第七八話 ~祭の夜~
近滋宮村を開催地とする詠開きは、村全体をあげて行われる。
お祭りよろしく村の各所に出店が並び、こども祭りでそうであったのと同様、子供が喜ぶおもちゃを専門的に扱う出店も多い。
神事ではないので厳密な意味での"祭"ではないが、これを一種のお祭りと形容したがる庶民も多い。
やがては、神事でなくともこうした催しを、お祭りという言葉で言い表しても誤用ではない、そんな時代も訪れそうである。
さて、お祭り模様の近滋宮村だが、それはあくまで詠開きそのものの主題とは関係の無い盛り上がり。
賑わいを見せる村ではあるが、その中でも村の各地に点在する、"詠み場"と呼ばれるものがこの詠開きの醍醐味の一つを担う。
朱塗りの縁台に主催側の人が座り、そばには大量の薄い木の札と、既に磨った墨を擁した硯が置いてある。
生憎の雨天ではあるが、雨季ゆえ想定済みであり、縁台丸ごと覆う大きな特注の傘がそばに立ち、木札や硯を濡らすことはない。
そしてそのそばには、雨に晒されてはいるものの、笹の葉を幾枚も垂れ下げた笹が一本立てられている。
これが、良い役割を果たすのだ。
「ほら、アンズ。着いちゃったわよ?
さあ、何か詠んでくれるわよね?」
「やだ。お母さんにどれだけ頼まれてもそれだけは嫌」
そんな詠み場へ差し掛かったアンズとナルミ。
十二単で開催の詩を詠み上げていたナルミだが、今は私服に着替えて村巡りである。私服と言っても優雅な着物ではあるが。
流石に重くて引きずるような十二単のまま、裾を汚してまで村を歩くようなことはしない。雨が降っていようがいまいがである。
親子水入らずを気遣ってコナツやタケスエも同行はしておらず、イナリ姫も皇族と周知された今はもう、宿に帰ってお休み中。
皇族はそうそう人前に姿を見せはしない。ここまでの旅路とて、身分を明かさぬいわばお忍びで通用してきたことであり、周知されれば人前から姿も隠す。
結果、アンズはナルミを独り占めして、村を歩けている形というわけだ。
「それじゃ私が退屈しちゃうじゃないの。
聞きたいなぁ、あなたの詩。ね? ね?」
「そんな猫撫で声ですり寄ってきてもだめです」
『くふふ、そんなに嫌か?』
(笑われるからとかじゃなくて、自分でも詠んでて嫌になるんですよ……)
せっかく最愛の母と一緒にお祭りを巡っているというのだから、お母さんの要望に応えて喜ばせてあげた方がいいことぐらい、アンズもわかっているだろう。
それでも詩だけはどうしても嫌なのだ。文才が無いと自覚する者にとって、作文の披露など恥ずかしくて絶対嫌だと言うように。
他人からどう思われるかどうか以上に自己嫌悪が先立つので、どんな詩であろうが微笑ましく評価してくれる母の前とて、こればかりは嫌なのである。
「ふふ、しょうがないわね。
それじゃあ、あなたの代わりに私が詠もうかしら。
何か、目についたものはある?」
「ええと……それなら……」
詩を詠むのは断固拒否のアンズであるが、ここまで歩いて見渡してきた、村の風景に対する所感ぐらいなら言葉に出来る。
元より感受性豊かかつ、血生臭い世界に長く生きてきただけあり、こうした平穏な情景に対しては感慨も深い性質のアンズだ。
仮に彼女に詩を詠む才が備わってさえいれば、叙事詩よりも抒情詩で名を馳せるであろうほどには、本来からして情緒豊かである。
「……さっき、お団子屋さんの前通ったでしょ。
あそこで、お父さんとその子が札を持って話してたの、見た?」
「ええ、そうね。
微笑ましい光景だったわ」
「小さい子があのお団子屋さんを前にしてうんうん考えてたけど、あれきっと、通い慣れた地元のお店だと思うんだよね。
お父さんがそろそろ動こう、って言っても、子供の方が全然動かなかったもん。
店主のおじさんも、他のお客さんもいるのにその子の頭を撫でてたし、きっと顔馴染みの子だからだと思うんだ」
「ふふふ、良い所に目を付けてるじゃない。
それを、詩にしてみればいいじゃないの」
「だからそれが私には無理なんだってば……
ねえお母さん、代わりに詠んで? お願い、ね?」
「はいはい」
誰の目にも留まってはいないであろう、小さな、小さな、村の一角にあった風景。
それを切り取り、推測混じりではありながら、情景とその背景を語るアンズには、ナルミも嬉しそうな目を浮かべる。
同時に、惜しいとも感じる。それを詩に詠めば、評価される詩になるかはともかく、確実に味のあるものが生まれるのに。
我が子の才の恵まれなさを嘆くほど酷なことは無いのは重々承知だが、ナルミはアンズの感受性を目の当たりにするたび、詩を詠み合いたかったとも思う。
余談ではあるが、アンズが言うような当時のささやかな風景も、絵画や詩にしたためて遺せば、後世においては実に趣深いものになるのである。
甘味が貴重なこの時代、人でも蜜を舐められる躑躅の花を前に喜ぶ子供達の姿を絵に残せば、それは立派な風俗画だ。
京の皆様が現時点で残している数々の詩も、千年経てば当時の京の風景を物語る、貴重な資料となるだろう。けして崇高なことは書いていなくてもだ。
目聡く今の世を話し言葉でなら描写できるアンズが、文才や詩才に恵まれなかったのはどうにも巡りが悪い。
こういう人が才に恵まれていれば、現世を多くの風景を、後世に伝える歌人としても、歴史的に大きな意味を持つのだが。
天はなかなか二物をお与えにはなりませんね、という話である。
「札を二枚頂けるかしら?」
「はい。
ナルミ様であれば、代筆は必要ございませんね」
「ふふふ、自分の字で残していきたいもの」
ナルミは詠み場の縁台に腰掛ける初老の男性に、木札を二枚求めて受け取ると、硯に置かれた筆を取る。
多少の考える時間を挟んだ後、木札にすらすらと詩を書き下ろす。
達筆な草書である。貴人として当然だが筆慣れしたものだ。
「どう?
あなたの言いたいこと、ちゃんと詩に出来てるかしら」
「……お母さん、なんでも詩に出来ちゃうよね」
「ふふ、歌人というのはそういうものよ。
出来るようになっちゃえば、なんだって詩に残したくなっちゃうわ」
詩をしたためた札をアンズに見せてくれるナルミだが、聞いた情景をしっかり限られた文字数の詩に纏めている。
内容としては、お団子屋さんで詩を考える親子を見て、通い慣れた店を題材に詩を考える子供を想像し、眺めるだけでも実に和やかだ、という内容。
どんな五、七、五、七、七、の綴りであったのかは御想像にお任せする。
「さて、私も。
――んふふふっ、アンズごめんね? こんなの出来ちゃった」
「ちょっと!
私のこといじってる!」
ナルミはもう一枚の札に、今度は自分の所感で綴る詩をたしなめた。
内容としては、うちの子は詩を詠めないけど、余所様の詩人を眺めて色々想像する力があって、そこがまた可愛いんだよなぁ、という内容。
どんな五、七、五、七、七、の綴りであったのかは御想像にお任せするが、崩した字でなく楷書体で記されたその詩を見て、アンズも顔を真っ赤にする。
ナルミも御貴族様らしからぬ、俗な詩を詠むのは案外お好きな様子。
「それじゃあ、この二枚を飾っておいて頂戴。
並べて近い場所に、よろしくね?」
「はい、ご参加ありがとうございます」
「もぉ~……出来れば離して飾って欲しいなぁ……」
詠み場の男性に詩をしたためた札を渡すと、それをそばに立てた笹の葉に結び付けてくれる。
農民には字を書けぬ者も多いため、詠んだはいいが書けない、という人には、この男性が代わりに詩を札に書いてくれるようだ。
今日は村の至る所に点在する詠み場だが、ここも既に何人もの客が寄った後らしく、笹には何枚かの札が下がっている。
「ふふ、盛況で嬉しくなるわ。
みんな楽しんで下さってるのね」
「詠んで形に残せるだけでも、なんとなくみんな御貴族様の真似事を出来ているようで楽しいみたいですよ。
子供達は勿論、大人もこんな機会はなかなかありませんから、大人の方がむしろ楽しんでいるようにも感じられますね」
今は昼前、詩開き開催からそれなりに時間の経った頃合いであるが、各地の詠み場に立てられた笹に下がる"短冊"もそれなりに増えているようだ。
この日、木札にしたためられた詩をぶら下げた笹は、詠開きが終わってしばらく、具体的にはひと月ほど残される。
たとえこの日限りであろうと歌人となった農民らの歌は、そうして数日の思い出の象徴として残されるということだ。
識字率の低い農民の事情を鑑みれば、他人の詩はおろか自分の詩すら短冊を見ても読めない者も数多いが、楽しく遊べて一日の象徴として残れば充分なのだ。
毎日を農作業に追われ、家族や隣人と共に過ごす時間しか楽しみの無い農民に、一風変わった楽しい一日があったことを回想できる、それだけでも。
その一方で、字が読める主催者側の者達からすれば、みんなこんな詩を詠んだのかぁ、と、後日見返して楽しめる最高の娯楽でもあろう。
開催までにも多くの苦労があるのが祭である。その日のために何日も尽力した者達に、終わってからのそんな役得があってもいい。
「……ぷふふふっ。
ねえアンズ、見て見て。こんな詩あるんだけど」
「あはははっ!
絶対これ、お父さんに内緒でこっそり書いたやつでしょ」
「中身が知れたら後から私、親父さんからどやされそうですよ。
あの子のお袋さんも恐らく字には疎いので、大丈夫だとは思いますけどね」
ナルミもアンズも字は読めるので、他の皆様がしたためた詩を読む楽しみもある。
その中でナルミが見つけて笑ってしまったのは、達筆の草書体で書かれたもの。
先程ナルミも書体を使い分けたが、みんなにも読んで欲しいものは楷書体、意図なくば書き慣れた行書体、読まれずともいいなら草書体で書く。
この札に書かれた詩は草書体だ。内容を見るに子供が考えた詩なので、識字力が無いその子のためにこの読み場の男性が代筆したのであろう。
内容が内容なので草書体、つまり多少の識字が出来る程度では読めない、崩した字を敢えて使っている。
無論、ナルミは当然ながらアンズとて、草書だろうがすらすら読める。神職者をやってるだけあり、彼女も草書体で字を書く機会も多々あるのだ。
簡単に言うとこういう内容である。
"お父さん 最近遅いね どうしたの 母さんとても 疑ってるよ"
字数だけ合わせた子供の作文にして、夜遊びの多い旦那がおっかさんの怒りを溜めている情景が目に浮かぶ内容である。
詩らしくはない。それでこそ良いのがこの詠開きであろう。
こんなもの、後から主催者側の一同が目にしたら、大笑いして酒の肴になること請け合いである。
「あ~、笑っちゃった笑っちゃった。
楽しいわぁ、ほんと楽しい」
「お母さん、そろそろお昼ごはん食べに行かない?
昨日のうちに、良さそうなお店見つけてあるんだ」
「あなたって本当、こういう日には花より団子よねぇ」
「楽しんでるってば、私は詠みませんっていうだけで。
きちんとお母さんと楽しむためにも、前の日からちゃんと調べてきてるんだからさ」
「ふふふ、わかったわ、そういうことにしておきましょう。
期待するわよ? きちんと応えてね?」
「うっ、舌と目の肥えたお母さんにそう言われると重圧が……
いやいや、任せとけぇ! 摂泉村まで言って養ってきた私の目を信じるのだっ!」
時も程々になれば腹ごしらえの時間も生じる。
そんな時間こそ、アンズも最も楽しみにしていた時間の一つでもあろう。
お母さんと一緒に異国の御馳走に舌鼓を打ち、楽しく談笑する時間。
既に楽しみでしょうがないアンズが、傘を持たぬ方の手をナルミと繋ぎ、行こう行こうとせがむ姿がナルミには眩しい。
自分と一緒に過ごせるだけで、こんなに幸せな顔になる愛娘と一緒にいて、愛しくてたまらない想いが沸き上がるのはごく当然の親心である。
縁台に座る詠み場のおじさんに見送られる中、アンズが短冊を振り返って一瞥し、嬉しそうに笑った横顔もナルミも見逃さない。見逃しようはずもない。
あんな内容の詩、晒されて恥ずかしいと公言して憚らなかったこの子が、私と自分の想いを綴った詩が並ぶ光景を、照れ臭そうに喜んでくれている。
血など繋がっていない愛娘だ。ずっと努めて意識してきたことだ。
だからこそ、この子は皇族ではないのだからと躾を加減したこともあるし、どこまで踏み込んで良いものか煩悶したことなど数知れない。
両親を喪った天涯孤独の神職者の卵を引き取る決断は、今にして思えば容易な方であり、迎え入れてからの悩みの方が遥かに多かったのだ。
母を自称する私は、本当にそれに相応しい親であれているのだろうかと、眠れぬ夜など幾度あったことだかわからない。
だから、愛してくれるこの子が、それを意識してでも伝えようとすらしてくれるアンズのことが、今は親しみ慣れた側近の誰と比較しても愛しい。
そんなことを口にすることは出来ないのだ。ナベツナにも、トキガネにも、タケスエにも、ミツサダにも失礼だ。
何十年も忠誠を誓い、尽くしてくれたみんなよりも大好きなものが出来ただなんて、ナルミには口が裂けても言えないだろう。
胸に秘めた、愛娘への想い。言葉にすることは叶わない。
咳き込みそうな息を止めてでも、幸せに満ちた表情で手を引いてくれるアンズの笑顔に、ナルミは満たされた想いをその顔に表して応えるのだった。
詠開きは、朝から晩まで大成功だったと言っていい。
陽が沈めば村は真っ暗になり、どんなお祭りでも終幕へと向かうのだが、この日の詠開きはそれだけでは終わらなかった。
幸いにも――実に幸いなことに、夕前から雨がやみ始めたことで、主催者達が密かに温めていた、夜の催しも今年は執り行えたのである。
出来そうだ、と見越した主催者達の呼びかけにより、とうに西の山に陽も沈み、赤らむ色も薄れかけている頃合いに。
この日詠開きを最後まで楽しみたい方々は、近宮にお集い下さいという声に従い、向かう。
そこには、広場の真ん中に組みに組まれた薪によって燃え上がる、大きな炎が存在感を示していた。
暗くなった村の中にあり、煌々と由緒正しき場を照らす炎を中心に、主催者達の悪乗りの結晶、最後の催しが幕を開ける。
少量ではあるが集った客へは酒も振る舞い、本日最後の遊びを眺めていって下さいませ、という雰囲気作りも惜しまない。
主催者の一人が、詩を詠む。
一人の身内をじろじろ見ながら、内容的には、お前最近腰の痛みがどうとかで農作業さぼりがちだよなぁ~、というようなものだ。
集まった者達はこの村に住む民。農民はみな隣人、そうだそうだと訳知りゆえに声を上げる者もいれば、あいつ最近そうだったのかと笑う者もいる。
待て待てやめろ、こんな場所で言うな~! とばかりに抵抗する側も、どこか楽しそうだ。恥ずかしそうではあるけれど。
そんな中で、詠み手は今しがた詠んだちょっと意地悪な詩を木札にしたためており、まずはそれを上に掲げて衆目を集める。
そしてそれを、こんな恥ずかしい詩は供養するに限りますな! と一声あげて、燃え立つ炎の中に木札を投げ入れてしまうのである。
さあ、それに続いて詠開きの主催に回った方々が、身内いじりの詩をどんどん詠み上げる。
誰のことを詠んでいるのか、一人一人がちゃんと相手を見て、衆目にもわかるよう示しながらだ。
やめろやめろ、と抵抗する反応を見受けてから、その詩をしたためた木札を炎の中に放り込むことの繰り返し。
普段は言わないけどこの機に吐き出しちまえ、という、祭の解放的な空気にあてられた、ぶっちゃけ発言が詩にされて、木札に記され宙を舞い、燃えていく。
本当、馬鹿馬鹿しい。節度が無ければ悪口の言い合いに過ぎまい。
だが、主催に回る側も客を集めて行うだけあり、聞いて不快になるような暴露や悪口は無い。
事前によく考えてきていたのだろう。よく練られている。
農民らとて、基本は寛容ながらも一線を越えた悪口には顰蹙も表すものであるが、みんな笑ってこのやりとりを眺めている。
アンズも、ナルミも、コナツもだ。近宮の本堂の特等席からそれを見下ろすイナリ姫も、しばしば扇子で口元を隠している。
そうそう庶民の言動になど心動かされようものか、という建前の皇族が、思わず笑ってしまった口元を隠す仕草もまた、笑わせてくれた民草への答えの一つだ。
真っ暗になれば嫌でも終わらざるを得ない祭、それが本来の潮時を超えて、晩飯時になってもまだ皆で笑い合える特別な時間。
雨が強まれば火も熾せぬゆえ、天候次第では容易に没となった最後の催しだ。
朝から昼にかけては穏やかな雨、そして夜にはその雨が上がるなど、つくづくこの空模様は今年の詠開きにおいて最高のものであった。
古都たるこの村を見守る古の帝様がもたらしてくれた奇跡とも言うべき今日の天気。
きっと明日もこの近宮には、感謝で手を合わせる参拝者が多く訪れることだろう。
馬鹿遊びに興じながら、集ってくれた人々の楽しそうな笑顔を前にして、達成感に溢れる主催者側の人々は、古き帝への感謝を決して忘れまい。
大いなる焚き火が自ずと消えるその時まで、夜分遅くと呼べるほどまで詠開きの一日は終わらなかった。
普段なら寝静まる頃、つまり外の暗さに何も出来ず眠ることしか出来ぬ時間になって尚、こんなに人々が集って遊べることなどまず無いのだ。
少なくとも山波村の祭では、これまで一度も無かったことだ。
村長としてのナルミ、そして祭を司るアンズをして、衝撃的なほど、こんなやり方があるのかと来年の参考になる内容であったのも確かである。
なにせ、これほど夜も更けた時間なって尚、普段の習慣から眠くもなり始める時間以降も、楽しい時間を過ごしていることが驚きだったのだから。
隣国にもしばしば足を運んでみるものだ。
決して、新たなものを取り入れるためだという、人の上に立つ者としての意識のみによってではない。
面白いものがこの世には溢れている。地元にはない、輝かしいものがだ。
誰もが天災一つで身を危ぶめる、ある日には厳しい現世に生きるからこそ、たまの晴れの日に絞られた知恵とは迸る。
外の世界に目を向けることの大いなる価値は、長らく人類史にも語られ続けた教訓だ。
海を越えし向こう側から得られた新概念を、幾度も洗練し、故郷の糧として新たなる文化を築いた和大国の歴史を洗えば洗うほど、間違いない。
さて。
嗚呼、さてさて。
アンズ達が夜も遅くに、近宮での焚火を囲う催しをお腹いっぱい楽しんで、宿に帰り着き、遅い夕食を食べて、床に着いた頃。
深夜も深夜、日付けが変わろうかという時間帯の話である。
アンズも、コナツも、ナルミも、イナリ姫も、タケスエやコガラシやユキタダといった仕事でこの地へ護送に赴いた面々を含めても。
誰もが今日は楽しかったと、枕を高くして眠るその時分のこと。
近滋宮村からは大きくはずれた、近淡湖の浜にて、月明りに照らされて巡り合う黒い影が二つあった。
「おう、待たせたな」
「はいはい、待ってたわ」
この二人が密談する光景を、もしもアンズが目の当たりにしたら怒り狂うだろう。
あんた達今度は何を企んでんの、妙なことをしたらぶちのめすよ、と。
それだけこの二人が場を共にすることは、アンズ辺りの目線ではろくなことがない凶兆そのものである。
「さっそくだが、悪い報せがある。
それも、お前にとっては命に関わるほどの」
「うえー、なんなの?
あたしいよいよアンズには憎まれてる立場だし、一応かなり腹括ってここまで来たつもりではあるんだけど」
黒装束の男は、待っていた女性に淡々と語りかける。淡々としてはいるものの、若干の気の毒さを相手に想いながらでもあるが。
浜にあぐら座りして、自分で獲ってきた魚を火も通さずに齧る、褐色肌の女性は頭の角も隠さぬ姿でうんざり顔。
ミノヤマとイバラギ。
今宵ははるばる近滋国まで赴いたご様子で。
「アンズとナルミ嬢がいることに加え、イナリ姫も同行し、それの護送に伴った兵が多い。
これは良いことだ。おまけにナルミ嬢の護衛のためか、浦部武季もいるからな。
あれは強いぞ。思わぬ好材料だ」
「待って待って、朗報でしかないじゃないの。
それを上回る悪い報せがあるの? よっぽどじゃない?」
「コナツがいる」
「げえっ!? まじ!?」
アンズ達のそばに優秀な兵力が揃っていることは、ミノヤマとイバラギにとっては歓迎すべきほどのことであるようだ。
しかし、コナツは別である。鬼すべてぶっ殺す、が信条の化け物。
イバラギも対面したことはあるが、あいつだけは本当に怖い。
どのように駆け引きしたところで、あいつにだけは絶対話が通じないと、鬼のイバラギはよぉくわかっている。
「だが、見方によっては今回の、お前の"妖魔転生"を行うにあたって絶好の状況だとも言える。
場合によってはものを選ばざるを得ない実状であったが、これならお前も最高の形で実践が出来るのではないか?
何の懸念も無くな」
「そうだけど、そうだけどぉ……!
あぁ~、それでもあいつがいると困るのよぉ~……!
"イブキ"の奴も来てるんだし……」
「念のための保険が仇になるとはなぁ……
しかし、多少の想定外は致し方あるまいよ。
元より、理想的な結末を追うには不確定要素の多いことなのだからな」
「わかってるけどさぁ……
よりにもよって、って感じはするわ……」
どうやら何らかの手段で近滋宮村でのアンズ達の動向を観察してきたミノヤマが、必要な情報をイバラギに共有している場面である。
良い情報もあるにはあるが、コナツがこの地に赴いていることが、イバラギにとっては相当な悪い情報である様子。
それは彼女が言うとおり、ここにはいないが伊吹獣士と呼ばれる黒鬼も、この地へ来ていることが一番の理由だ。
本当に都合が悪い。
出来れば本当に、本当に隠し通したかったことが、漏れる可能性が出てきた。
それはイバラギにとって、心の底から本意ではないのだ。
「……先々の計画も、改める必要があるのではないか?
もちろん、場合にもよるが……」
「いいわよ、別にそれも想定内だから。
イブキに任せるっていうのも建前みたいなものだからね。
そもそも本来、最後は私がやるべきことでもあったんだから」
老婆心で忠告するミノヤマの声は、偽りなくイバラギを気遣っている。
それに関しては本来の既定路線に過ぎないから、とばかりにイバラギも手をひらひらさせるのみ。
コナツとイブキが遭遇し得るという実情を顧みた瞬間から、イバラギの肚は決まっているのである。
「ミノヤマ。
キドウマルを呼ぶことは出来る?」
「招いてある。
呼べばすぐに来る」
「あいつを使うわ。
この際、妥協はしない方向でいきましょう」
決断すれば、イバラギの判断もまた早い。
いくつかあった計画のうちから、最も苛烈で、危険な手段を選び取る。
ミノヤマから得られた情報を鑑みれば、これが最もイバラギにとって最も実りあって、かつ懸念されるべきこともすべて回避し得る。
この判断の早さには、ミノヤマですら、それで本当に大丈夫かとさえ思うのだが。
「……いいんだな?
場合によっては、お前の命も危ういぞ」
「構わないわ。
元より私の悲願なんて本来、命を捨てねば果たせぬものなのだから」
「わかった」
言葉とは裏腹、悲壮感とは遠い覚悟を眼差しに宿したイバラギに、ミノヤマも彼女が選び取った道に頷いた。
さあ、今宵より忙しくなる。
己と、そして盟友イバラギの悲願を、共に叶えるための共同戦線。
アンズの旅路を追うように、近滋国まで赴いた二人が企むこととは、双方の野心の達成を目前にした最後の締め括りめいたもの。
両者とも、共に行動するのは今回が最後だと、ここで話す前から確信していたことである。
「イバラギ、頑張れよ。
あと少しなんだからな」
「ええ、あなたもね」
快活な笑みを浮かべることの多いイバラギも、笑顔一つ無い神妙な表情で、静かなミノヤマの檄に応えていた。
役者はもう揃っている。この上ないほどに。
アンズ、コナツ、そしてナルミやイナリ姫の遠出に伴い従う有力な兵の数々。
イバラギ、ミノヤマ、そしてイブキやキドウマル。
妖魔調伏において、今や和大国全土を見渡しても随一の二人と、鬼の大物と京に怨みを持つ怪物が、近滋国にて居合わせている。
これほど因縁ある者達が、ここまで集いしことなど今までに例が無く。
この時、それが実現していることとは、何らかの大いなる運命が動き出す兆しでもあろうものかとさえ感じられるべきものだ。
少なくとも、イバラギもミノヤマもそう思っている。
「イブキには私が声をかけてくるわ。
何も知らずでこの現実に直面させるほど、酷なことはないんだから」
「……ああ。好きにしろ」
砂に塗れた腰を上げ、行くべき場所へと歩み始めるイバラギを、ミノヤマは他にかける言葉も無く見送った。
悪に徹すれば好き放題出来るというのは幻想だ。
軽い気持ちで悪の道へと堕ち、平穏であった日々の中にあった以上に、過酷な道を歩む者など枚挙に暇が無い。
ミノヤマも、知れた真理であるそれを、つくづく改めて痛感する。
多くのものを捨てて突き進むこの道の半ば、幸運にも得られた新しいものも、やがては捨てねばならぬことが確定している。
悪しき道とはそういうものだ。
信念を以ってこの道を選んだミノヤマも、決して後進の者達に、自身と同じ道を歩むことは勧めまい。
先に待つのは破滅とすべての喪失のみだ。承知の上である。




