に全方位に向けて駆ける風。
穏やかで、しかし確かな大気の流れ、"風"と呼ぶには少々弱いものだが、コナツは些細なこの空気の流れを、風と定義して覆さない。
仰ぐでもなく吹くでもなく、念ずるだけで周囲に広がっていく大気の流れを生み出せる超常は、風神様の力と仮定して、風を生み出していると解釈する。
そうした言葉選びとて、信ずるべき主神の司るものの名を選ぶ時点で、神様の存在を信ずる信心を計る大いなる要素にも違いあるまい。
この力を"風"と信じるのは、風神様の実在を無意識下で改めて肯定するということでもあるからだ。
コナツは自分が思うよりも、広義において、充分に信心深い。
アンズもしばしば推してくる話だが、神様が実在すると信じるだけでも、それは神様の存在力に繋がる"信仰"と何ら相違ないのである。
「……………………ん?」
さて、コナツが自分を中心に広げたこの風。
吹き抜けていく中で、コナツが生み出したこの風は、触れたものの形や気配などを、術者のコナツにうっすらと知らせる力を持つ。
風が道行く人に触れれば、コナツもそれに触れたかのような感覚を得て――と表現すると少し大袈裟で、そこまで具体的に感じ取れるわけではないのだが。
それでも、離れた場所の人影の存在、気配を感知することは出来るのだ。
仮に敵地でこの力を活用しようと試みるなら、敵陣営の兵の位置を索敵することすら叶えられそうである。
コナツも最近は、風を広げた上で意識を集中すれば、そうした使い方が出来ることを意識し始めており、今も目を閉じて集中力を研ぎ澄ませている。
目を閉じて集中し、風が触れていくものの形を、なるべく具体的に感じ取ろうとしている。
後方離れた場所でふらふらしているのは、飲み帰りのおっさんが千鳥足で歩いているのだろうか。
夜の空まで意識を広げると、鳥に風が触れたような実感もある。
そして、コナツに最も引っかかったのは、視認可能とは思えないほどには些か遠い場所で、じっとしている大きな影の存在である。
それもコナツの位置からだと、建物の陰に半身を隠し、こちらの様子を眺めているようにも感じる。風によって感じる、そのような形だ。
「…………」
大人ぐらいの体格はありそうだ。
こんな夜にじっと突っ立ってる奴なんてそうそういるものではない。
夜は危険で外出すら控えるべき、それでも外を歩くのであれば速やかに目的地へと向かうのが常識だ。
可能性としては立小便している時ぐらいのものである。ただ、建物のそばでそんなことをする奴はいない。
ばれたら喧嘩になってしまうし、静かな夜に立小便の音は意外に響くので、その建物の中に人がいれば十中八九ばれて飛び出してくる。
ゆえに一時的に馬鹿になってしまっている酔っ払いですら、人様の建物のそばで立小便をするなんてことはない。
コナツはもう一度、胸の前に掌二つを上に向けて構え、新たな風を生み出した。
それを今度は、気になったあの影に向けて吹かせてみる。
漠然と全方位に広げた風とは異なり、意識的に、はじめから集中して。
そして、風が対象に届いた瞬間に、先ほどよりもいくらか鮮明に、相手の姿が感じ取ることが出来た。
「…………こいつ、人じゃねえな?」
背丈も高く、体格もかなり屈強。大男のそれだとは、影の形を視認したかのように理解できた。
コナツの警戒心を最も刺激したのは、風をその身に受けた瞬間に、その何者かが訝しげに後ずさった気配を感じたからだ。
その身に風を浴びただけで、コナツから一歩離れ、しかもそのまま去っていくかのような気配。
そこまでわかれば、相手が自分を監視するかのように眺めていたことも、ほぼほぼ確信に至ってよい。
ただの人間ではない予感もするのだ。
この風が神力によるものだとすれば、妖魔が浴びれば敏感に反応せざるを得まい。
あの反応の良さは、妖のそれかもしれないとコナツが疑念を持つのも、仮説を抱くに充分な要素であろう。
コナツは唐突に駆けだした。その何者かに向かってだ。
夜の静かな村に、健脚の草鞋が地を蹴る音が響く。
そして、その音をきっかけにコナツに迫られる側も、己を追って動き出したコナツから離れる方向へと走りだす。
疑念は確信に。野放しにしない方が良さそうな相手だ。
「……速いな。
逃がさねえぞ」
それなりに速く駆けていたつもりのコナツでさえ、向こうの方が速くて距離を稼がれている。
これは全力で追わねば捕まえられそうにない。只者ではなさそうだ。
コナツは普段の走りからして快速のアンズの全力疾走にも等しい速さであり、彼が全力駆けすればアンズでも走って追い付けないのだ。
アンズが既に、戦い慣らした脚は人の子の間で最速の部類に入るものなのに、それをさらに上回るコナツが容易に追い付けぬ相手である。
人でないという見立ても間違いではなさそう。飛脚級の脚を商売に使う人種に、あのように夜の闇に紛れて監視される覚えなどありはしないのだから。
相手は何者だろうか。
知る限りでは、ミノヤマを想起する。それぐらいの相手だと想定するということだ。
追い付いたとて、その場で戦闘になることもコナツは想定する。そうなれば、果たして問題無く今宵を終えられるだろうか。
既にコナツは臨戦態勢、村を飛び出した相手を追って自身も村を出る頃には、隙の無き士の眼光と精神を携えて地を蹴り続けていた。




