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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第肆章  近滋国で物見遊山
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第七五話   ~湖の楽園、近滋国~



 イナリ姫の、近滋国で行われる詠開きへの参加希望は、京の皆様にとっても寝耳に水の話であったらしい。


 ナルミが山波京を訪れて、親族つまり皇族に御挨拶し、お戯れですが詩会は如何ですかと場を整えて。

 元よりナルミのことを深く敬うイナリ姫も、当然その場に招かれたことに大喜び。

 久しぶりにナルミお姉さまに会えるばかりか、その詩までご披露頂けるなんて。

 この時のイナリ姫は本当にご機嫌だったのだ。

 ナルミはアンズと共に隣国へ赴くことなど、イナリ姫には一切語らなかったから。

 あの子の名前をこの子の前で出すと、ろくなことにならないのはわかっている。


 それでもイナリ姫は、京に来て下さるのは嬉しいけど急にどうしたのだろう? とは思ったのだろう。

 人づてに、ナルミお姉さまはどうされたのかと話を聞き、アンズと共に隣国の詠開きに参じるらしいという話を聞くや否やさあ大変。

 そんなの自分だって行きたいに決まっている。彼女も歌人の第一人者(はしくれ)だ。

 皇族様に嫁ぐ身として培った教養の一部として、はじめはお勉強の一つとして始めた詩を詠むことも、今では純粋に楽しい趣味の一つ。

 敬愛するナルミお姉さまと一緒に、詩を詠む大きな催しで一緒に楽しめればどれだけ楽しいだろうか。


 自分は誘われもしなかったのに、あのアンズと一緒にそんな催しに赴くと?

 ぶちっときたイナリ姫は、昨日の夕時にも関わらず、妾も詠開きに行くぞ! という大号令を唱えたのである。

 帝の長子、すなわち時期帝第一候補の正室が本気で唱える命令に、逆らえる者など誰もいない。

 引き止められ得るのは旦那様ぐらいのものだが、それはまずいと思った旦那様の言葉すら、ぶち切れたイナリ姫を止めることは叶わなかった。

 長子様も、アンズとイナリ姫の関係に対しては、事情があって強く出られないところもあるのだが


 結果、ナルミも知らぬうちに、イナリ姫が近滋国へと向かう段取りは、半日にして急速に整えられた。

 以前、倉鎌国へと里帰りした時のような、姫君の絶対安全をかろうじて唱えられる数十ほどの護送人員すら、揃える時間も無く。

 その結果がこの朝である。十名の、可能な限り腕の立つ武士を揃えた、護衛対象の貴ばれる地位を思えば薄い薄い守り。

 これでも普通に考えれば充分なのではあるが、皇族の姫君が異国へ赴く旅においては心許ないと言って間違いない。


 イナリ姫を乗せた籠を、七名の侍と三名の陰陽師が慎重に周囲を伺いながら、籠のそばにはアンズとコナツ、ナルミとタケスエ。

 家族旅行であったはずの旅路は、いつの間にか山波村から隣国を目指す四人が添え物に。

 姫君の突然の乱入――もとい参入は、楽しかったはずの旅を一変するにはあまりに充分な大事変だった。




 山波京から、本日の目的地である近滋村への道のりは、ゆったりとした歩みでも日が高いうちに到達できるほどには短い。

 前回は、別の事情があったから余計に遅い進行になってしまったが、まともな歩みならそれほどかからないのだ。

 少しは具体的に言うと、山波京と近滋村を二往復しても、山波村から摂泉村へと向かう距離にも及ばない。

 旅慣れしたアンズとコナツが、二人だけで山波京から近滋村へと元気に歩けば、朝に出発して正午前には着けるほどには近いのである。

 籠の中におわすイナリ姫様の快適さを優先し、ゆったりと進む旅はそのようにはいかぬが、それでも西の空が赤くなる前には着くはず。


 山波京と近滋村を繋ぐ道のうち、山波国内にあたる"山近街道"は以前もアンズ達が歩いた道であり、広さも歩きやすさも申し分無い。

 見通しの悪さやら狭っ苦しさとは無縁の、貴人の旅路に選ばれるには最適の道。

 そんな中にあって、籠のそばから離れず護衛に努めろとイナリ姫に勅命を賜ったアンズは、息苦しさが顔に出てるったらありゃしない。

 確かに確かに皇族の姫君の護衛は緊張する。ただし、そういう問題ですらない。


「アンズ、近う寄れ」

「!?

 は、はいっ!?」


 昼前に、そろそろ山近街道から"近山街道"――近滋国入りに至ろうというところで、行進を止めての昼食時。

 籠の垂れを上げさせたイナリ姫に手招きされ、冷や汗だらだらのアンズが籠の前に跪く。

 重箱に収められた、姫様のために朝早くから作られたお弁当を膝前に置いたイナリ姫の、にんまりとした表情がアンズには何よりも怖い。


「そなたは以前もよく妾を護り抜いてくれたのう。

 遅ればせではあるが、褒美をやろう。一口持っていけ」

「!?!?!?

 い、いや、そんなことっ……姫様のお食事の御裾分けなんて、畏れ多くてとても、っ……!」

「ほぉ~、妾の厚意を退けるか?

 そなたも神職者であるからか、随分と偉くなったものじゃのう?」


 いびり始めたイナリ姫。困ることを仰る。

 皇族様のために作られた御馳走を、庶民に過ぎぬアンズが頂くなどあり得ない。

 神様のように崇められる皇族様に一度捧げられた食べ物というのは、神職者に例えるなら、一度神様にお供えしたものに相当する。

 あまりにも遥かなる上座から下賜されたものは、たとえ御裾分けという形であっても気軽に受け取れるものではないのだ。極めて畏れ多い。


「い、い、いいえ、いえ……めめめ、滅相も……」

「いいから食え、妾が食わせてやるぞ。

 ほれ、黒豆じゃ。美味いぞぉ?」


 お箸でつまんだ黒豆を、アンズの顔の前に出してくるイナリ姫。

 口まで運んであげるほどのことはしない。自分で口を差し出せと。

 もはや断ろうとしても無駄なのは明らかであり、アンズは僭越を強制され、震えながら口を開け、差し出されたものを食べるしかない。


「どうじゃ、美味いか?」

「お、おいひいですぅ……

 ですけど、お戯れはそろそろ……」

「次は巻物じゃ。

 かんぴょうが良いか? きゅうりが良いか?」

「え、えらべませぇん……」


 甘味そのものが高級品のご時世に、甘くて美味しい黒豆。

 続いては、お米と具を海苔で巻くという手間をかけて作られたごはん。おにぎりの上位品。

 何を箸でつまんで差し出されても、アンズは畏れ多いことをしている自覚に胸をじくじくさせながら、それを控えめな口に入れて咀嚼することを免れない。

 美味しいんですが。きゅうりとご飯と海苔の組み合わせ、食感も味も素敵。


「次は茗荷(みょうが)じゃ。

 お口直しには良いものじゃぞ~?」

「ううぅ……い、いただきますぅ……」


 跪いたアンズが、びくびくしながらイナリ姫を見上げ、箸で差し出されたものを食べさせられる絵図。

 顔の少し前の場所に差し出されたものを、あーんして自分から顔を近付けていって、口に入れる姿はまるで犬のような扱いだ。

 こんな姿を人前で晒すなど、人によっては極めて屈辱的なことで、アンズだって恥ずかしい。

 食べてるものは美味しいのである意味役得だが。流石に姫君のために作られたお弁当は違う。庶民の舌には届かない絶品揃いである。


 恥を晒されているアンズから敢えて目を切っているナルミは、ひどいことするものだわと内心で憤っている。

 コナツはアンズの心中こそは察しながらも、因縁無ければ案外仲の良い光景に見えるんだがなぁ、とどう評価すればいいのか若干迷っている。

 コガラシとユキタダをはじめとする武士と陰陽師の大半は、気の毒な巫女だと同情気味。

 武士のうち一人は、アンズめ羨ましい、俺と代われと内心で祈っている。こらこら。


 アンズを出汁にお弁当を美味しく召し上がったイナリ姫が、再び出発の号令をかけたところで再出発。

 旅路は近滋国入りし、歩む道は近山街道へと名を変える。

 景観に山近街道と大きな変化は見られず、高低差も少ない山波京と近滋村を繋ぐ道ということで、これまでのように坂の少ない道が続く。

 国境を繋ぐ大きな街道というものはそもそもが歩きやすく作られるものだが、高低差による坂道だけは大地が作るものであり、どうしようもないものだ。

 その点、山近街道と近山街道によって繋がれる、山波京と近滋村を繋ぐ一本道は、とりわけ大自然にも慈悲を受けて歩きやすい国道(くにのみち)である。


「はぁ~、退屈じゃ。

 籠を止めい」


 イナリ姫の気まぐれな言葉で、籠を運ぶ人足ならびにそれを囲う一団の足ごと止まる。

 皇族様の意向に我が儘を思う者はいないため、それを不快に感じる者はいないのだが、アンズだけはびくっとする。

 退屈だと言うイナリ姫が、暇潰しに何か思い付いたとなれば、その矛先が自分に向いた予感しかしない。自意識過剰でも何でもない。


「アンズ、籠に入れ。

 妾の暇を潰せ」

「!?!?!?

 ごごごっ、御冗談でしょう!?

 私が、皇妃様の私室になど、っ……」

「いいから入れ」


 押し問答など面倒だとばかりに、低い声と鋭い眼光でアンズを恫喝するイナリ姫には、アンズも返す言葉を失うのみ。

 心の準備も儘ならぬまま、籠の中にお尻だけで座り、草鞋を脱いでその足先を加護の中へと入れていく。

 姫君のおわす私室にも相当する籠に、一粒の足の砂をも持ち込まぬ配慮は必須であり、何をするにも神経を遣う。


 アンズを捕まえた籠は、イナリ姫の一声により再び前に進み始めて旅路が再開。

 他所は揺れもするものの流石に姫様を擁する籠、貴人を不快にさせぬよう、極力揺れぬよう前に進める籠持ち人足の、熟練の技はなかなかのもの。

 後から思えばそう回想できるものの、狭い籠の中でイナリ姫と間近に対峙するアンズは、正座したまま小刻みに全身を震えさせるばかり。

 なにこれ、どうなってるの。私、何されるの? 何させられるの?


「くふふ……そう固くならずともよいぞ?

 別に、そなたをいじめるために招いたのではないのじゃからのう」


 はい嘘。そんなつもりが無い人ならそもそもそんな語彙にはならない。

 這うようにして顔を近付けてきて、吐息がアンズの口元にかかるほど顔を近付けてきたイナリ姫に、アンズはぎゅっと拳を握りしめて顔を逸らす。

 上体ごと退いてしまいたい衝動も、御近付きになられる貴人から逃げるなど、突き放すにも等しい不敬になり得るものとして封じる他無い。


「愛でてやろうというのじゃ。

 そなたも巫女として、常日頃から励んでおるようじゃからのう。

 妾はそなたのそうした実績を、決して軽んじてはおらぬのじゃぞ?」

「お……おゆるし、くださいませぇ……」


 可愛がってやるという発言に対し、勘弁して下さいという返答。

 経験則だってあるのだ。以前、籠を焼いてしまった返礼とばかりに、京に招かれてされたことの数々。

 イナリ姫が私を"愛でる"という、本来絶対あり得ないことを言う言葉が示唆するものは、あれと同じものの予感しかしない。


「よいぞ、アンズ。口を塞いでも。

 ゆっくり愉しめ」

「ひ…………っ、っ!?」


 この後、垂れを下ろして中身が見えぬ籠の中で、しばしイナリ姫がアンズに何をしていたかは描写しない。

 籠がしばしば中から揺れたり、両手で自分の口を覆ったアンズの口から、抑えきれず漏れた声が多少は外まで溢れたりはした。

 彼女の名誉のためにも、多くを語るべきであるまい。


 籠の中でアンズが恥辱に耐えていることが明らかな中、ナルミはびしばしと青筋を立てていた。

 親友の聞かせたくない声をあまり聞くべきでないと、コナツは籠からなるべく距離を取るが、ちょっと顔が赤くなっていた。

 武士と陰陽師らはいたたまれぬ想いであり、特に煩悩棄てるべしと貫徹してきた童貞ユキタダは、髪をかきむしりたいほど籠の中の出来事に参っていた。

 そして武士の一人は、たまんねえなと籠のそばに近付いて聞き耳を立てていた。こいつは打ち首になるべきかもしれない。


 しばらくして満足したイナリ姫から解放されたアンズは、がくがく震える足腰のまま、紅潮しきりの顔で籠から放り出されて歩く羽目になる。

 たいして長い旅でもなかろうに、アンズにとっては嫌なことばかりの国境越え。

 楽しい家族旅行だったはずなのに。誇張無く気の毒である。











 和大国全土の中でも最大の湖、近淡湖(ちかあわこ)を国の真ん中に据える近滋国。

 多くの山と山林を擁する点では山波国と大きく変わらないが、やはり単なる水源などには留まらぬ、あまりに壮大なその湖が有るか無いかは大きな違いだ。

 とある岸から湖を臨めば、どこであろうと目の前に広がるのは水平線。

 内陸にあって尚、果ての見えない海の如く、その広大さを人の目にまざまざと示す近淡湖は、人々が抱く"湖"という単語から想像させるものから一線を画す。

 国のどこからでも近い近淡湖のもたらす、水の上を駆けて散る涼しい風は、初夏たる今でも過ごしやすく、近滋国そのものが避暑地としても名高くあるほどだ。

 陸の大半を占める野山の光景は山波国とほぼ変わらぬ上で、隣国ながらもまったく異なる風土。

 国が変われば風土も変わるのは当然だが、隣り合う国同士でこうも気温や雰囲気もがらりと変わるのが、なんと言っても湖一つによるものだというのが雄大。

 ただの名物ではない。誰の目にも留まるほどの大自然の影響力は、人智はおろか神の力にも及ばぬほどのものである。


 そんな近淡湖に面して港を擁する"近滋村"は、この国の中でも最も栄える村の"一つ"として名高い。

 古来より、国の名と同じ名を冠する村は、国内でも最も栄えているのが殆どだ。

 時が経ち、国の名を冠する村よりも栄える村が他に育てば、最盛地の名を譲ることもあろう。

 だが、近滋村は違う。近滋国がその名を得、各地の町村がその名を冠した時から、最も栄えし村の一つと称されながら、唯一無二の一番ではなかった。

 そして、一番でないことを近滋村の地元民ですら、これが我が国の良いところだとさえ口を揃えて言う。

 いったい、どういうことなのか。

 それにもやはり、近滋村に古くから寄り添ってくれている、水運の要でもある近淡湖が大きく関わっている。


 水運というのは、人類が離れた地と交流するにあたり、多くの人や物の運搬が為せるものであるが、何よりもその速さもまた見逃せぬ魅力だ。

 水の流れと風を読む熟練の船頭に導かれる舟の進水速度は、人が駆けるその足とは比較にならない。

 舟の上では実感し難いが、気付けば歩けばあれほどかかる長いはずの場所へ、これほどの速さで着けるとは、と秘術のように思われるほど。

 広い広い近淡湖は、近滋国全体を水で繋ぐ水運の要であるが、ここを熟達の船頭に導かれた舟が毎日のように駆ければどうなるか。

 広大であるはずの近滋国の運搬や交流が、ありとあらゆる場所で一日で往復すら叶うのである。


 山波村と摂泉国の交流を例に挙げれば、その利便性は言うに及ばない。

 往路だけで一日かかるのだ。アンズのような神様の力でも借りぬ限り。

 同じような距離を、近滋国では一日で往復すら叶う。

 水運という力を得た近滋国の人々にとって、近淡湖というのは、そのあまりにも広い水面を以ってして、神様の力を擁した庭のようなものとさえ崇められる。


 近淡湖の南西に位置する近滋村だが、この村と同様に、"近滋国で最も栄える村の一つ"と言われる村が、湖の向こうにいくつもある。

 湖の北部に、東部に、そして南東部に。

 近滋村を含むこれら四つの村は、近淡湖を介して交流も盛んだ。

 すなわち、他国であれば陸路を用いて、離れた地への交流には時間も労力もかかるところが、この国では水運を軸に短時間で叶う。

 情報の伝達も早い。運搬される物も短時間で多い。有事の際の融通も言わずもがな。

 山波村と桑原村のような、近いからこそ最も親密な村同士のように、離れた地同士でも奇跡のように往来は早く、そして隣り合っているかのように親密。


 一つの村が頭一つ抜けて栄える瞬間が仮にあっても、隣村のように交流を重ねる村同士とあらば、仲の良い兄弟姉妹のように共に成長する。

 だから、抜きん出た"近滋国一番の村"は生じないのだ。

 長兄のように最も栄える村が、近淡湖の周囲に複数同時に存在し、それらが"最も栄し村"として隣国との交易を、活気に溢れて積み重ねる。

 近滋村は山波国と、近淡湖の北の大きな村は北の隣国と、東の大きな村は東の隣国とだ。

 そして、そうして得られたものを、近淡湖を介して家族のような隣村と共有する。

 さながら、一つの村が三国と同時に交易するかのように。それも、労力は三分の一に分け合いながらである。

 複数の村が国そのものの繁栄に寄与していることも、想像するに及ぶまい。


 競い合うことは発展に繋がる。村同士であってもだ。

 しかし、一度鎬(しのぎ)を削り合うことをやめにして、手を取り合うことで伸び合うこともあろう。

 いつ誰しもがどのような形で生涯を終えるともわからぬこのご時世、近滋国の在り方は、生き残り、背を伸ばすには、最も理想的ですらあろう。

 時代に適した生き方というものがあるとすれば、まさに近滋国はそれを踏み、だからこそ栄えていると言えるのかもしれない。




「やはりこの村は美しいのう。

 籠の中で過ぎ去った先日は実に勿体無かった」


 近滋村に到着した一向は、籠を一足先に宿へと運び、イナリ姫を先頭に村を歩く一団となっていた。

 とはいえ、頭数は減らしている。イナリ姫の隣にナルミとアンズ、その後ろをコナツとコガラシとユキタダが歩くという形だ。

 コガラシに至っては帯刀こそしているが、鎧を脱いで市井に紛れ得る服に着替え済み。ユキタダも同様だ。

 他の武士らや陰陽師らは、イナリ姫からはやや距離を取った場所で静かに歩き、周囲を見配る離れた護衛として存在感を匂わせずにいた。


 イナリ姫とナルミのお召し物は上等だが、付き従う者が凡の着こなしということで、ちょっといい生まれの御嬢様と付き人なのかな、と衆目には映る程度。

 まさか皇族がこの日突然訪れるとは思いもよらぬ近滋村の民に対し、空気を壊さぬこの配慮は必要だ。でないと不要な騒ぎを生む。

 この辺りはナルミの提言によるものであり、今朝知った突発的な姫君の暴走にも、閃きで以って異国への対応を導くナルミの聡明さが際立っている。


「のう、アンズ?

 この空気は、そなたの神様が恵みをもたらす山波村にも無いものが、幾許かはあるのではないか?」

「ええ、そう思います。

 道行く方々の平穏な日々を常なるもののように嗜む穏やかな御姿は、乱れある日が遠い日常の表れだと思います」


 若干のいやきちを含むイナリ姫の言葉ではあるが、アンズも迷わず同意の言葉を返答する程には、すれ違う人々の心のゆとりが明らかだ。

 近淡湖を介した水運は、あくまで内国での道に過ぎず、湾を介して他国と交流し、新たな価値観を取り入れ続ける摂泉国のような華やかさとはまた違う。

 我が家の安寧を守るため、向きは内々ながらも国の民の安らかな日々に最も寄与する近滋国の風潮が、この栄えながら穏やかな空気を生み出しているのだろう。

 賑やかさも人里の安定感を象徴するものには違いないが、静かで奥ゆかしく、しかしある日の不幸に怯えることもないこの空気も素晴らしい。

 どちらが人類史の安寧の象徴と称するにより値するか、議論の価値があるほどには、捨てがたいものが双方にある。その双方の片側が近滋村だ。


「とはいえ小腹が空いたな。

 のうアンズ、何か美味いものを出す店を探してきてくれぬか?」

「はい、承りました。

 お好みのものはありますか?」

「む……そうじゃな、奈のものが良いかもな。

 言うておくが、満足のいかぬものを紹介してくれようものなら、それなりの覚悟をして貰うぞ」

「わかりました、しばらくお待ち下さいね」


「あ、待て待てアンズ、俺も一緒に行くよ。

 二人で探した方が早いだろ」

「んふふ、ありがとコナツ」


「…………?」


 さて、ちょっと御身分が高そうな程度の空気を纏いながら、近滋村を歩くイナリ姫。

 ここでもアンズをいびっている。

 彼女の信ずる神様を最上とせぬかのような物言いといい、小間使いのように彼女を使う様といい。

 そばでそれを聞くナルミも、今宵に向けて怒りを溜めているところだ。


 ナルミ個人の感情としては、私の目の前でアンズをいじめるその言動にこそ一番腹が立つのだが、それを抜きにしても思うところは多々ある。

 アンズに嫌味言うために、山波村と近滋村を比較した物言いをしているが、その山波村を治めているのは誰でしたっけ?

 アンズを言葉攻めすることに傾倒して、ナルミの村長としての手腕にまで軽い嫌味を言っているも同然の浅慮ぶりは、充分なほど敵対に値する。

 神職者を顎で使うようなその振る舞いもそう。

 確かに神職者とて実権無き立場として庶民相応には違いないが、神に仕える者への扱いは、時の最高為政者とてそれなりに神経は遣うものだ。

 イナリ姫のアンズに対する個人的感情の所以はナルミも知るところだが、それにしたって皇族の振る舞いとしては許容できる範疇ではない。


 そして、何よりも。


「アンズ、大丈夫か?

 あんまり無理すんなよ」

「えへへ……大丈夫だよ、案外。

 私、もう開き直ってるから。

 どっちにしたって、なるようにしかならないんだからちゃんと尽くすよ」


 イナリ姫から離れたアンズに、駆け寄ったコナツがぼそぼそと話しかけた声も、その返答もナルミやイナリ姫の耳には届かない。

 だが、発する言葉に伴って、アンズが浮かべたその表情、横顔が、何よりもナルミの頭に血を上らせた。

 その時ナルミは思わずイナリ姫を一瞥したが、期待したほどおろおろしていないアンズの態度に、イナリ姫は怪訝な顔をしている程度。

 もうこれは我慢ならない。ナルミに自制心が無かったら、今この時点でイナリ姫を大声で叱っている。


 あんなにも楽しみにしていた家族旅行が、姫君の護送という"お仕事"に変わったことへの、悲嘆、落胆、寂しく哀しい作り笑顔。

 ナルミはイナリ姫のことも愛娘のように可愛がっているが、もう一人の愛娘にあんな顔をさせる限りでは話も変わってくる。


「ありがとね、コナツ。

 私、充分幸せだよ」

「……まあ、お前がそう言うならそういうことにしとくわ」


 コナツもちりちり苛立ち始めているが、ナルミは今のアンズの横顔を見て完全に許さなくなった。

 ええわかるわよ、あの子はそういう子なんだから。

 しんどい時に、そばにああしていてくれる人がいるなら、それだけでも充分に幸せだと言ってしまうし、思ってしまう。

 テンジンはとうの前から頬杖ついて憮然顔であるが、今あるささやかな幸せだけでも満足だと、己の心に蓋をするアンズを見た母の心境たるや如何なるか。

 我慢の限界。少しでも吐き出さねば気が済まなくなった。


「ねえ、イナリ」

「はい。

 なんでしょう、お姉さま」


 無邪気に、最も敬愛する人物に話しかけられたことへ嬉しそうに振り返るイナリ姫。

 そんな顔をされても駄目。今だけは、ナルミの目にイナリ姫は可愛くなど見えない。


「今宵、一献いかが?

 近滋のお酒も、美しい近淡の水を使うだけあって逸品よ?」

「はい、ご一緒させて下さい。

 お姉さまにお酌させて貰えることを想うだけで、楽しみです」


 本当に、アンズ以外に対しては姫様なのだ。

 不機嫌なナルミは、今ここでふと思い返し、アンズとイナリ姫の間に確執を作り出した、帝の長子様に対する憎しみめいたものすら脳裏に描いていた。

 皇族に対して不敬である。口に出さねば罪にならないというだけ。

 しかし思うだけでも罪深いはずとされるはずの、時期帝に対する憤りをも禁じ得ぬほど、今のナルミは頭にきていたということである。




 その日の夜。

 ナルミとイナリ姫は近滋村一番の格式高い宿に泊まり、他の一同は近隣の宿に羽を休める夜。

 晩酌に誘われたイナリ姫が、ナルミの部屋を訪れたことが、明日以降の姫君の立ち振る舞いごと一変させる事変の幕開け。

 不自由無く日々を過ごしてきた皇族の姫君には、そんなことなど想像もつかない。


「いらっしゃい、イナリ」

「はい、お姉さま。

 私もお姉さまがお気に入りそうなお酒を持って……」


「そこに座りなさい」


 表面上は穏やかな笑顔で迎えたナルミに、イナリ姫もナルミが喜んでくれると思って持ち込んだ、お酒の入った徳利を甲斐甲斐しく見せようとした矢先だ。

 イナリ姫が部屋の襖を閉め、余人の目が一切届かぬ密閉空間となった瞬間に、ナルミの表情が豹変する。

 お上品な面構えそのものに陰り一つ無く、ただ無表情と化しただけながら、明らかに冷ややかな眼差しには、ことここに来てイナリ姫も異常を感知しただろう。

 子供でも、いや、子供だからこそ、怒った大人の表情には敏感だ。


「……お姉さま。

 妾、なにか粗相をはたらきましたか?

 お姉さまがアンズのことを愛しているのは妾も承知……」


「いいから座りなさい!」


 荒げた声も、枯れず澄んで美しい。

 しかし、その迫真を目前にしたイナリ姫は、背筋を正してナルミの前に置かれた座布団に座る。

 心当たりはあるのだ。だが、譲るつもりはない。

 たとえ最愛の人物が相手であろうが、妾があいつをどのように思っているかは、あなたもご存知のはずでしょうという切り札がある。


 それが、そもそも通用する札たり得るかなど関係ない。

 真に怒れる聡明なる大人は、どのような言い訳をされようと、逃げ道などすべて塞ぐ段取りを完成させた上で叱る。

 アンズが、山波村の子供達を叱る時も同様だ。

 今のナルミは、あらゆる事情を踏まえた上で、今宵イナリ姫が真に反省するまでは逃がさず、そしてそれを絶対に果たす心算でこの場を整えている。


 幾度もアンズに悪夢を見せてきたイナリ姫。

 人を呪わば穴二つだ。皇室に嫁いで以降、たった一度の屈辱を除いて挫折とは無縁だった姫君に、この日凄まじいほどの報いが下る。

 アンズを傷つけられ続けたテンジン様が下す雷にも匹敵するであろう、帝の血を引く真なる貴人による、有無を言わせぬ憤激(かみなり)がだ。

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