第八十話 ~アンズとイナリの咎無き禍根~
「――とまあ、盗人の手当をするなどというのは山波村でも初めてだったわけだ。
あの子は、殊更泥棒にだけは容赦無いからな」
「昔っから飛ばしてたんすねぇ。
今のあいつ見てると、全然意外でもないけれど」
宿の一室、更けるにはまだ少し早い程度の夜であるが、寝る前の晩酌を嗜んでいたタケスエとコナツが話している。
コナツがタケスエの部屋を訪ねているのだ。
手酌では味気ないだろうと酒をお猪口に注いでくれるコナツに、タケスエも表情は動かないが、差し出す盃の動きからも嬉しくは感じていそう。
歳の離れた二人ではあるが、なかなか仲良く話せる間柄である。
「そんなあいつも、イナリ姫を相手にすると子兎みたいになるんですよねぇ」
「……ふむ。
最初にもちらと俺に尋ねていたが、やはり気になるか?」
「それが聞きたくて来た、って白状しちゃうとやらしいですけどね。
でもやっぱり、気になるんですよ。
俺もあいつと関わる時間も増えてきたけど、知らないこと沢山ありますから」
昨年の今頃、山波村で出没したこそどろを、アンズがめっためたのぎったぎたにした話を聞くのも、面白くはあるのだが。
あいつ神様の力を借りなくても人間同士の喧嘩めちゃくそに強いんだなって。
そんな本性まるで見えない、アンズの普段の天津爛漫さだから、騙されて見くびる悪人は痛い目に遭うんだろうなとしか思えない。
アンズが盗みを嫌う理由も知っているので、色々併せて聞くと楽しいというのがコナツ目線の気持ちである。
ただ、今日の一番の興味は別のところにある。
ユキタダに近道を聞いてここに来たコナツは、可能であるならとタケスエに、アンズとイナリ姫の因縁について今改めて尋ねる。
タケスエも、コガラシやユキタダとコナツがある程度の関係を持つ間柄だと知っているだけに、あいつら何か言ったかな? と薄々察してもいるのだが。
コナツは案外社交的なのだ。人付き合いが得意でないタケスエが、沈黙は金を貫く自分の懐に、あっさり入ってくるコナツを可愛く感じる程度には。
本来ならば軽々しく姫君の内情を話すべきではないという節度もあるのだが、アンズと親しいがゆえに知りたがる、コナツに対しては口も軽くなる。
「……そうだな。
よし、話してやろう。
俺はイナリ姫には良い印象を抱いておらぬし、黙っておく義理も無い」
「けっこう凄いこと言ってのけますね。
誰にも言いませんが、誰かに聞かれるとやばくないですか」
「俺はナルミ様に仕える侍であって、帝や皇族に仕える武士ではないからな。
流石に帝様が関わる話であれば軽挙も控えるが、余所から皇家に嫁いできた姫君に気を遣う謂れは無いわけだ。
それで不敬と見做して俺を責めてくるなら、詫びとして腹を切るに伴って、かの腹も共に貫いてやるよ」
要は、あんな小娘に不敬を理由に裁かれるのであれば、迷わず道連れにしてくれようということ。
酒が入っているからとも見られかねないが、元よりタケスエの心根は彼が今語るとおりである。
自身の意志を曲げてでも従う相手がいるとすれば主君ナルミだけであり、それ以外の者に我が刀に捧げし生涯の末路を妨げられるなど断固お断り。
猛烈に気が強く、意固地だが、侍の多くは実際そう。ミツサダも、トキガネも、ナベツナも同じことを言うだろう。
それほど折れぬ信念を貫き通した上で、ここまで生き長らえてくるほどの度量が無ければ、こんなに誰もに畏れられるほど強い武士にはなっていない。
「はじめに断っておくが、イナリ姫もいくらかは気の毒な立場なのだ。
俺はアンズを虐める理由には足らぬと思っているから、あの姫君には良い印象を抱けぬだけで――」
寡黙と知られるタケスエであるが、それは彼が必要最小限のことしか語らない性格であるだけで、話せば饒舌にもなってくれる。
仏頂面で、子供達には近寄られず、大人達もどこか恐縮して彼と話す実情を知るコナツは、こんなこの人の側面がもっと知られれば変わるのにな、とも思う。
無論、既に知っている者だっている。
子供目線では怖そうな、この大人に懐いているクマリは、優しいタケスエの本質を知っているからだろう。
人柄なんて、関わって深く話してみなきゃわからないことの方が多い。だから、コナツは社交的なのだ。
さて、この夜。
月も高い所に昇りつつある薄明るい夜に、山へ向かって飛び込んでいく無謀な行為に及ぶ巫女がいる。
雲に乗って、空を駆け、所定の位置たる地上へ降りていき、木々の間を掻い潜って着地。
近淡湖の水際からは比較的近くも、鬱蒼とした森林の奥地に佇む秘湯を、恐れ知らずな巫女は明日まで待てずに訪れている。
アンズの特権みたいなものだが、空から見れば一目瞭然だ。
茂る森の中に僅か、小さいがぽっかりと木々が無く、泉のように水が溜まっている場所を月明りに乗じて視認できる。
宿のご主人から聞いた、秘湯の位置とほぼ一致する。
地上を歩く道程しか当然聞けぬわけで、それを空から道のりを読むのは若干苦労もするのだが、やはり空から到達するのは夜の森を歩くより簡単。
もちろんアンズとて、こんな手段が無ければ、今宵のうちになんてことはしないだろう。明日、陽が昇ってからでも行ける話である。
「これ、人の手も多少は加えられてますね?」
『であろうな。
地元の民に愛された湯というのも真実味がある』
空から見てもわかる秘湯だけあり、地に立って目の前にその湧き湯溜まりを眺めれば、水面の広さはなかなかのもの。
泳いで回ることも充分できそうだ。地表として例えるなら、子供が十何人も集まって走り回れるだけの面積。
そして、岸とも呼べる場所には大小の石が組み積まれており、歪に丸い温泉の形をはっきりと見て取れる。
天然の熱い湧き水で生じた泉に、人の手で石の縁を作ることで、それが浴槽の縁だと主要するかのようでもある。
人に認知され、訪れる物好きを歓迎する歴史が既に積み上がっているのだ。
「凄いですね、めちゃめちゃ丁度いい温度ですよ。
絶対気持ちいい」
『むぅ~、私も入ってみたいぞ。
お前、巫女の分際で私を差し置いて湯を楽しむつもりか』
「テンジン様も御一緒してもいいんですよ?
私はテンジン様に限り、見られても平気ですから」
『よいよい、湯に浸かる心地良さは知っているが、神のこの身ではそれも些細なものだ。
私はお前の頭の上が最も居心地良い。本音を言えば胸元の方が良いがな』
「あ~、だめだめ。
それだけは認められませんねえ」
知れた冗談を交わし合いながら、湯に手を漬けて温度を確かめたアンズは、一度立ち上がって周囲を見渡す。
森の中にありながら、上天も吹き抜けで月明りもかすかに入って見通しは良い。
ただ、木々の向こうから獣が来ると面倒なことになりそうなので、それに対する警戒はする。
静かな山奥、何の気配も無いので懸念する必要は無さそうだが。
「テンジン様、もし何か近付いてきたらお教え頂けますか?」
『うむ、目は配っておくぞ。
お前の見慣れた裸体なぞに今さら興味など無いからな』
「そういう言われ方は女として引っかかるなぁ」
語らいを重ねつつ、アンズは巫女服の帯を解き、暗い中でも若干の光沢を放つ橙の巫女服を肌から離す。
すりすりと、布と肌と擦れ合う音が木々の間に響いた末、アンズは脱いだ巫女服を、そばの形の良い石の上に、脱いだ草鞋と共に畳んで置く。
纏うものがあと二つだけになったところで、今一度周りをきょろきょろと見渡して。
そばに何者もいないことなど承知であっても、やはり野外で裸になる前とあれば、再確認をせずにはいられぬのも乙女心である。
絶対に大丈夫、と重々確かめた上で、アンズはさらしを解いて、お尻に纏う最後の一枚もほどいていく。
畳んだ巫女服のそばにそれを置き、帰りには必ず必要になるそれの位置を再確認し、纏うものが一切無くなったその身体で森の湯へ。
足先をゆっくりと湯面に漬け、我が家で沸かす自分好みの湯よりもわずかに温いことを感じながら、膝まで、太ももまで沈めていく。
底に足が着く。腰が湯面の上で沈まず、太ももまでの脚すべてに、温かいお湯にじんわりと染み入る心地良さ。
両手で掬い上げた湯を、反らした自分の胸にかければ、温かいものが胸を、へその周りを流れ落ちて、身体の前面いっぱいを心地良く温めてくれる。
はぁ、と息を吐いて空を見上げれば、木々の頭でこの温泉を囲う穴開き天井の端、昇り行く月の放つ光の片鱗が微かに覗いている。
間もなく、真上に膨ら月が来るだろう。実に趣深い月見湯が目前だ。
アンズはなるべく音を立てぬ、ゆっくりとした足取りで温泉を歩き始めた。
中心に向かえば深くなり、腰が沈み、へそが濡れ、胸が湯に温められ、肩まで浸かる。
我が家の手製の浴槽では決して味わえない、地に足を着けたまま全身を温かい湯で包む新感覚に、アンズは水面下で思わず手を広げて胸を張る。
脚も開いて、立ったままでの大の字。空を仰いで全身で秘湯を味わう。
「あぁ~……とけちゃいそう……」
『くふふ、ご満悦だなぁ』
桃源郷はここにあった。
明日でもよかったところを待ちきれずに来たアンズであったが、来てよかったとしか思えない。
明日の昼は、ナルミと村を歩きたいのだ。知った湯を味わうという、限られた時間は今夜のうちに使いたかった。
明日の時間をこのために使わず、蕩けた身体でゆっくり寝て、明日いっぱいお母さんと遊ぶ。
ああ、なんて幸せな今と明日。アンズの恍惚に溢れた表情は、テンジン様もそれを見て満悦に浸れる。
雲に乗って空を飛ぶ神様の力を私事に使ってここまで来たこと、神様もはなから咎める気も無いが、これだけ我が子が幸せそうなら、神力濫用も歓迎だ。
「すっげぇ面倒なことになってんですね。
誰も悪くないし」
「そうだな。
誰も悪くはないな。誰もな」
「誰もね」
タケスエから一通り事情を聞いたコナツは、あぁめんどくせぇなと苦笑い。
表情をあまり変えないタケスエですら、このくそ面倒臭い事情には笑っている。
二人とも、笑顔が若干に皮肉的だ。誰も悪くないとは言っているが、悪い奴は一人いる。
でもそのお方は、流石にこんな酒の席であってすら、批難する口を叩ける相手ではないので、コナツもタケスエもそのお方のせいにはしない。
わざわざ口にして、内心を確かめ合って笑う二人の態度からも、誰が悪いのかは二人とも確実に認定しているのだが。
「アンズ、昔っからもててたんだなぁ」
「とはいえ、まさか皇族様から求婚の話が来るとは俺も思わなんだよ。
叔父か兄のようにあの子を見守ってきた俺からすれば元より可愛いのだが、世間的に見てもあいつはやはり美人なのだろうな」
昔々、アンズが十一歳の頃である。
アンズが山波神社の巫女を襲名したのは十五歳の頃であったので、当時のアンズはまだ神職者ではなかった。
しかし当時から――いや、それよりも何年も前から、アンズは山波神社の巫女として生きていくのだという決意は固く、三年後の襲名を既定路線と誓っていた。
ナルミの膝元で血の繋がった実子のように育てられて尚、やはりずっとそばにいてくれる父、テンジン様への信仰を取り戻すことは昔から願っていたのだ。
危険なことも多いゆえ、テンジン様に、巫女以外の生き方を選んでも責めぬという言質を頂いておきながらだ。
それだけ、幼い頃からアンズは巫女になる自分の未来しか描いておらず、その想いは確固たるものだった。
話がおかしくなったのは、帝の実子であり長男、つまり次期帝として最有力候補とされる皇殿が山波村へ訪れた時である。
籍を抜いたとはいえ元皇族かつ、山波村という国一番の村を見事に治める玉依鳴御と、皇殿のご対面の機会だ。
ナルミが京を離れたのは、皇殿が生まれて間もない頃のことなので、両者の間に直接的な面識は無かったに等しい。
やがては京の政治の頂点に立つことが見込まれる皇殿、気品も辣腕も語り継がれるナルミとの面談を彼自身が望んだとされる。
向上心旺盛かつ行動力のあるな皇殿だ。若くして人の上に立つ器が、その時点で垣間見える。
あらかじめ言っておくが、皇殿は皇族として極めて優秀かつ人徳もある。名誉のためにも、これだけは忖度抜きに強調されるべきことだ。
生まれながらにして下々の民すべての上に立つべき地位にありながら、既に皇族でない女性に教えを請おうという謙虚さは、皇族として異色なほど柔軟である。
ただ、若かった。
貴人ナルミとの面談は皇殿にも実り多い時間であったが、それが終わって間もなくして、アンズも皇殿に御挨拶する時間が訪れる。
緊張こそしたものの、十二歳ながらも皇族という存在の重みはしっかり理解し、正しき背筋と平伏を以って謁見を果たしたアンズはよくやっていた。
当時巫女でなく、奇抜な服も着ておらぬアンズに、礼儀の良く出来た子だ、流石ナルミ様の育てた子、と皇殿も好印象。
未来の神職者としてこれならば安泰であろう、と内心で評価しつつ、面を上げよ、と皇殿が命じたのが運命の狂うきっかけだった。
よりにもよって神職者に一目惚れなさるなよ、皇殿。
神妙な面持ちで顔を上げたアンズは、失礼が無いよう精一杯気を付けながらも、懇意を表す持ち前の笑顔を見せた。
極めて厄介なことに、その幼く可愛らしくも、数年後の美人を予感させる面立ちが、皇殿の恋心をぶち抜いてしまったのだ。
この時、自分相手でも堂々としていた皇殿が、アンズの顔を見るや否や若干しどろもどろする様を目の当たりにしたナルミは、まさかと背筋が寒くなった。
そしてその時ナルミが感じた懸念は、数日経ってから現実のものとなる。
ほんの十日後である。
京にお帰りになられた皇殿から、アンズに向けての求婚の文が届いたのは。
これは早い。明らかに早過ぎる。
何故なら皇殿がアンズへの求婚を考え付いて、それを他者に話したとなれば、絶対に止めが入る。
他ならぬ皇殿の父、帝すらも強く反対したであろうに、僅か十日でそんな話が形になったということは、余程に皇殿が押し通したとしか考えられない。
「俺もわかってるつもりではいましたけど、神職者への求婚ってそんなに繊細なんですね。
皇族の方が望んでも、そう簡単には叶わないぐらいには」
「むしろ皇族だからこそでもある。
政治の頂点と宗教の結び付きが直接的であるのは相当に厄介だ」
皇殿はアンズより年上だが、さほど歳も離れてはいない。恋愛関係を結ぶには健全ですらある。
互いの立場を無視すれば、二十歳に満たない男が歳の近い女に惚れ、周囲の反対も押し切ってその恋心を貫くという、なんだか心温まる話であろう。
皇殿が皇族でははく、アンズが神職者を志していなければ、本当に綺麗な物語が出来ていたに違いない。
言うまでもなく皇族様に見初められたとなれば、身に余る光栄に他ならず、それをお断りするという選択肢はあり得ない。
だが、アンズが皇殿に嫁入りし、神社を離れる話となれば事情は大きく変わる。
何せアンズの両親が夭折し、山波神社の神職者の血を引く者は、アンズ一人しかいないのだ。
つまりアンズが嫁入りし、巫女となることを放棄すれば、山波神社の一子相伝の神職者はいなくなってしまう。
それを踏まえればテンジンが、アンズに巫女とならぬ道を歩んでも良いと赦していたことが、どれほど寛容な御言葉ことであったことも知れるというものだ。
如何に信仰が薄れた昨今とは言っても、この婚姻が実現すれば、国一番の村の由緒正しき神社を、実質的に取り潰すことになる。
皇殿との婚姻で、婿入りなどという判断は存在しない。
皇族入りすることあらば、アンズがそれに並行して神職を果たすことも叶わない。
神社を存続させる唯一の道があるとすれば、山波神職者の血を引かぬ者を引き入れること。
アンズがいるのに? 一子相伝のこれ以上ない神職者候補が、しかも当人がその道を強く望んでいるのに?
それは神様に対し、神社を潰さないためにはそれも仕方ないでしょ、と言ってのける所業である。
神罰すら覚悟すべき傲岸不遜そのものだ。
たとえ神様からの恩恵を多くの人が期待しなくなるほど信仰が薄れても、神様が御怒りになって下す神罰への恐怖を拭えるか。
神様を怒らせるようなことをした矢先、嵐や干害、地震や稲妻が人里を襲っても、関係ないよと数多の犠牲の上になお言ってのけられるか。
初恋に盲目になった皇殿の求婚とは、まさに神をも顧みぬ暴挙だったのである。
若い恋心だからと人情を以ってすれば理解しつつも、皇殿を取り巻く出来た大人達は頭を抱えたものである。
前しか見えなくなった我が子に、こんこんと説き伏せても聞かぬ様に、帝も半ば匙を投げるかのように覚悟を決め、じゃあもう求婚してみろと認めた。
そうして世の中思い通りにはいかぬであろうことを学べ、と、神の怒りを買うことも覚悟で躾に踏み込んだ帝も、決して忖度無く良く出来た人物だ。
京における皇殿の忠臣らも、帝の判断が下るまでは必死で皇殿を止めたのだが、帝の判断とあらば致し方無しと黙るしかなかった。
神の怒りを心底恐れながらだ。間違った結末に繋がろうものなら、帝への信頼そのものにすら傷が入ったであろう。
余談であるが、大奈京から山波京に遷都されるまでの過程には、神罰とも見紛うほどの大いなる災いが大いに関係する。
人智を超えた災いには、歴史的観点からも人々は敏感なのだ。凄まじさのあまり無視しようがない。
あまりにも恐ろしく、言葉にするには憚れすらするので史実の程はご勝手にお調べ頂きたいが、神様への畏怖とはそれだけ根強く然るべきものということだ。
皇殿の周りは頭を抱えていたが、はらわた煮えくり返るほど頭にきていたのは、テンジン様ではなくナルミである。
いや、テンジン様も怒ってはいたが、それは神としての感情ではなく、父としての憤慨だ。
何せ皇殿からの求婚という、庶民たる己には決して断れようもない話を、巫女となる未来を捨てて選ばねばならないアンズの苦悩がそこにあったからだ。
それを目の当たりにした父親と母親の怒りなど、言うに及ばぬ話であろう。
アンズが巫女を志す想いには、確かに山波神職者の血を引く唯一であることもあっただろう。
それ以上に、両親を喪って天涯孤独となった自分に、いつしか語りかけてくれて、独りでないようにしてくれたテンジン様への恩義が何よりも大きい。
アンズのテンジン様への慕情とは、主神に対するそれ以上に、第二の父に対するものとして年々強くなるばかりのもの。
巫女となり、信仰を取り戻し、世を去る覚悟もしていた神様たる父に、この世にい続けられるよう心魂を徹するのが、アンズの長らく夢だったのだ。
一番悲しくて、寂しくて、どうしようもない時にそばにいてくれたお父さんに、いなくなって欲しくないという、幼子であった頃からの一途な夢。
青天の霹靂の如く舞い込んだ、巫女を諦めて皇族に嫁げという、逆らえぬ命題に直面した愛娘の悲運は、ナルミやテンジンにすれば憤慨の対象そのものだ。
それでもアンズは、何日も、何日も、何日も悩み抜いた末、ナルミに深々と頭を下げて結論を出した。
私は嫁ぎたくない、それで不敬による斬首を命じられたとしても。
私は神様に仕える身でありたい。大好きな神様から離れたくない。
自身がそれを貫けば、彼女を躾け育ててきたナルミに、皇族からの強い批判や実害があろうことすら、幼心に理解して。
畳に額をこすり付け、孤独な私を受け入れてくれたお母さんに、迷惑をかけてしまうことを承知しながら、尚も譲れない想いを震える声で。
やんちゃだった愛娘が、涙ながらの我が儘を、己の命も顧みず訴えた姿には、母たるナルミも如何なる想いであったことか。
結論から言うと、ぶっち切れた。
ナベツナもトキガネもタケスエも引き連れて京に至り、さらには現地でミツサダをも従えて。
冷徹な面構えで皇殿の内裏へと乗り込んでいくナルミ達の姿には、彼女が何者かであるのかを知らぬ民ですら、本能的な恐怖から道を開けたという。
殴りこまれた皇殿は、先日親しく語らっていたはずのナルミの放つ気魄に、刺客でも来たのかと戦慄したそうな。
実際、彼女が引き連れた四天王の放つ殺意めいたものは、皇族に向けるものとは思えぬほどぎらついたもので、刺客と呼んで冗談で片付く次元でもなかったが。
娘を泣かされたナルミの怒りと同様、孫か妹か姪のように可愛がっている子を泣かせた皇殿への怒りを、侍衆が眼光に携えてきたら金玉も縮み上がる。
かくして、長い協議の末に皇殿とアンズの縁談は破棄となったのであった。
不敬と見做されて斬られる覚悟もしてきたナルミ達であったが、そうはならなかった。
そんなこと命じる馬鹿は奴はどこにもいない。死ねと言われたら、あぁそうですかと激暴れする五人だもの。
大儀と呼ぶには相応しくないが、可愛い身内を浅慮で泣かせた皇殿と、それを食い止められなかった周りの一部を殲滅するぐらいのことは絶対やる。
身内を傷つけられた者の怨みほど恐ろしいものは無いのだ。そんなこと、怨みを買いやすい政治家が一番よくわかっている話である。
これも余談であるが、帝への評価は内々で結構上がった。
破談になることを見越して、化け物達にぐうの音も返せず叩きのめされた次期帝への教訓を残し、覚悟を決めて"求婚は"認めた結果、結末は丸く収まったのだ。
案外ナルミも、帝に対しては恭しく敬意を込めた御挨拶にも赴いている。
難しい立場でよくぞその判断をして下さいました、おかげで私もあのお方に想いの丈をぶつける機会すら得られました、と。
上の上の上の方々は、やはり高次な世界で敬意を交わし合うのである。
「で、その皇殿が今のイナリ姫の旦那様、と」
「後から知ったのがまずかったな。
とりわけイナリ姫は嫉妬深いもので……気持ちはわかるんだ、気持ちはな」
さて、そのしばし後。
初恋がたいそう苦い形で壊れた皇殿ではあったものの、それは誰しもが経験し得ること。
皇族という立場でここまで夢破れることは珍しいが、若者相応の挫折にも、皇殿は落ち込む日々もあれど立ち直り、やがて正室を迎える日が訪れる。
それが、京と幕府の融和を図る大人の都合で巡り合った、皇族の中の皇族である皇殿と、幕府の大将軍の血縁者たるイナリ姫の婚姻である。
実は両者の婚姻は、そこまで帝も大将軍も強く推し進めていたわけではない。
政治的に幾度かやり取りし合う中で、両陣営の間で縁が結べれば、という話は双方から出ていたものの、皇殿の立場が重すぎる。何せ次期帝だ。
両陣営ともさして性急に話を進めるつもりはなく、ある日ふいに、ちょっとしたきっかけで皇殿とイナリ姫は巡り合ったに過ぎなかった。
超複雑な立場にある神職者に一目惚れし、周りの反対も押し切って婚姻を進めようとした姿だけ切り取ると色呆け皇族様だが、それもあくまで若気の至り。
皇殿は基本的に利発で、賢く、幼さが顔を出してしまったあの一回きりにさえ目を瞑れば、人徳もあり非常に優秀かつ魅力的な人物である。
次期帝第一候補として、父がしっかり育ててきただけのことはあるのだ。
逆に考えれば、ある日ふと抗えないほどの恋心に目覚めてしまうと、それほどの人物ですら呆けてしまうことはある、ということ。
色恋話はいつの世も魅力的な物語を紡ぐものだが、悪い方向にはたらいた時、偉人の人生をも狂わせ得るほど恐ろしいものだということだ。
傾国の美女、という言葉もあるだろう。恋で人を狂わせれば、国すら滅ぼすことすら可能という言葉は何ら大袈裟なことなど無い。
かなりの男前かつ長身である皇殿に、イナリ姫が彼に一目惚れしたというのも、決して彼の肩書きを意識してではない。
政略結婚など幼き頃から覚悟していた彼女が、相手の立場も理解した上で、結ばれるならこのような男性がいいと心から思えたのだ。
今度は、こちらが初恋だったのだ。これには京も幕府も色めき立つ。
そして幾度か改めて両者を引き合わせてみれば、皇殿もイナリ姫に対しては好印象ときたものだ。
最近のアンズに対する過剰な仕打ちだけを切り取ると、イナリ姫の苛烈な性分が際立つが、彼女もそれにさえ目を瞑れば良く出来た人間なのだ。
十五歳とは思えぬほど博識で、それでいてなお勤勉で、下々にも優しく、人の上に立つ器でありながら傲慢でもない。
アンズが関わった時だけおかしいのであって、今でも京では余所から嫁いできた身ながらも、気難しい貴族はおろか皇族らからも一目置かれているほどに。
皇殿も、魅力的な彼女が熱烈に、希うように縁を求めるその健気さに絆され、縁談を決意するには充分なものであった。
晴れて二人は縁談を結び、仲睦まじいおしどり夫婦として理想的な関係にある。
政略結婚にして恋愛結婚。どこの皇家も武家も公家も羨むほどの、本当に幸せな結婚であったのだ。
「そりゃそれだけ大好きな旦那様の初恋が、よりにもよって身近にいるとなれば……」
「イナリ姫は対アンズに対する深き嫉妬の狂いぶりさえなければ、確かに姫君として御立派な姫君なんだがな。
俺は、その一点を以ってやはり肯定してはやれぬのだがね」
果たしてどのようなきっかけで知ってしまったのかは不明だが、幸せに溢れた新婚生活の中、イナリ姫はかつて旦那様には初恋の相手がいたことを知る。
イナリ姫は昔からやきもち焼きなところがあって、それを知った時点でも、若干面白くはなかったようだ。
私はこんなにこの人のことが好きなのに、この人にはもしかしたら私よりも好きな人がいるのかもしれない。
初恋が叶って今が過去一番に幸せだからこそ、イナリ姫も初恋の特別さをよく実感している。失恋しなかったからこそ尚更にだ。
決してそんなことはないはずなのだが、もしかして私は旦那様にとっては、かつて惚れた女の代わり、つまり二番目?
もやもやするイナリ姫。でも、それを旦那様に問い質して、面倒な女だと思われて嫌われるようなことだけは絶対に嫌。
吐き出すことも出来ずに心に澱を溜めていき、いつしかやきもちという可愛い言葉から、嫉妬と呼ぶに相応しい蒼い炎が灯り始めて。
そして、アンズが十五歳を迎え、神職者を襲名して間もなくの新年、ナルミと共に京へと御挨拶に赴いた時、それはついに大爆発を起こしてしまったのだ。
実はアンズは、ナルミが京に訪れるに際して同行する際、イナリ姫とも幾度か面識があったのだ。
しがらみが無いうちの二人は、今の二人の関係からは想像できないほど、親しく、仲良く過ごしていた。
アンズも相手の立場はわかっていたし、二つ年上だからと言ってそれらしい態度で接することはなかったが、イナリ姫はアンズを可愛がっていたぐらいだ。
イナリ姫は可愛いものが好きである。アンズのことをなでなでするのが好きだったらしい。
神職者への道を進むことを既に決意しているというアンズに、応援しておるぞ、と心からの笑顔で激励もしていた。
まあ、その頃でも、身体が育たないイナリ姫が、発育の良いアンズにやきもち焼いて胸を揉んだり。
いつもナルミお姉さまと一緒何て羨ましいぞ、と妬いたり、イナリ姫の嫉妬しやすさは片鱗を見せていたのだが。
それだけ、アンズが皇殿の初恋の相手だとわかる前は、イナリ姫もアンズには好意的に接していたのである。
久しぶりに顔を合わせたアンズに、あの日のことを口には出さずに若干申し訳なさそうな顔をした皇殿に、イナリ姫の女の勘が敏感に反応した。
しかも、最も致命的なのがこの後である。
口にはしなかった、しなかったとはいえ、皇殿は久しぶりにアンズの顔を見て、やっぱり可愛いなぁという目をしてしまったのだ。
イナリ姫の胸で燻っていた蒼炎が、旦那様やナルミの前であることも憚らずに炎上し、元より一度怒ると収まらぬイナリ姫の凶暴性が初めて京で現れた。
恐ろしいほどの癇癪を起こしたイナリ姫により、その新年の場は阿鼻叫喚となり、アンズが腰を抜かしたという話は未だに語り草。
さしものナルミですら、想定外の出来事かつ、想定していたとしてもそれを上回る激甚さに、場を収めるのに相当苦労したという。
「それ以来ってことは二年前でしょ?
根深いっすねぇ」
「最愛の旦那様の心の中に、まだアンズが残っている気がしてならんのだろう。
俺にはわからん。同様の経験はないからな。
だが、理解できぬとは言えん。それだけ迫真であることも、事情を知った上で見ればわかるのだ」
心からの愛というものは何にも代えがたいほど強い感情だが、それが敵意に転じた時もまた、愛が強ければ強いほど凄まじい。
イナリ姫の皇殿に対する愛は本当に強いのだ。
恋心を抱かせてくれた人、そして受け入れてくれた人、恋愛結婚などというものは叶わないと思っていた姫君の人生に望外の幸せをもたらしてくれた人。
そんな人の一番が自分でないかもしれないというのは、心をかきむしって狂いそうになるほど苦しい。
その苛立ちが、今はアンズへの攻撃性で発散する他無いのである。
アンズは求婚されただけで、泣くほど悩んでお断りの決断を下して、苦しめられた立場である。
それがあの日も過ぎ去った今になって、いきなり激しく嫉妬されていじめられる。理不尽であり、極めて気の毒な被害者でしかない。
しかし、イナリ姫だって自分のどうにもならない感情を抑えられないのだ。
アンズを責めるのはお門違いなのは、頭ではわかっているはずである。
その上で、対面してしまえばどうしたって苛立って仕方ないのだから、理屈でどうにか解決できる次元ではないのだろう。
加害者であり被害者。最愛の旦那様に、一番やってはいけない形で不義をはたらかれたという点では、イナリ姫にも同情の余地はある。
嗚呼、つくづく皇殿がアンズに一度惚れていなければ。
あるいは最悪、あの日アンズをあのような目で見ることさえしていなければ。
皇殿も二度やってしまった自覚はあり、だからこそアンズやイナリ姫には頭が上がらないところがある。
話を突き詰めると、この一番偉い人を槍玉に上げるしかなくなるのだから、なるほど誰も語りたがらない秘密の話となるのも当然である。
「まったく、女は怖いな」
「アンズも怖いとこありますもんね」
「確かにな」
コナツもこれ以上論じるようなことはしない。詰めてもいいことなど一つも無い。
知りたいことを知れただけでも充分だ。
どうにもならないことだけが明確にわかってしまい、これはこれで煮え切らない気持ちにもなるが、知らないままでもやもやするよりは良いだろう。
コナツもそうして己を納得させるばかりだった。




