第七九話 ~アンズもコナツも十七歳~
朝を迎えたアンズ達は、近滋宮村を出発する。
長居は無用。なにせ私事を終えた皇族、イナリ姫が異国の地にのんびり過ごしていたら大いに問題ある。
万が一その身に何かあろうものなら、倉鎌幕府の将軍家から京へ嫁いできたイナリ姫なのだから、洒落にならない東西政争の火種となってしまう。
ただでさえ彼女の我が儘で始まった近滋国への旅行なのだ。用が終わればちんたらしていてはならない。
早朝に、村を出るイナリ姫の籠を中心とした一行は、詠開きの主催者らのごく一部、三名に見送られた。
村からすればお客様の見送りをしないという不躾は考えられないが、庶民が容易に関わってはならぬイナリ姫もいるというのが難しいところ。
というわけで、詠開きの主催者である村長と女房、そして長男のみの三人で、イナリ姫やナルミに御挨拶して見送る運びとなった。
本来ならば主催陣みんなで、感謝の意を込めて見送りたかったであろうところ、やはり皇族様の存在は庶民の行動を著しく阻害してしまう。
もっとも、皇族様をお目にかかれたということでも村は大盛り上がりだったので、総合的に見れば光栄の方が遥かに勝っているのだが。
イナリ姫もいくらか慮ってか、籠から出てその御姿を見送りの前に晒し、楽しかったという意を趣深い詩にして詠み伝えもした。
どのような詩を詠んだのかはご想像にお任せする。
姫君からのありがたい詩を頂いた村長らに、身に余る喜びを授けたイナリ姫は、アンズ達と共に近滋宮村を発った。
彼女の急な来訪は様々な人を振り回したが、終わってみれば近滋宮村の人々には、素敵な思い出ばかりを残せたと言えるだろう。
済んだ苦労など笑い話だ。急な接待による途方もない出費すら、あれほどの人物をお目にかかれたという思い出と比べれば安いものである。
波乱に満ちた旅行の往路は、総じて言うなら瑕の無い旅情であった。
一行は、近滋村に直行する。
近い上に、来た時ほどゆっくりとした進行ではなかったため、昼を迎えるほどの時間もかからずに到達し、一日この村で遊んで帰る時間も余るほどだ。
しかし、先述のとおりイナリ姫は一日も早く京に帰るのは望ましい立場だ。
籠は揺らすことになるが、急げば今日のうちに山波京へと帰り着くことも難しくはない。
アンズもそれはわかっているので、このまま近滋村を通過して、京までイナリ姫を護送する運びとなる想定だった。
「……アンズ、ちょっとこちらに寄れ」
「え?
はいっ、なんでしょうか」
近滋村を進む中、籠の垂れを自分の手でめくって手招きするイナリ姫に、アンズはびくっとして駆け寄っていく。
籠を運ぶ人足も一度止まり、アンズは籠の前に正座して用件を拝聴する。
天下の往来で膝に砂がついても、皇族様相手となれば頭の高いことは出来ない。
「妾はこのまま京へ帰る。
ナルミお姉さま、コナツ、タケスエとそなたは、この村に残れ。
旅行をここで終わりにさせるわけにもいかぬでな」
「…………へっ」
先日ナルミに叱られて一時はしおらしくなっていたイナリ姫だったが、昨日辺りからはアンズを睨む眼も復活しており、やはりアンズには怖い相手だ。
呼ばれたからにはどんな無茶振りや暴言があるのだろうかと、内心震え上がっていたそんなアンズに、この提言はたいそう不測。
裏返った声が出たほどである。瞬時に、姫様相手になんて口利いてんだとはっとして、顔面蒼白になって口を覆いもする。
イナリ姫はその不敬を責めるでもなく、呆れたように溜め息だけ吐いて、なるべく敵意の無い目でアンズを見据えるよう努めている。
「そなたの家族旅行をもう邪魔はせん。
……それだけじゃ」
「イナリ。
殊勝な心がけは結構だけど、護衛を四人も減らして京へ向かうの?
あなた、現の皇族としてその判断が拙いことを承知しているのかしら」
本当は邪魔してやりたいし、ナルミお姉さまと近滋村で遊んで帰りたいという顔が透けて見えるイナリ姫だが、ナルミが歩み寄って神妙な声で説く。
ナルミは跪きもしない。籠から顔を出した姫君を見下ろして、かなり痛烈に批判している。
アンズが凍り付いている。籠の中の姫様も怖いが、私の隣で仁王立ちするこの母も、本気で怒ると尋常でないほど怖い。
怖いもの知らずの皇族イナリ姫が、明らかに目を泳がせてうろたえるほどには、それを見下ろすナルミの眼光も鋭いのだ。
アンズを理不尽に責め立てるイナリ姫が燃え盛る刃と例えるなら、許せないものを本気で糾弾して貫くナルミの言葉は凍て付いた氷柱であろうか。
「コガラシやユキタダをはじめとする十人の精鋭が、必ずあなたの命をその身に代えても守り抜いてくれると信じているのよね?
不測の事態あらば、あなたの身体が籠の中で幾度も傷付けられようとも、京への帰路を急ぐことを至上とするのね?
答えなさい、皇族の姫君」
「…………そ、その、つもりです……
つくづく、配慮に至らなかったことを恥じてもおります……」
「はぁ、まったく……
十五歳の幼さであることなど言い訳には出来ないのよ、皇族というものは。
身勝手な行動は、それを省みることが出来たとしても、それによった歪みを正すには手遅れであることもあるということを努々覚えなさい」
「返す言葉もございませぬ……」
アンズの家族旅行の邪魔をしに来たイナリ姫にはナルミも思うところが多々あるが、公的な意味でも言うべきことは山ほどある。
突発的な出発に、護衛の数も揃えられなかったことで、万一あれば戦争の火種にもなる己の立場を危ぶめて。
それを改め、もう邪魔はしないという方針に改めるのは結構だが、アンズ達と別れるということは有力な護衛の一部を捨てて帰ることでもある。
近滋村から山波京へは比較的近いが、それでも五里以上の距離を薄い自衛で敢行するというのは、イナリ姫の立場を思えば暴挙である。
そもそも数ヵ月前、倉鎌への里帰りで百に足りぬ護衛ですら、皇族としては不備と見做されるほどだったことを、無かったことになどしてはいけないのだ。
何事も無かったから良いものの、往路の時点でもナルミは呆れていた。
まして復路でさらに護衛を減らす? 馬鹿を言うんじゃないと叱る他ない。
失敗してもその後が大事。確かにそうである。
しかし、取り返しのつかない失敗というものも必ずある。
現にイナリ姫は、ナルミに叱られてアンズの家族旅行を邪魔したことを少しでも改めようとしたところで、更なる問題を生じさせる始末なのが現状。
皇族だからこそ、一つの誤った判断が政治は勿論、多くの人々の運命を捻じ曲げ得ることを、もっと自覚しろとナルミはこんこんと訴えたい。
「近滋宮村から京に文を送って頂いているわ。
今で言えば本日の昼頃には、イナリ姫も近滋村に到着するでしょうと。
そろそろ京からの護送陣がこの村へと揃って着く頃でしょうから、その方々と共に京へと帰りなさい」
「お、おねえさま……」
「やべえなお前の母ちゃん」
「びっくりするほど仕事の出来る人です……」
イナリ姫が改めようが改めまいが、近滋村から山波京への帰り道、充分な兵力が合流して帰路を守れるよう、ナルミは既に計らっていたようだ。
現に今頃、村の南部の入り口では、数十名の武士と陰陽師がぞろぞろと村に入り込んできているところである。
たとえイナリ姫が今日ゆっくりこの村で過ごしてから帰るなどと宣っても、明日はその護衛の頭数は今よりずっと心強くなろう。
若者の浅慮を補うのは、いつだって年長者の仕事である。甘えてよい。
ただし、反省はすべきである。これほどの失態なら、つくづくに。
「京に戻れば、詫びるべき相手にはみな頭を下げること。
一人相手にでも怠ったらもうあなたのことは見限るわ。
よく考えて、言葉を選び、皇族としてあるべき態度を示しなさい」
「しょ、承知、致しました……」
いつの間にか籠の垂れを人足に握って貰っていたイナリ姫は、籠の中にしてナルミに平伏する。
現皇族は元皇族よりも遥か上の立場だ。天から地を見下せるほどに。
それでも、イナリ姫をここまで説き伏せて跪かせるナルミの論駁には、コナツも流石アンズを育てた人だなぁと感服しきりである。
アンズはぶるっと背筋を震わせていた。
やんちゃするたびこの母に厳しく叱られてきた彼女は、いま本気で怒っている、姫君をも圧し潰す気迫を纏うナルミに恐怖以外の感情など生じなかった。
大好きで、心から尊敬するお母さんである。それでもイナリ姫より遥かに怖い。
ナルミが顔を上げられず、縮こまった正座を貫いているアンズの姿も併せて、このじゃじゃ馬の手綱を握る母親ってのは流石だな、とコナツは思うのである。
しばらく村の広場で待っていたら、京から派遣されてきた兵力が、わらわらとイナリ姫の元へと合流してきた。
周りをそれなりにざわつかせてしまったが、籠の中におわすのが何者であるかは特に明かさず、速やかに村から去っていく。
皇族様がいらっしゃるなんてことを公開したら、その瞬間にこの村に今いる人達の平穏が吹っ飛んでしまうからだ。
姫様など今日この村には来なかった。そういう設定で押し切る。
皇族が訪れたことを知っていて、跪く村人が一人もいなかったとなれば話がおかしくなる。皇族というのはそういうものなのだから。
イナリ姫がこの村を訪れていたことを理解しているのは、昨日この姫君を泊めた村一番の宿の者達だけでいい。
それを承知し相応に振る舞うのも、皇族を迎え入れる宿の甲斐性である。
ところで、広場で待っている間は暇な時間が生じたのだが、コナツは京の武士たるコガラシや、陰陽師であるユキタダと話して時間を潰していた。
京でもそれなりの地位にいる二人と、根無し草の農民コナツでは、本来、歳の差もあって気軽に話せる間柄ではないのだが。
コナツは以前のイナリ姫護送任務で相当に名を上げており、京の先兵らの間では既に一目置かれている。
コガラシもユキタダもコナツが礼儀を知る若者だとは知っていて、妥当にコナツが敬語を使う他は、親しく話せる関係となっているようだ。
「――う~む、俺もイナリ姫様に仕える立場だからな。
そうそう気軽に事情をぺらぺらと話すわけにもいかんのよ」
「やっぱそうですよね。
差し出がましかったかな、すいません」
「…………まあ、今や皇族に従う立場ではないタケスエどのならご存知かもしれん。
あの方は寡黙であるが、意外に気さくであるからな」
「お、ユキタダ。意外だな。
お前そんな裏道を人に教える奴だったか」
「こいつでなければ厳しく突っぱねるが、巫女アンズと親密な友人であろう。
興味が湧くのは致し方あるまい。知るだけの意義もある」
「ま、そんなわけだから、駄目元でもタケスエどのに尋ねてみろよ。
勿論、俺達がこんなことを言ってたことは墓まで持ってけよ?」
「はい、わかってます。
ユキタダさん、ありがとうございます。
初めて会った時はしかめっ面で付き合いにくそうな人だと思ってたけど、話してみると良い人っすね」
「要らん要らん、一言多くされてもいちいち付き合わんぞ。
お前はあの気苦労の多い巫女の理解者であってやればそれでいいんだ」
コナツは二人に、イナリ姫がどうしてあんなにアンズを嫌うのか尋ねてみた。
実のところを言うと、コガラシもユキタダも知らない。
ただ、以前イナリ姫に直接尋ねた時、イナリ姫の旦那様――つまり帝の長子も関わる話だとまでは知れたので、そこまでは把握している。
それ以上は詮索していないし、後日知ろうともしていない。殿下も関わるような人間関係の歪みなど、知ろうものなら身に余る予感すらする。
どのみちコナツの質問には答えられないのだ。
ただ、ナルミは答えを確実に知っているし、最も彼女に近しく仕える一人のタケスエなら知っているだろう。アンズとも親密な人物だから尚更だ。
ユキタダは、自分が真相を知らないことをいいことに、こうすればわかるかもね~、程度の助言をしただけである。
自分が真相を知っていて、その真相を知っている他の人を教えるようでは、自分の口から真相を言っているのと変わらない。今回はその前提が違う。
屁理屈もいいところだが、それを建前と強引に言い換えるのも大人の技。
ぎりぎり主に弓引くことにならぬ一線を越えぬままに、コナツにアンズの理解者となれるよう知恵を授けるユキタダも賢しいものである。
イナリ姫のアンズに対する苛烈さはコガラシもユキタダも目の当たりにしているし、二人ともアンズのことは気の毒に感じているのだろう。
若者がいじめられていたら、直接助けることは出来なくても、少しはましにしてあげられればなと思うのが大人である。
コナツの冗談をっしっと手で払うユキタダも、万が一ユキタダが槍玉に挙げられても連帯責任で運命を共にする腹を決めているコガラシもそう。
知らないうちに誰かに支えられているアンズだが、そんなこと支え合って生きていくのが当たり前の農民らには、いちいち意識するまでもない常識だ。
わかっているから、アンズは己の手の届く限り、誰にだって優しくする。そうして善意は巡るのだ。
「頼むぜ、コナツ。
あんなに心身強い巫女の嬢ちゃんなんて、俺達だって支えたり守ってやれる器じゃねえのよ。仮にそばにいられたとしてもな。
歳の近いお前がよく見てやってくれよ」
「……あれはそのうち、無茶をして命を落としそうな怖さがあるからな。
我々のような京仕えの武人である大人ならともかく、まだ若く武人ですらない者の訃報など聞きたくはない。
縁ある限りで構わぬから、」
信仰のために手を広げているように見えて、その根底には、人の世の平穏を願う純真な想いがアンズにあることを、彼女に触れた大人はみんな知っている。
利益や人気取り、八方美人なためだけに命なぞ張れるか。凶刃による血を流したことがある者なら必ずそう言う。
決してアンズと関わった時間が長いわけでもない大人達に、そんな彼女の本質が伝わっていることが、コナツは無性に嬉しかった。
大好きな友達の理解者が増えて嬉しくない者などいない。
何度も命を落としかけても、懲りもせずにその道を突き進んできた後ろには、彼女が残してきた幾多の結果と、それを見届けてきた人々の目がある。
流した涙と血に報い、少しずつだが成果は現れているのだ。
遠く住む人々の心にアンズという少女の名が残り、彼女の幸せを心のどこかで願ってくれる人が増えてきている程度にはだ。
山波巫女の活躍とその名は、確実に広まっている。彼女の知らない所にも届いている。
イナリ姫と別れた後、まだまだ今日という日を残して時間のあったアンズ達だが、遺憾なことにのんびりと村を巡ることは出来なかった。
今日は、朝からナルミが咳をする回数が多かったのだ。
昨日、雨の下で詠開きの主賓を務めた上に、村を巡ったことも良くなかったのだろうか。
老いた体に雨天の中、忙しく動いたことはその身体には重かったのかもしれない。
そんな母の姿を見たアンズが、今日は宿でゆっくりしようと提案するのも自然な流れである。
ただの風邪とて人の命を攫うことは多々あるのだ。前兆らしきものを軽視することなど出来ない。
アンズがテンジン様に授かる神力の一つには、病を退ける力もある。
"咲"の字の雷鼓はその力を司るものであり、アンズやコナツが受けた毒を退けてきた実績もある。
アンズは冬でも露出が多いこの巫女服で外に出るが、彼女が風邪を引く懸念をしていないのは、この力があるからと言っても過言ではない。
もっとも、それ抜きにしてもアンズは風邪を引くことがあまり無いのも実態だが……
年中この格好で居続けていると変な耐性でもつくのだろうか。結果的に鉄人である。
ただ、コナツの大怪我を治すための神力を彼に注いだ時、その神雷が壮絶な痛みを伴わせたのと同様、この神力は巫女たるアンズ以外には決して優しくない。
老体には殊更痛烈だろう。風邪を治せても、身体に相応の痛みと傷を与える。
コナツのように若くて自ら傷を治すのが早い肉体であるならまだしも、ナルミのような歳の身体には、その神雷による後遺症の方が深刻となるであろう。
いかに神様の力とて、天寿を覆すことは出来ないということだ。
自身の不調で旅行に水を差したことを、ナルミも気にする顔をしていたが、それもアンズの一喝が余所へやってしまった。
聞き分けのないこと言わないの! というお叱りを受けたら、ナルミも自分が幼い頃、母に叱られた時のことを思い出してしまう。
愛娘にそんなこと言われるなんてどんな立場逆転なのよ、と思わず笑ってしまえば、案じてくれるアンズの心遣いを受け入れる他あるまい。
アンズも母として慕い、長い付き合いともなれば、どんな言葉が母に効くのかもなんとなくわかるのだろう。
本当に、子供というのは親の知らぬうちに、親の思う以上に大きくなっているものだ。
こんなにも気持ちの良い叱責は初めてだとばかりに、ナルミも宿で静養することを素直に受け入れていた。
その後、宿でゆっくりするナルミの傍にはタケスエが付き、アンズとコナツは日中の村を色々練り歩いてきたようだが。
宿で二人の帰りを待つナルミは、なんだかあの子が逢瀬の時間を過ごしているみたいでわくわく。
しかし、思ったよりも早く、日も沈む前から二人が帰ってきてしまったので、そのわくわくも半減。
もっと時間を忘れるぐらい遊んで帰ってきていたなら、二人の仲が進展した気配むんむんで面白いのに。
勿論、アンズにもそれを言って顔を赤くもさせたが、横のコナツの苦笑いな反応からして、男女の関係が一歩でも進んだ気配は無し。
ご期待に沿えなくてすいませんね、という若干の気まずさすら匂うコナツの反応は、まだまだこの子に春は遠いなぁとナルミを残念がらせるには充分過ぎた。
さて、夕食時。
泊まりの部屋は別々でも、ご飯の時間は広間で一緒だ。
タケスエの口数は皆無だが、四人で談笑する楽しい夕食の時間。
宿も貴人ナルミ様が客とあらば料理にも気合が入り、アンズやコナツも御馳走の味に口の中が幸せ。
とりわけ小鮎の山椒煮は、山椒の味そのものが人を選ぶが四人の舌に刺さったようで、みんなおかわりを求めるほどには好評だった。
加えて、なんと言ってもしじみ汁はこの宿自慢の逸品であり、近淡湖で獲れる新鮮なそれをふんだんに入れた味噌汁は、出汁も満点の一級品。
味噌汁なんて、何だかんだで我が家の味が一番と言われるものだが、一流の料理人が作るものはやはり一味違う。客が最も親しんだ味に平気で渡り合ってくる。
清貧を宗とするアンズ、生まれと育ちと現状から贅沢を退けるコナツ。確たる意志あってそれを選ぶのは良い。
それでもたまには機会があるなら、とびきり美味しいものを食べる経験があってもいいはずだ。
舌が肥える心配などしなくていい。人間、再び手の届かぬ美食のことなんて簡単に諦めがつくから。そういうものだから。
「そういえばアンズ。
宿の御主人から秘湯の話を聞いたのだけど」
「秘湯? あったかいやつ?」
「ええ、地元では有名らしいのよ。
あなた、行ってくる?」
そんな夕食の時間の話題の一つだが、ナルミがアンズにとって非常に興味深い話を振ってきた。
神社の我が家で槽に湯を張り、裸体を沈めて気持ち良くなることを毎日やっているアンズだが、そんな文化は今のところ定着していない。
忙しい庶民に、わざわざ大量の湯を沸かせて溜めてまで、身体を綺麗にする習慣など根付かないのである。
アンズも余程好きだから毎日時間をかけてやっているだけであり、物好きだなと言われて妥当である。時代が追い付いていない。
しかし、少数派ではあるが湯に浸かることが、魂がどっか行っちゃいそうなほど気持ちいいことを知っている者は現世にもいらっしゃる。
それらも自分で大量の湯を沸かしてまで、というのはしたくはないので、その快感がいかに認知はされてようとも流行りはしない。
では、自分で作らなくても身を浸せる大量の湯があれば?
泉というものは各地にあるが、その中でも水でなく湯を沸かす特殊な泉も存在し、しかも深さや広さも充分とくればどうか。
生憎そんな色々と兼ね備えたものは、人里近くになかなか存在してくれないものだが、知る人ぞ知る山奥にひっそり佇んでいたりもする。
それが限られた人に認知されるようになれば、秘湯と呼ばれる宝に早変わりだ。
愛好者の間ではすぐ広まるので、秘湯にして地元では有名、という不思議な単語の組み合わせにもなりやすいが。
「それ、どこ?」
「ふふふ、やっぱり食いついた。
後で御主人に地図を頂いてくるわね」
「あ、いいよいいよ。
自分で聞きに行くから」
「お前本当に好きなんだなぁ」
「コナツもいつかやってみてよ。
お湯溜めて裸になって浸かって……み、て……」
・・・・・・。
「……やめろよ途中で黙るのは」
「コナツこそ何その顔。
いやらし~こと考えてるでしょ」
「お前だろ」
「あなたでしょ」
「なに想像したのよあなた達」
「「なにも!!!!!」」
でかい声を出さんでよろしい。隣の部屋まで響いて迷惑です。
十七歳は想像力豊かで何よりである。ナルミもタケスエも微笑ましい。
テンジン様なんて腹を抱えてうずくまり、笑い声を必死で堪えている。アンズの耳には届いているが。それで余計に恥ずかしい。
「……ごちそうさま!
宿の御主人に話聞いてくりゅ!」
「こらこら、食べ残しなんて罰当たりよ?」
「コナツ勝手に食え!」
あんなに美味しい美味しいと絶賛していたしじみ汁をちょっと残してまで、顔を真っ赤にして飛び出していくアンズである。
部屋を出てから熱くなった頬を両手で抱え、ぼふぼふ頭から煙を出しての早足。
だめだめ、これは我ながら本当に駄目。神様には内心で白状するが、コナツの裸を想像してしまった。
懺悔するほど、これは流石にやっちゃいけないことだったと貞操観念に基づいて悔いるアンズである。
すけべと呼ばれるのは我慢ならない。呼ばれて仕方ないことをしてしまったら後悔しかない。
「あらあらコナツ君、そこアンズが口を付けたところじゃない?
あなた、間接的にあの子と接吻してないかしら?」
「っ、ぶ……!?」
アンズが悶々している間、コナツもナルミに強烈ないじりを食らって激しく動揺していた。
普段の彼なら、何ですかそれとでも言ってあしらえていただろう。でも今は違う。コナツもコナツで変な想像をした直後。
男女間で串焼きを交換しても何ら思わぬ二人でありながら、こんなナルミの言葉にどきっとするぐらいには、今だけはアンズに対して普通の思考ではないのだ。
味噌汁を吐き出すことだけは耐えながらも、むせて咳き込むコナツの真っ赤な顔を、ナルミはたいそう良いものを見れた表情で御満悦。
間接接吻なんて概念も存在しないご時世に、閃いて一番効くところでそれを振れる頭の回転の早さは、流石の傑物たる元皇族にして現役村長というところか。
「ねえ、あの子どう?
あなたも悪からず思ってくれてるんじゃないの?」
「っ、げほっ、けふっ……!
いまっ、その話はしたくっ、ありません……!」
若い二人で村に繰り出すのを見送って、帰ってきても手応えが無かったことに残念だったナルミだが、このやり取りが出来ただけでもお釣りが余る。
初心なコナツの可愛い反応が楽しくてたまらないナルミをして、こうなると数刻前のがっかりも味が出てくる。
どちらにも脈が無さそうなら無さそうで、火の無いところに害の無い煙をぱたぱた燻すのもまた外野の楽しみ。
もう良い御年ながら、未だにいたずら心が抜けないナルミ。見た目は二十代とも見紛う美人でも、中身の一部はしっかりおばちゃんである。
「ねえねえ聞かせてよ、あなたが見てきたあの子の魅力。
私の自慢の娘なのよ? いいとこいっぱいあるでしょ。
思い返せば改めて、あの子のこともっと好きになれたりしない?」
「しませんよっ!
いや、元々あいつのことは普通に友達としてかなり好きですけど……」
「もう一声」
「かなりって言ってるでしょ、まあまあ強い言葉使ってますよ。
それ以上となったらもう、冗談で済ませちゃいけない範疇でしょ。
あいつ神職者なのにそんな軽々しくそんな話しちゃ……」
「私が許すわ。
私があの子の母で村長ですもの」
「村長関係ないでしょ、神職者のあれこれに」
「で、話を戻すけど……」
「戻さなくていーです!
生産性ないですからこの話! 時間の無駄ですから!」
ずっとくすくす笑って楽しそうなナルミに、掌の上でころころされながら大声出すコナツ。
ここまで顔を真っ赤にして狼狽えるコナツの姿など、これまで誰一人として見たことはないし今後もあるまい。恐らく、二度となさそう。
こんな彼を、短い付き合いで引き出せるナルミも只者ではあるまい。
コナツも翻弄されている自覚、相手の手の内に囚われている自覚があるから、無理矢理にでもこの話を終わらせようとするのである。
昼も思ったことではあるが、つくづくあんな突っ走り巫女の母として手綱を握っている母とは厄介なほど強いことを、改めてコナツは痛感するばかりだった。




