第七六話 ~少なからず幸せな日々の再開~
「けっこう立ち直ってる感じ?
ちょっと心配してたんだけど」
「うん、もう割り切ったから。
皇族の姫君様が同行する旅となれば、やっぱり頑張るしかないもんね」
朝を迎えた近滋村。
アンズはコナツと共に、イナリ姫がお泊りしている宿へとお迎えに上がる。
昨日は、突然イナリ姫が同行する旅と化したことで、心の準備が出来ていなかったこともあり狼狽しきりだったアンズ。
今朝はもう、心の準備も出来たということで、かなり持ち直している。
この兆候は昨日の夕頃にも見られたもので、イナリ姫と突発的に遭遇して以降の昨日午前はどうしようもなかったが、時間があれば立て直せるようだ。
本来のところ、皇族様の旅に同行できるというのは、それ自体が神様に寄り添えるかの如く光栄なことで、その認識はアンズにとっても例外ではない。
イナリ姫のことが極めて苦手なだけであって、それ抜きにすれば、皇族様の供として進むこの旅自体を、名誉なことだとも考える余地が充分にある。
今日もいびられるだろうけど、我慢すればいいだけのことだ。昨夜のうちにそうした心構えを固めてくれば、アンズも背筋を張って今日の運命に挑める。
イナリ姫は確かに怖いけれど、オオムカデよりも怖いはずはない。どんなにおっかない相手であろうと、ものは考えようである。
逆に言えば、それだけ極端なものを引き合いに出さねば怖さを片付けにくいほどには、やはりイナリ姫が苦手過ぎるということでもあるが。
コナツに対しては気丈な言動を見せるものの、宿に近付くにつれてその横顔は少しばかり強張り始めている。
内心を隠す顔芸は不得意なのだ。コナツも、そんな子だとは承知している。
親友を苛む姫様に思うところは多々あるが、抗議するわけにもいかぬ以上、何らかの形でアンズを支えてやれればな、と考え始める程度に留める。
それを表明するかのように、アンズの背中をぽんと叩いてくれるコナツには、彼女も嬉しそうに微笑みを返すのだった。
さて、緊張の瞬間だ。
宿の前に、イナリ姫とナルミ以外の一同が集結し、一番偉い人を待つ並びとなってからしばらくして。
宿から姿を現した二人の貴人。イナリ姫を前に、その後ろにナルミが続く。
衆目を惹き過ぎぬ配慮として、一同イナリ姫に小さく会釈する対応で迎えた。
本来ならば全員跪いて迎えるのが適切な対応だが、そこまでするとイナリ姫が皇族であることが衆目にも明らかで、騒ぎになってしまいかねない。
この程度の対応に収めることで、目撃者にもイナリ姫は、良いところの御嬢様なんだろうなという認識で留まるのだ。
まさか皇族様とは夢にも思うまい。それでいい。
「……………………アンズ」
「は、はいっ。
お伺いします」
宿から出てきたイナリ姫は、まずアンズの方へと歩み寄り、顔を上げずに低い声で話しかけてきた。
あぁ、さっそく何か始まるぞ。アンズも緊張する。
俯いたような姿からも、寝覚めが悪くて機嫌が良くないようにも見えるし、朝一発目の無理難題や罵倒はもう覚悟せざるを得ない。
「えぇと、あの……その、な……
そなたには、色々と……」
「イナリ」
顔を上げず、もごもごと何か言うべきことを口ごもるイナリ姫だが、その後ろでナルミが、静かに、しかし圧のある声でイナリ姫の名を呼ぶ。
そうじゃないでしょう、という厳しい叱責の意を込めた強い声だ。
その一声でびくっとしたイナリ姫が、おずおずと顔を上げてアンズを見上げるが、それはアンズにとって初めて対面するイナリ姫の表情。
自分に対しては敵愾心に溢れた目しか向けてこなかったイナリ姫が、アンズを目前に、ものすごく気まずそうな顔で目をきょろきょろさせている。
「………………き、昨日はすまなかった。
この旅の間は、そなたをいじめるようなことはもうせぬ。
だから、許して貰いたい」
「!?
い、いや、私は別に……あ、頭を上げて下さい!?
畏れ多いですよ、そんなっ……!」
あまりにも意外過ぎる朝の御挨拶であったので、アンズもあたふた。周囲の武士も、コナツも戸惑うほど。
新手のいびり方の初手なのかとさえアンズも邪推したほどだが、頭を下げるイナリ姫の態度に他意など無いのは明白である。
皇族が庶民のアンズ相手に頭を下げるなど、立場を思えば他意あったとしても推奨されるべきことではなく、そこに策略など無いことは断言できる話だ。
可能性があるとすれば、と、ナルミをちらりと一瞥したアンズに、ナルミはにこっと微笑みを向けてきた。
すべてを察した。ああ、お母さんが何かしらはたらきかけてくれたんだ、と。
皇族のイナリ姫に、行動を伴うほどの反省を強いられる人物がいるとするならば、やはりこの人しかいなかったということである。
以下、昨夜のナルミとイナリ姫のやり取りである。
あのわがまま姫の態度をここまで改めさせるとは、どれほど恐ろしい恫喝を見せたのかと思われるかもしれないが、実態はそうではない。
がっつり正論で叱っている。ぐうの音も許さぬほどに。
「アンズに謝りなさい」
「……いくらお姉さまに言われても、それには従えませぬぞ。
妾とあ奴の間に何があったか、お姉さまも御存知でしょう」
「それが、あの子をいじめる大義になるの?」
「なろうがなるまいが、あ奴を前にして平静でなどおられぬ……!」
イナリ姫もはじめは抵抗していたのだ。
そもそものところ、イナリ姫がアンズに対して悪感情を抱くきっかけとなった出来事は、アンズに落ち度があってのものではない。
アンズはイナリ姫に何ら不敬や失礼をはたらいたことは無いし、イナリ姫だってそれは重々承知である。
その上で、アンズに対してきつく当たってしまう感情については、ナルミも理解できぬことはないから大目に見てきた。
イナリ姫は皇族である。彼女の言動が下々に対して如何に理不尽でも、相当なところまでは許容されるべきとされるのも実態だ。
ナルミに言い返すイナリ姫の言葉は、庶民同士なら通用する言い草ではないが、彼女の立場ゆえに容認される範疇を逸していない。
「あの子の家族旅行を邪魔するために、わざわざ京の皆様を振り回して、詠開きへの参加を強行したのよね。
ねえ、あなた何してるの? それが皇族の振る舞い?」
「っ……だって、アンズばかりお姉さまと一緒で……!
妾だって、お姉さまと一緒に詠みたいではないですか……!」
ナルミの指摘は痛烈で、流石のイナリ姫も怯んだが、彼女も彼女でお為ごかしの無い感情を吐露する。
イナリ姫が詩を詠むのが好きなのは本心だ。才に恵まれた彼女ではあるが、たとえ才が無くとも詠むこと自体は辞めなかったほどに。
詩を詠む催しに、敬愛するナルミと一緒に参じたかった想いも、アンズばかりがいつもナルミと一緒に過ごせることへの嫉妬も、本心。
幼いやっかみだが、これ自体はナルミも咎めるつもりは無いのだ。
それだけ自分のことを好きでいてくれる年下のことは、やっぱり可愛いし突き放したくはない。
ナルミに言わせれば、イナリ姫だって可愛いのだ。
「あの子の顔、見た?
あなたが来て、家族旅行が一転、貴人の護送仕事になった時のあの子の顔」
「……見はしましたぞ」
「何も思わなかったの?」
この時、イナリ姫がかすかに覗かせた、アンズの哀しい顔をざまあ見ろと回想するかのような目の揺らぎに、ナルミの声は一気に重くなった。
逆鱗に触れたことを嫌でも思い知らされたイナリ姫は、ここから先、軽はずみな口答えは縁切られることにも直結するという危機感に凍り付く。
「あなた、あの子がどんな仕事をしているか知っているでしょう?
いつ命を落とすかもわからない、危険な仕事。それも、京の陰陽師でもお手上げなほどの脅威に対してすら挑むことも決して少なくない。
そんなあの子が、やっと、本当に久しぶりに、家族と一緒に旅行できる機会が今回だったわけだけど」
「そ、そんなことは妾の知るところでは……」
「私も楽しみだったのよ。心から。
あの子がどれだけ楽しんでくれるだろうかって」
感情論で来られるなら、ナルミだって心底の感情論を返す。
迫真を思い知れとばかりに。意趣返しではなく、本心だから迫力がある。
今ここに至ってようやく、イナリ姫は、自身の行動が明確にナルミを攻撃したものであったと理解したようだ。
「私、暇に見える?
拙いながらも村長を務めているのだけど」
「い、いえ……そのようなことは……」
「傍仕えのみんなとは家族ぐるみのように苦楽を共にしているけど、アンズと顔を合わせない日だって多いのよ。
一緒に物見遊山なんて、双方の立場を考えればそうそう叶わないことぐらいわかるでしょう。
そんな日々の中、ようやく、やっと、本当に久しぶりの家族旅行だったのよ。
あなたがぶち壊しにしてくれたわけだけど」
もはや、皇族として身勝手な振る舞いで、多くの使用人を振り回したことなど咎めもしない。
あなたの行為がめちゃくちゃにしたものは何か、私情を以って、明確に恨みがましく突き詰める。
表情は冷徹なままで。ほぼ無表情のまま淡々と怒りを綴る様の方が、激昂するより恐ろしいというのはよくある話だ。
「あなたは見てないでしょうね、アンズの寂しい横顔なんて。
あの子はあなたのような貴人の前では、不躾な表情ぐらいは隠すんだから。
何日も前からずっと楽しみにしていた家族旅行が、あなたの横暴な我が儘のせいで、当日いきなり"連日のお仕事"に急変したのよ?
生い先短い親と過ごせる、やっとの家族旅行を台無しにされたあの子の、あなたに見せない落ち込んだ顔なんて生涯理解できないのでしょうね。
だってあなた、下々の顔色なんて自分に迎合する面構えしか興味のない、嫁入り皇族様ですものね」
そうではない、そうではないのだが。イナリ姫は往来の庶民の表情を目聡く観察し、より良い民の暮らしを占うべく伺える皇族の鑑である。
ただ、対アンズにおいては確かにナルミの仰るとおりである。
庶民を翻弄し、自身の言動によって狼狽え、苦しみ、喘ぐ様を眺めて悦に入る、高貴なる身分にありながら悪辣なお偉い様そのもの。
痛烈な皮肉によってそれを突き付けるナルミに、己を恥じる程度の分別も無ければ、イナリ姫は貴族として失格だ。
「私、村長をナベツナにでも譲って京に戻ろうかしら。
あなたが旦那様と睦まじい時間を過ごすたび、あなたの苦手な史学の教え手として邪魔をするのも必要かもしれないわ。
いい話でしょう? あなたに足りない教養を補う良い機会になるじゃない」
「お、お姉さま、あまり極論は……」
イナリ姫がたじろいでいる所で、ナルミは勢いよく畳を叩き、凄まじい音を出す。
恫喝も交えていたようだ。まあ、それだけ頭にきていたということで。
「楽しみにしていた、ようやく取れた休日を、一転すべてお仕事に書き換えられればどれほど虚しいかがわかったでしょう!
あなたがやったのはそういうことよ! その程度のこともわからなかったの!?
そんなことは立場を笠に着た外道の所業そのものよ!
嫌がらせの度を越しているわ! 姫君としてではない! 人としてあるまじきことよ!」
何が赦されざるかことは時代と時の地位によって如何様にも変わるが、人間社会である以上は、共通して断言できる一つの基準はある。
怨まれても仕方のないことはすべきではない。
嫌われるようなことをするな、という次元の話では断じてない。"怨まれる"ほどのことというのは余程である。
人の怨みほど恐ろしいものは無い。本当に恐ろしいのだ。仕舞いには、怨霊すら生み出しかねない、身の毛もよだつほど恐ろしいもの。
怨まれるようなことをする行為を、戒めの意味も込めて、人としてあるまじきことと形容し、そんなことをしないよう心掛けて丁度いい程である。
「わかったら明日、アンズと顔を合わせたら真っ先に詫びなさい!
第一声がそうじゃなかったらもうあなたのことは人として認めない!
人でなしと誹られる恥を雪ぎたくば相応の態度を示すこと!
僅かでも理解できたなら直ちに応えなさい!」
「わ、わかりました、お姉さま……
妾が、あまりにも軽率でありました……」
「恥を知りなさい!
あなたのような者に敬われても迷惑よ!
たとえあなたがどこかで私のことを讃えようとも、浅ましい者の崇めるものに過ぎぬと思われては不名誉極まりないわ!」
「う、うぅ……お姉さま、そこまで言わなくても……」
「それに値する!
己を見つめ直しなさい!
生まれに胡坐をかいて足元を見失う貴人など、日々を賢明に生き延びる庶民に顔向けも出来ぬほど賤しいのよ!」
常日頃から向けられる好意すら突っぱねて、イナリ姫を涙目にさせてることすらナルミは厭わない。
慕われるだけでも幸せ、という浅い理想は確かに存在しない。
自分を慕う信者らしき者達が、他者を貶めてでも信仰対象を讃える姿を知れば、如何に褒めちぎられようとも不愉快なものだ。
何を好こうがその人の勝手だが、その信心が大好きな何かに迷惑なものにならぬためには、信ずる側にも相応の人格は必要なのである。
「あなたがみんなの前で叱られる恥をかかぬよう、昼間は本当に我慢したのよ!
わかったら今日はさっさと失せなさい!
反省を形にしていないうちのあなたのことなど、顔も見たくないわ!」
「ううっ、えぐっ……
ごめんなさい、お姉さま……ごめんなさい……」
涙目どころかぐすぐす泣いて、部屋を去っていくイナリ姫に、最後までナルミは慈悲を見せなかった。
怒りの根源は愛娘を傷つけられたことではあるが、皇族としてのイナリ姫の品位の無さにも、同じくらい嘆かわしかったのである。
甘やかすつもりなど一切無い。心へし折られてでも反省して貰わねば困る。
皇族が逆上すれば打ち首もあることなど承知の上で、ここまで加減無く厳しく糾弾できる、皇族でない人物はナルミを於いて他にはいまい。
……いや、ソウサイやヤシマ辺りは、誰が相手だろうが気に食わねば戦争覚悟でいくかもしれないが。
ともかく、こうして、イナリ姫はがっつり心を折られ、翌朝にはあれほど憎んでいたアンズにすら頭を下げたということである。
謝るべきほどのことはしていたのだから妥当であろう。連日命を懸けた仕事に励み、ようやく訪れた休日を楽しみにしていた人の、それを潰すなんて。
いつの世であろうと、真に許されべからざることというのは変わらないという話である。
さて、朝っぱらからひと悶着あったものの、一行は近滋村を出発する。
短い道を進んだ末、朝に出て昼には着く程度には近く、ある意味では近滋国で最も名高い人里に到着だ。
詠開きの開催地はそちらであり、開催は明日である。
ゆっくりとした旅の末、アンズ達は詠開きの開催地に前日入りする運びとなった。
決して大きくはない村だが、ナルミやイナリ姫といった特殊な立場にいる者達で、その名を知らぬ者はまずいない。
もしもいれば、無教養と言われること間違いなし。皇族でこの村の名を知らぬというのは、歴代の帝の名を覚えていないのと同じほど恥ずかしい。
一般庶民ならばともかく、皇族でそれは駄目だ。
つまりこの村は、今でこそ皇族との縁は薄くとも、皇族に名を連ねる者ならば知らぬようでは話にならぬ場所ということである。
「涼しい~。
これもこの村の気候のおかげ?」
「どうなんでしょうね?
だけど、かつての帝様の慈愛に溢れた遺志が、今なお民を見守り、過ごしやすい地としてくれているなんて実しやかにも言われるのよ」
「なんだか神様みたい」
「ふふふ、言われてみるとそんな感じよね」
今は雨季。
だが、ここまでの道中は実に晴れ晴れとした空で、空模様が曇りやすい今の時期に反し、今や雲ひとつない快晴模様である。
加えて大きな湖も近い地であり、晴れても湿気が気になるこの時季にして、からっと乾いた風が駆け抜ける今日は平時以上に気持ち良い。
詠開きという大きな催しものを明日に控えるというこの日、この晴天は何もかもが滞りなく進めやすく、空も祭に味方してくれているかのよう。
この地に眠る古の偉人の魂がこの地を見守り続け、人智を超えた力で以って、安寧をもたらしてくれているという話も、この青空を見上げれば説得力もある。
"近滋宮村"。
今より遡れば四百年以上も前のことではあるが、かつて一度だけだが帝がこの地へと遷都した事実のある、歴史的にも由緒正しい村である。
なくようぐいす山波京の前、なんとおおきな大奈京――の、さらに五十年ほど前の話。
当時、近滋国は確かに、和大国の帝おわす都だったのだ。紛れもない史実だ。
しかし念無いことに、当時の帝が在位五年で崩御されたことや、その後の政争などの影響もあり、この地が都であった期間は非常に短かった。
それもあって今となっては、山波京や大奈京ほどには名高くなくなってしまったが、かつて帝おわす都であった事実は、歴史上でも燦然と輝く事実である。
僅か五年しか都でなかったため、抜きんでて栄えるには時間が足りなかったか、大奈村のように京であった頃の名残を感じるほど栄えてはいない村だ。
近滋国の栄えし村と言われれば、近滋村をはじめとした、近淡湖を中心に栄える港村がまず挙がり、この村が候補に挙がることも無いだろう。
しかし変わった言い方をすれば、静かに栄えている。
都であった頃にこの地が洗練した、国内の村との連携の取り方は今なお村を支えているし、歴史を知る各村もこの地への帰属意識は高い。
近滋国全体についての重要な話し合いをする時には、各村の長がわざわざこの近滋宮村に集うということも多々あるそうだ。
不謹慎な例えだが、仮にこの村が滅びるようなことがあれば、関わりの薄い遠くの村に住まう者であっても、近滋国の民なら気持ちが滅入るだろう。
表面上は大きな光を放つ村ではないが、近滋国において、人々の心の真ん中でどこか忘れずにいてしまう、そんな村である。
かつて帝がおわし、都であったという、今を生きる者には何の関係も無いような話でも、人々の心を照らす光にはなり得るということだ。
「私とイナリは近滋廟に行くけど、アンズとコナツ君も来る?」
「えっ、いいの?
あそこ私達のような庶民が行っていい場所じゃないんでしょ?」
「アンズ、近滋廟って?」
「大昔の帝様のお墓だと思ってくれていいよ」
「あ~、なるほどな。
それ俺らみたいな農民が気軽に参拝していい場所じゃねえよな」
「いいのよ、私やイナリが一緒なら。
どっちにしたって皇族の血を引く私達が、近滋廟に御挨拶にも訪れぬという不躾は考えられないわ。
なのにそれを家族を置き去りにしてでも、なんてことを、この地を見守るお優しい幾代前の帝様が仰ることもないはずよ」
歴代の帝の眠る墓というのは神聖なものであり、参拝を推奨され受け入れる神社とは異なって、下賤の身には近付くことすら憚られる。
コナツのような離れた国の生まれの農民ですら、そうだとわかれば自分が訪れて良い地ではないのでは、という意識が立つほどだ。
帝の威光に比肩するものなど、和大国にはあと二つしかない。神様と、将軍のみ。
世を去りて尚尚、という点を含めれば、将軍様の威光も帝のそれには敵うまい。現時点では将軍家の歴史はまだ浅すぎる。
「ね、行きましょう?
私の可愛い娘とその大事な友達を置いてなんて嫌よ」
「あ~……わかった、わかったけど緊張するなぁ」
「な。
俺もなんかそわそわしてきた」
「同じぐらい神職者の私を畏れ敬ってくれてもいいんだぞ?」
「お前を? ぷっ」
「あっ、こっち見ろ。
なんだ今のは」
「別に。ぷぷっ」
「こっちを見なさい。こら」
由緒正しい墓所への参拝前ということで緊張するというのは本当なのだろうが、そんなこともちょっと話の種にして遊びだす。
アンズは進んでそうしているのだろう。あわよくばコナツの緊張を和らげようと。
コナツに悪い冗談をされてぷんすかして掴みかかり、ぺしぺし払われてあしらわれているが、怒った顔してどこか楽しそう。
見守るナルミも、今日はアンズも楽しそうで何よりだという微笑ましい表情である。
ついでにナルミは、イナリ姫の籠にひっそり近付き、アンズやコナツの目を盗んで、籠をどすんと殴って揺らしておく。
もうあの子の楽しみを邪魔しないでね、という太い釘を刺した模様。
中でびくっとして縮こまるイナリ姫も、京の武士や陰陽師も、許さないものは絶対に許さない貴人の本性に戦慄するばかりである。
付き合いの長いタケスエだけが、あぁいつもの我が主だなと、ご奔放で何よりだと内心で微笑ましく感じていた。
「ごめんなさいねぇ……
ご迷惑であるとは承知しているのだけど……本当に……」
「いえいえ、迷惑だなどとは滅相もありませんよ。
まあ、その……恐悦では御座いますが……かはははは……」
前日の昼に会場入り、とでも言えそうな形で近滋宮村に入ったナルミだったが、今日も意外と忙しく、ゆっくりこの地を物見する時間は皆無であった。
詠開きにおいて重要な役目を担うナルミは、明日の段取りを確認するためになど主催者への御挨拶も欠かせなかったのだが、これが難儀する。
何せイナリ姫がいるのだ。実にややこしい。
今は夕時、宿にて店主に御挨拶しているところだが、渇いた笑いで冷や汗を手ぬぐいで拭う様が、主催者様と全く同じである。
ソウサイの紹介で詠開きへと招待されたナルミは、詠開き初日の開幕に並び、集った者達の前で詩を詠む役目を任されている。
詩に馴染みが無い庶民にお手本を見せる役目ということで、主催側としてはありがたいお客様のようなものだ。
それは何日も前から決まっていたことだったので、ご来賓を最大限もてなすための準備は整っている。
施設も、食材も、人手もだ。充分すぎるほどに。
隣国一の村の長かつ、今は籍を抜いたとはいえ皇族の血を引く人物への接待だ。下手なお迎えは言語道断である。
ナルミとそのお連れ様を最高の形で歓迎する準備をするためだけにも、かなりの手間と配慮をかけてきたはずだ。
そこに、昨日いきなりイナリ姫まで来るという話が発生したのだからさあ大変。
ナルミも主催の心情を慮り、昨日京を出発すると同時に、これを近滋宮村に急いで届けるようにと文をしたためたのだが、そんなものは焼け石に水だ。
昨日の昼、京から直行最速でのその報せを受け取った主催者達たるや、揃って目ん玉が飛び出したに違いない。
現役の皇族である。しかも、次期帝の正室様? それが明日来る? いやいやいやいや!?
今日知るよりは確かに昨日知れた方が良かったのは間違いないが、真の皇族様のおもてなしの準備を一日で? 待て待て待て。
ナルミ様を迎えるためにも、かなり散財して仕入れたものが沢山あったはずではあるが、それが倍は必要になる。しかも一日以内で。
大きな催しごとが目前に迫り、最も忙しい大詰め時に、他の何より最優先事項かつ、間に合いそうにない仕事を割り込ませられた主催側の心労は察して余る。
ナルミのために用意していた最高級の貸し切り宿を、イナリ姫の宿に切り替えて、第二の宿を慌てて確保して。
いやしかし、ナルミ様も帝の血を引くお方で、それを第二の宿というのも……しかし姫様の宿が貸し切りでないというのは考えられないし……
イナリ様とナルミ様を同じ宿に……いやいや、そんな一緒くたを皇族様をお相手にしてしてよいものか……駄目だろうなぁ……
嗚呼どうすれば……時間が無い……最高級の海老は在庫無し……今からでも北の海から仕入れられるか……?
いいや、駄目元であろうが最善を尽くすわけにはいかない! おい卸売、今からひとっ走り行ってこい!
一日で何としても、無理を言ってでも商談を纏めて来い! 倍ふっかけられても買え! 本当にどうしても無かったなら怒らんから!
皇族の気まぐれは庶民を振り回すのである。
昨夜はアンズに対する当たりのきつさだけを叱ったナルミであったが、この辺りについては後日イナリ姫にこんこんと説教する予定。
来てしまったのは仕方ないのだから、詠開きの間ぐらいは、その辺りを悔いることなく楽しめばいいという慈悲だ。
アンズの数日間の幸せを潰さないためにも、昨夜の説教は後回しにしなかったが、ナルミはイナリ姫にも優しくしているのである。
ナルミと、アンズと、コナツと、タケスエの四人で大きな貸し切り宿へ。
もう十数人ぐらいは泊まれそうな宿だ。ナルミにどれだけの側近が付くかわからぬ上で、なるべく大きな宿を取ってくれたということである。
イナリ姫と十人の護衛が泊まっている、近滋宮村一番の高級宿もそうだろう。
宿代だって主催持ちなのだから、本当にお疲れ様としか言いようがない。
「なんか大変そうだったねぇ……」
「あなたもお祭りの準備、大変なのは知ってるでしょ?
今年は村を離れての変わったお仕事だったけど、去年はこども祭りを最初から最後まで取り仕切ったじゃない」
「死ぬほど疲れたよぉ~、去年は……
初めて主催側に回った一昨年とは違って、去年は全部やったから……」
「ね。
あなた締めの太鼓が終わってすぐ、お屋敷での私との御挨拶の場で寝ちゃったものね」
「ふん、恥ずかしくないもん。
私もっと早く倒れそうだったんだから。あれ頑張った方だよ?」
「ふふ、知ってるわ。
よしよし、いい子いい子」
「ちょ、やめ、やめてっ、コナツが見てるからっ」
宿の広い一室て、思い出話に花を咲かせるアンズとナルミ。
頭を撫でられると顔が弛むアンズだが、コナツがいることにはっとして、だらしない顔を見られないよう離れるアンズである。
それを見ただけでも、ナルミの前での普段のアンズがどんな奴なのか、なんとなくコナツもわかった気がする。
「俺はなんにも見てないよ」
「やめろっ! にやにやして言うなっ!
また顔逸らしてるっ! 何か言いたいことがあるなら言えっ!」
頭に触れられたあの一瞬で、顔がふにゃっとしてしまった自覚はアンズにもあったのだ。
コナツに喰ってかかる。もちろん、顔は真っ赤。
お昼にコナツと戯れていた時と比べると、今のは本当に恥ずかしかったのか余裕が足りない。
女性陣と男性陣が同室で眠ることはしないので、夕食後であり、寝る前に集まって談笑するこの時間も程なくして終わる。
旅の醍醐味だ。寝る前に、今日のことを思い出して、楽しい思い出の回想を共に語らう。
毎日綺麗にされている近滋廟を訪れて、どこか神々しさを感じたことを若い二人が楽しそうに話したり。
明日の詠開きが楽しみであることと話したり、詩を詠むのが不得意なアンズが複雑な顔をしたり。
帰りには近淡湖を物見できればいいね、という、詠開きが終わった後のことまで予定してみたり。
お腹も膨れて後は寝るだけ、そんな落ち着いた時間であるからこそ、歩きながらでは話せきれないことが沢山話せるのだ。
イナリ姫の乱入により、一時はどうなることかと思った旅も、すっかり期待していた空気を取り戻したと言える。
そして、明日は詠開き。ナルミにとっても楽しみな一日だ。
家族旅行は終わってもいないし、途絶えてもいない。まだまだ始まったばかりである。




